第一章 【悲報】ド底辺どころかむしろ無

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 再生数が伸びるのではと期待をしていたゴールデンウィーク。しかし、その間に伸びたのは俺の髭だけだった。  動画投稿をはじめて一カ月。毎日更新しているが、どれも数回ずつしか再生されていない。もともと名のあるビューチューバーの動画なら公開初日から数万、下手すりゃ数十万回なんて再生されるわけだけれど、やはりそう簡単ではないらしい。  ゴールデンウィーク最終日、動画撮影の機材と化した俺のスマホが久しぶりに鳴き声を上げた。  無料通話アプリの通知だ。何だろうと思って見てみると、見慣れぬメッセージ。 「モカさんがあなたを友達登録しました」  なぜ、モカが。連絡先は交換していないはずなのに。急いでこちらも登録し、トークルームを開く。 「びっくりした。どした?」  と、なんでもないようにメッセージを送ってみる。すぐに既読が付き、 「ケンタから連絡先聞いた。よろしく!」  という返信とともにスタンプ。ケンタというのはやはり大学の同期で、ちょっとチャラい感じで苦手だった。ほとんど連絡なんて取ってない。そのケンタとモカが互いの連絡先を知り合っていたんだという別に不思議でもなんでもない現実になぜか腹の奥が痒くなる。 「今日、また銀閣寺の方まで行こうかなって思って」  で、俺に連絡をしてきたというわけらしい。そういえば、この近くのオススメスポットを、と言われていたが何も教えないままだった。 「家にいるから、こないだのバス停でいい?時間分かったら教えて」  そう送るやいなや大急ぎで歯を磨き、髭を剃る。カミソリが錆びてしまっていたけれど、買い換える時間もお金もない。洗面所に置きっぱなしだったワックスの使い終わりの蓋を開け、底にこびりついている残滓で髪を整える。この前はヨレヨレのジャージだったから、少しでもマシなものをと思って皺の比較的少ないTシャツに着替える。  あとは待つだけ。その間、モカのチャンネルが更新されていないか何となくチェックしようと思い、ビューチューブの画面を開く。  ——新着コメントがあります。  その表示が俺を踊らせた。モカからの連絡よりももっと慌ててその画面を開き、内容を確認した。  ——臭そうな小太り男の貧乏生活とか見てて最悪。なんか微妙にカッコ付けてるのも草、気持ち悪くなってきた。誰もお前が汚い部屋でゴミ食ってる様子とか見たくないしイタいから早くチャンネル閉鎖しろ。  俺は少しの間そのまま固まり、ゆっくりスマホを置くと、いつも撮影をしている座椅子に尻ではなく頭を預けて横倒しになった。  単なる一意見ではない。これは、俺が見出したあたらしい日々の、そこにあるささやかな張り合いへのアンチテーゼだ。それはすなわち、俺自身の存在の否定だ。そう受け取った。いや、それ以外の何物でもなかった。  急に、何もかもが馬鹿らしくなった。三カ月もあればそれなりに形になるだろうと思っていたものが、その兆しすらない。  生活は。最悪、生活保護がある。家賃なんて、この銀閣寺荘に引越しを決めたときに親が保証人になっているんだから、親から取り立てればいい。ずっと、今の俺の落ちぶりを知られたくなくて黙っていたけれど、どうだっていい。  それよりも、ようやく見つけた、の芽を無神経に踏みつけられたように思えて、悲しい。  こうなると、何もする気にならない。おそらく到着時間を知らせているのだろう、俺のスマホが二度鳴いたが、開きもしない。  モカは、やっぱり俺とは違う世界の人間なんだ。いいところに就職して地位も得て、趣味だってちゃんと楽しんでいる。あの薄赤いピアスだって何千円かするんだろうし、それがよく似合うボブカットも、しょっちゅう美容院で整えているんだろう。  どうして、俺が。  どうして、俺だけ。  ビューチューブすら、駄目なのか。それすら、許されないのか。やっぱり、ゼロにどんな掛け算を持ちかけたところで、もたらされるのはゼロという解だけなのか。  数十分が経過しただろうか。スマホが今度は継続して鳴いた。寝転びながらしばらくその画面を見ていたが、気を取り直して応答した。 「やっほー。息してる?」  その物言いがなんだかおかしくて、干からびた湯葉みたいになった俺の心は少しだけ潤いを取り戻した。 「バス停、着いたんやけど」 「ああ、ごめん。すぐ向かうわ。バイトがキリ付かなくてさ」 「あ、そやったん?家にいるって言うてたから、休みなんかと思って。ごめんごめん」  矛盾したことを言った。しかも、嘘までついて。仕事じゃなくバイトとつい口にしてしまったから、モカに卒業後ロクな生活をしていないことがバレてしまったかもしれない。  絶望の淵からどうにか身を起こし、銀閣寺荘をあとにする。ちょっとだけ北には哲学の道なんていう観光スポットがあって、ついこの前までの桜のシーズンには細く通された水路脇いっぱいに桜が咲くけれど、今年は咲いたのも散ったのも見ていない。  そんなことを思いながら、それとは反対の白川通りへ。比較的大きな通りだからバス停は道向かいに北行き、南行きと二つあるわけだが、モカはちゃんとこの前見送ったバス停の方に渡ってきていた。  初夏らしいブラウスに紺色のロングスカート。肩からは、小さいけれど高そうなバッグ。お洒落だとか可愛いだとか思う前に、おーい、と人懐っこく手を振るモカの目に映っているであろう自分の姿を想像してしまい、それと比べると腹立たしい思いだ。 「既読ぜんぜん付かへんからどしたんかと思ったけど、ごめんな、仕事中やったら言うてくれたらよかったのに」  困り顔で許しを求めてくる。そうすると、不思議と腹立たしさも隠れてしまう。可愛い——と認めきってしまうのは癪だから、ブスではないということにしておいてやる——のは得だなと思った。 「んで、どこ行く?」  モカは当たり前のように俺が近隣スポット案内をしてくれると思っているらしく、カメラを片手に期待の眼差しを向けている。 「まあ、この辺やったらちょっと南まで歩いて南禅寺か、もっと行ったらインクラインかな。桜は終わったけど、青紅葉なんていいんじゃない」 「あー、いいなあ!」  職場でもこの明るさなのだろうか。なるほど、上司のオジサンもモカを重用したくなるはずだ。  南禅寺からインクラインにかけての散策を提案したのは、モカがアップしている動画ではまだ紹介されていなかったからだ。それを俺はしっかりチェックしていたからこその提案。  ちょっと得意げになり、訳知り顔で歩きだす。  少しでも雰囲気のある道をと思い、白川通りから坂を登って少しの、銀閣寺荘のある細道をゆく。そして俺の絶望の巣の前へ。 「うわ、すご」  モカが視界の端に映った銀閣寺荘にカメラを向け、思わず声を上げたので、俺は一刻も早くここを立ち去らなければと思い、歩幅を広げる。 「ハルタ君。ちょっと待って。ここも撮影していくし」  やめてくれ、とは言えず、俺は渋々従った。 「はーい、モカちゃんねるです!」  あろうことか、ここから散策動画の撮影を始めるらしい。通り過ぎるだけなら問題ないと思ったのだが、どうやらこの老朽建築物をバックに動画のオープニングを撮るということを思いついてしまったらしい。  声に気付いた大家さんが顔を覗かせでもしたら、アウトだ。ジェイソンステイサムの映画の五億倍スリリングなシーンに冷や汗を流す俺を置いて、モカは動画のはじまりの挨拶を続ける。 「というわけで、出発ぅ」  とモカが言ったから、カメラに映り込まないように歩き始める。その呼吸が分かるくらいには、モカの動画を見ている。  このまま歩いて南禅寺経由でインクラインまで行けば、けっこうな長さの撮影になる。動画何本か分くらいの量になるだろうから、モカはかなり助かるはずだ。  そう思って歩を進めたとき、最も恐れていた事態に。 「あれ、相川くんやないの」  大家さん。オープニングのくだりを撮影するモカの声を聞きつけて、やはり出てきてしまった。家の前を通る救急車の音を聞いただけでもどこに向かうのかと表まで出てくるような人だから、俺の危惧が現実になったのも無理はないだろう。 「なんや声するなあ思たら。家賃、大丈夫なんやろね」  とモカに最も聞かれてはならないワードが突き刺さる。横目で見るとカメラを下げ、お邪魔してます、と会釈をしている。 「あら。こちらは?」  そんなわけないだろうに、大家さんはそこではじめてモカの存在に気付いたように顔を向けた。 「お騒がせして、すみません。相川君とは、大学の同級生で」 「あら、そうなん。あんた、あかんやないの。こんな綺麗な娘さんとお付き合いするんやったら、せめてバイトでもせんと。一日部屋にこもってなんやらゴソゴソ話し声するて、一○一の鮫島さんから苦情来てるんえ」  ねえ、と大家さんはモカに同意を求めるようにして困り顔を作る。  言いたいことだけ言って、大家さんは魔物の巣に帰っていった。  最悪。それだけが、俺の全宇宙に満ちていた。  モカの方を盗むようにして見ると、そっとカメラに手を伸ばし、録画ボタンを再び押した。  撮影は、一旦ストップということだ。 「今の、大家さんやんね?ここに住んでんの?言うたはったこと、ほんまなん?」  モカの声や表情は、俺が嘘をついていたり、何かを隠していたことを咎めるようなものではなく、むしろ、心配するようなものだった。  それが、より俺の世界を暗くした。  いよいよ、最悪だ。
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