第二章 【ご報告】モカちゃんねるに編集スタッフが加わりました。

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 たった十五分の動画を作るのに、じつに半日以上を要した。自分の動画ではないから、と思い、丁寧に仕上げたからというのもあるだろうが、人気ビューチューバーの苦労が少し分かったような気がした。  目覚めたときは、日付が変わろうとしていた。太陽から二七〇度ずれたタイムスケジュールになっている。  南禅寺編の動画を、データのままモカに送信する。感想が楽しみだけれど、気にいるかどうか不安でもある。  ——ハルタ君、行動力あるから。  モカがそう評した俺が幻にならないように。少なくとも、すぐバイトも見つけて自ら買って出た動画編集も一日で仕上げた。つい一日二日前までゾンビに噛まれたモブキャラみたいになっていた俺からすれば、ずいぶんな頑張りようではないか。  明日の仕事終わりかなと思っていたら、時計が一時を回ったくらい——昼のそれと勘違いした俺の腹時計が絶叫している——になり、モカから連絡。 「見た見た!めっちゃいい!」  みじかいその一文と、アニメのキャラが踊っているスタンプ。続けて、ちゃんと見せたいところが見せられているうえ、笑いもあって退屈じゃない。テロップや効果音もいい感じなどと絶賛の嵐が巻き起こった。 「これ、投稿してもいいの?」 「当たり前じゃん。モカの動画だよ」  気にいってくれてよかった、ずっとトイレを我慢している幼児みたいになってました、とは言えない。 「さっそく明日投稿する!ほんまにありがとう!」  俺はスマホを抱きしめて明け方に鳴く鳥みたいな声をひとつ立て、汚い床に転がった。下の階の鮫島さんからまた苦情が来るかもしれないが、まあそれはいい。  そのまま同じ調子でインクライン編も作り、モカが南禅寺編をアップする頃にはまたそのデータも送ることができた。  あとは、視聴者の反応を待つのみ。毎日、モカからチャンネル登録者が一人増えた、いいねが三つ来たなどと俺のスマホはこれまでにないほど忙しく鳴いているが、知らせてもらわなくても俺が一番気になって三秒に一回くらいチェックしに行っている。  そうこうしているうちにバイト初日を迎え、絶対に誰かのお下がりじゃんと確信するに十分な、使い古されたエプロン——部屋は汚いくせに、なぜかこういうのは気になる——に着られた俺が、あのクセの強い夫婦の喫茶店にいるという状況が開始する。  喫茶アトムという名は、先代が鉄腕アトムが好きで付けた名前だそうだが、短絡的すぎるだろう。  喫茶店でのバイト経験があるから、バイト自体は難しくはない。最初だからキッチンに立つこともなく、お客さんが来たらオーダーを取り、出来上がったものを持っていくだけだ。  暇な店だからバイトいらねえんじゃねえのと思ったが、土日になると午前中から案外混む。  いっとき激減したにしろ、じわりじわりと観光客は増えている。大学生くらいのグループも見受けられる。  そんな、はじめての土曜日の昼。軽食を求めるお客さんが集まりはじめた時間に、上の階のマスター夫妻の自宅に繋がる店の奥の階段が鳴る。 「おはようございます」  現れたのは、女性。娘さんだろう。俺のとはデザインの違うエプロンをしている。  相川さんですね、娘のナナコです、よろしくお願いします、と挨拶をしてくるそれは俺と同じ種族の生命だとは思えなかった。  綺麗な黒髪。真っ白い肌。ちょっと大きめの口にリップが映える。笑顔になると目尻に皺がけっこう強く浮かび、それがまたいい。エプロンが胸のあたりでこう、なんとも言えない曲線を描いていて—— 「あの——」 「あ相川でフンスよろしくお願ェしますです」  俺が硬直しながらフンスフンスと鼻息を立てているのを訝しがられた。即座にそれを察知して慌てて挨拶したものだから、またアカバネイヒイヒコミュ症虫が現れた。もうフンスって言っちゃってるもん。  ナナコさんはよろしく、とまた美の女神ヴィーナスが嫉妬するような笑顔を俺に向け、そのあとすぐ同じ笑顔を店の入り口に向け、いらっしゃいませ、と入店してきたお客さんを迎えた。  大学を卒業した、と言っていたから、俺と同い年か一個下くらいだろう。土日の昼だけ喫茶店を手伝っているのだろうか。  初見と思われる若い客も男女問わずナナコさんがオーダーを取りにくるとするすると注文しているし、常連らしきオジサマ方の人気も抜群なようだ。  仕事ぶりも素晴らしい。てきぱきと動き、よく眼を配り、奥さん自慢のオムライスが出来上がる間や、マスターがじっくりと——ときどき首を傾げながら——コーヒーを淹れている間を持たせるために水を注ぎに回ったりしている。  なにかしなくては、とカカシの方がまだ役に立つぞというほどの棒立ちぶりを発揮していた俺は我に返り、お客さんが立ち去ったあとのテーブルの片付けをした。  途中、ぱちりと眼が合うと、ナナコさんは眼だけ細めて笑いかけてくれた。  ——まだ慣れてないのに、教えるのが下手な両親でごめんなさい。困ったことがあれば、なんでも聞いてくださいね。応援してます!  と勝手に俺の脳内でセリフが自動再生されているとは知らないだろう。  なんというか、モカにはない清楚さがある。ゆったりとした京都弁も、大家さんやマスターの奥さんとは違って美しい。それでいて大人しくはなく、初対面のお客さんにこのパンケーキがオススメですよ、こっちの出汁巻き卵とチョコが乗ってるやつは最悪にマズいんでやめといた方がいいです、と忠告してひと笑い取ったりもしている。  モカは明るいけれど、なんだかガチャガチャしてるなあと思う。動画の中でも、すごい、とかヤバい、とか嘘でしょ、とか待って無理、とか感嘆を表す語彙ばかり飛び出し、かつバリエーションが少ない。綺麗に手入れされたショートボブからはいい匂いがするけれど、ナナコさんみたいな黒髪ロングはやはり男の憧れだ。  モカが今時のポップスだったら、ナナコさんはモダンジャズ。音楽の素養ゼロの俺が精一杯背伸びをしてようやく出てきた喩えがそれだ。  二十五席の店内はずっと満席で、ようやく一息つけたのは二時くらいになってからだった。 「また三時ごろから混んでくるさかい、今のうちにお昼食べ」  と奥さんに勧められ、エプロンを外してカウンター席について賄いを——奥さんではなくマスターの出してくるそれは、今のところ毎日世界不味いもの選手権連勝中だ——待つ。 「お父さんの料理、よく食べられますね」  ナナコさんが当たり前のような顔をして隣に座ってきたから、俺は硬直してしまった。 「あれでしょ。新作メニューのテイスティングや言うて。前のバイトの人、これが嫌で辞めたんですよ」 「アホなこと言いな。相川くんはな、ちゃんと真剣に味見して意見をくれるんやで」  とマスターが野太い声を立てる。 「あ、じゃあこのエプロンもそのバイトの人の——」  俺はどうにか雑談をしようと、俺の使い古されたエプロンのことへ話題をシフトした。 「ああ、それはわたしのですよ。ちょっとお母さん、新しいバイトの人なんやし新しいの用意しといたげなあかんやん」 「ああいやああナナナコさんのだだだったら俺全然平気でファサ」  ナナコさんが俺のことを想って意見してくれている、と天にも昇る気持ちの俺の唇が、また悪い遊びをしている。  ナナナコさん、ってなんか都市伝説の妖怪みたいになってるじゃんとセルフツッコミを心の中で決めるとそれが笑いになってしまい、俺の喉が謎のファサファサ音を立てる。 「なんか、相川さん、面白い人ですね」  この場合、変人という評を下されたと解釈するのが妥当だろう。まあ、俺ごときがこの女神の前で息をしている時点で奇跡だから、悔やめるほどの立場にはない。  その点、モカはやっぱりガサガサしている。比較する対象が俺の天地の間にはモカしかないからモカには悪いが、モカがナナコさんみたいだったらもっと動画も伸びるのになあなどとつい思ってしまう。 「お、さっそく仲ようなってんのかいな」  奥さんがワイドショーを見るような眼を我が娘と新人バイトに向けてくる。  それにはナナコさんは答えず、ちらりとこちらを流し見た。俺はそれだけでパンツの中に蜂でも入れられたかと思うほど飛び上がりそうになったが、これ以上変人と思われるわけにはいかないので我慢だ。 「ナナコ、あんた彼氏募集中ちゃうの。相川くんなんか、誠実そうでええんとちゃうの」 「もう、やめてぇな、相川さん困らはるやんか」  いいや、困らない、もっとだ、もっとやれ、と俺は心の中で奥さんの後援者になった。 「相川さんかて、そんなん言われたら迷惑やって。彼女くらいいてはるんとちゃうの」  ねえ?と俺に同意を求めるナナコさん。 「あああ彼女はいていていないです」 「あら、そうなん。ほしたらナナコなんかどう?ほんでゆくゆくは結婚してお店を——」  夢の国に永住権を得た奥さんを、ステイサム、いや、マスターがおい、と引き戻す。 「ナナコに結婚なんか、まだ早い。相川くんかて、もっとええ人がおるはずや」 「本気にせんといてぇな、もう。いつまでも娘離れしいひんのやから。わたしもう社会人やで」 「そらそやけど」  一見コワモテのステイサムも、娘の前ではこの調子らしい。 「まあ、あれやな」  と、ステイサムがまた名前のない料理を俺に提供してくる。 「結婚するねやったら、ナナコはまず料理やな」 「お、お父さん!」  ナナコさんは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。かわいいがほとばしって鉄板くらいなら切断できそうな威力だ。 「こいつな、誰に似たんか、料理だけはあかんねや。こないだも白ワインと酢ぅ間違えたし、カレー作る言うてカレー粉入れんと味のない肉じゃが作るし」  誰に、というのは聞くまでもないだろうが、意外な欠点だ。見たところ才色兼備スポーツ万能、神に選ばれて産まれてきたかのようなナナコさんでも、料理だけは駄目らしい。  それもまたかわいい。完璧超人ではないのが一層いい。ナナコさんが作ったものなら、たとえそれが目の前で怪しげな湯気を立てているものと同じだったとしても、俺は喜んでそれを食らうだろう。  さて、俺の大事な仕事だ。  マスターの前例無視の創作料理について講評をし、その暴挙を思い止まらせる。  なんだか、色々いい感じだ。
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