しじまの啼く聲。

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 その聲を聴いてはならない。その存在を見てはならない。  その聲を知ってはいけない。その存在を認めてはいけない。  九州地方の一つの村で、言い伝えにもならないような、誰も知らない神様の話。  しじまはそこで死んでいる。  ◆  午前四時前。地方都市からかなり外れた、片田舎の中でも山奥の方に一軒佇む家の傍で、夜闇と薄霧が包むような未だ日の昇らない時間に軽トラックのハイビームが点いた。  蒸されたエンジンに軽トラックが動き出す。  乗り込んでいるのは齢七十にも迫るというのに、日々のトレーニングを思わせる屈強な体格をした熟練の猟師だ。彼の息子に言わせれば、「和製シュワルツェネッガー」と評されるほど、その覇気というものは歳不相応に現役を続けている。  山中にある彼の家から、およそ車一台分しか渡れないような斜面沿いの細道を降り、男は山の麓へと降りる。やがて合流するのは国道らしい、山間を突き抜けていく道路まで出たところで男はさらに百メートルだけ進み、路肩に軽トラックを停車させた。山の方へ振り返れば、きっとよく男が足を踏み入れているのだろう、獣道にも似つかぬような人一人分の道というのが、森の中へ続いていくように伸びていた。  車から降り、男は猟銃を肩に背負う。キャップを被り、懐中電灯を腰に吊るし、左腕にはショットシェルホルダーを装着していた。約八本の単一電池に等しい幅をした銃弾を羅列して並べたものであり、一言形容するならば厳つい。彼の風貌と合わせてみれば、第一印象は殺し屋になるだろうと彼の知人は誰もが思う。  そんな出立ちをした男。  森の中へと足を踏み入れる。  この時間帯の森というのはひどく静まり返って不気味だ。時期としては秋も終わって久しいような狩猟期間――十一月の半ばにあたり、その冷え込んだ空気というものがどれほどであるかは想像に難くない。  とはいえ男が狩りというのを生業にして、三十年以上の月日が経つ。  この寒空も慣れたものだった。  散策を続ける。この森には鹿や猪がよく見られ、この時間帯であれば動き回る個体も少なく見つかればまず銃で狙えるのだが、数日に一度見かけられれば何よりというレベルの話。辺りを見渡しながら哨戒を続ける。  それから、約三地点に仕掛けた罠の見回りも進める。こちらは時と場合を選ばずして掛かることが多く、その成果こそまちまちであるが、男の年間狩猟頭数が100頭以上であることを鑑みれば焦るような事実でもない。  なお、年間100頭はかなりの腕前が成せる大台であると補足する。  そのため、男の狩りは非常に落ち着いたものであった。  早朝は収穫なし。罠のチェックも済ませ、日も登り切った朝方に、男は本日一回目の見回りを終了する。  猟師の一日とは主にこう言ったものだ。  特に市区町村から「鳥獣を狩ってもいいですよ」と許可の出るおおよそ十一月から翌一月三月などの違いはあるが、主に冬場の期間は目に見えて浮き足立っている。  のち、男は午前九時、午後三時と計三回森に入り、獲物を探すだろう。  ――つまり猟師は、忙しいのだ。 『親父にちょっと頼みたいことがあるんだが……』  それは息子から珍しく、粛々とした躊躇いある様子で投げかけられてきた電話だった。  元より無口な性格をしているため、受話器こそ受け取るものの、重苦しい呼吸音のみで返答をしない男に対し、その息子である通話相手は伺うような拍の空け方をしながら言葉を続ける。 『どうしても出張しなきゃいけない用事が出来て、その間娘を預かって欲しい』  息子は片親だった。男から見て孫にあたる、彼の子供二人は小学低学年生とまだ幼く、妻であった彼女らの母親は持病で若くして亡くなっている。要するにその頼みごとも、子供だけで留守にすることも出来ないが頼る相手が実家しかいないから。であることを瞬時に男は見抜いていた。  仲は良くない。息子は親不孝者だ。突っぱねてやってもいいのだが、シングルファザーになって以来、息子が孫のために尽力していることも知っており、また息子の性格的にもこれが甘えではないことを理解した男は、二つ返事とは行かないものの了承を示す。 「今は猟期だ。それでもいいならうちへ来い」 『助かるよ、親父』  そんなやり取りを経て、数日後。  男が一人で住まう、森を切り開いて作られた昭和初期からの一軒家に、細道を駆け上がってくるレンタカーが到着していた。 「親父いないのか」  敷地は広いが駐車場というものはなく、下界に繋がる細道の邪魔にはならない位置で適当に停車させたワゴン車から三十代の男が降りる。野性味溢れる屈強なこの家の家主とは違い、俗世に染まり切った特別取り柄もないような会社員らしき若者は、その後部座席で手遊びをしてはクスクスと二人楽しくしているような双子の娘をエスコートするように扉を開けて降ろしてあげた。  姉である、天真爛漫そうな少女は広大な自然の景色を前に目を輝かせて楽しそうにし、対して人見知り激しそうな妹の方は若者に抱えられて背中を何度もさすられている。 「こら、ゆう、動き回らない」  と、父親に窘められて、今すぐにでも森の中へ突入してしまいそうだった姉の侑菜は肩を落として足を止めた。くるりと反転し、すごすごと引き戻ってくる様子は実に不満げで愛らしく、父の表情をパパとするような慈愛のものへと変化させるが、当の本人はまだどこかウズウズとした逸る気持ちを抑えられていないようで、さながら待てができない子犬のようだ。どうしたって彼の口許は綻ぶ。  それは、有り体に言えば溺愛で、親馬鹿とも言えるようなもの。彼にとっては幼少期の反動でもある。とはいえ、だからと教育を放棄せず、娘二人が言いつけを守る良い子に育ってくれているのは、一重に努力の賜物でもあった。  足元まで寄り、父の一撫でを享受しながら、見上げた侑菜はそのすぐ傍らで背中を向けて抱えられている妹・冬乃へと両手を伸ばす。  父の独占に思えたようだ。 「お姉ちゃんがお前をご所望だってさ」  冬乃を下ろしてあげる。彼女は不思議そうに父の顔を見ていたが、そのすぐ後ろからガバッと抱きついてくる侑菜に対してすぐ振り返り、笑顔になって、いつものようにじゃれ合い出した。先程までのべったりはなんだったのかと不服に思うが、父はやはり嬉しそうだ。  立ち上がり、一人取り残されたような形の父はふっ、と長旅と子守による疲れを短く吐き捨てて張り切りながら、実家の方へと目を配る。  現在時刻は午前十時。彼はこの後すぐ四キロ先の他県へと一泊二日の出張業務に向かわなくてはいけないため、あまり待つ時間はないのだが、家主の出迎えは訪れない。  そもそも出迎えてくれるほどの優しさを求められる相手じゃないのも事実だが、この時間に帰ると伝えておいたはずなのに、風通しのいいような古き良き古民家然とした家屋には人の気配がないあたり。  息子は分かりやすい悪態をついた。 「はぁ〜ったく……」  目眩の感じていそうな様子で眉間を抑える息子の姿に、案じたように冬乃が彼の裾を引いた。たちまち息子は、父として取り繕うように疲れ顔を隠しながら、冬乃を安心させようとして――。 「ねえ、ねえ、こわい」 「……嘘だろう」  細道を徒歩で上がってくる、やや返り血のついた屈強な男の姿に、息子は子供の目元をすぐに覆い隠して自らも嫌悪感溢れる表情をした。  冬乃はそのまま彼に寄り添い、侑菜は目元を抑えてくる父の左手を振り解こうとか弱く暴れるなかで、こちらに気付いたらしい家主が無表情のまま息子を見据える。  胡乱な目つきを送り返して。 「教育に悪い」 「む……」  不快そうな息子の声に、さしもの猟師も素直に応じた。  ◆ 「止め刺しをして川に置いてきたところだ」  五分後、着替えを終え、洗面台で汗を流してきた猟師の男は、使い古して硬質的にさえ思えるタオルで顔を拭いながらそう言い訳した。  猟に関する専門用語で、止め刺しとは、罠に掛かった鹿や猪を仕留める行為のことを指す。  罠に掛かればそれで終わり、というわけではない罠猟において、無抵抗かあるいは死に物狂いと化した獣を仕留めるという行為は、純粋に隙を突くような銃猟とは全く異なる技術と精神的苦痛をもたらす。それは猟師サイドに留まる話ではなく、獲物が長く苦しむことにも繋がり、無理に暴れ回るようでは罠の破壊から食用部位の内出血などにも繋がるため、出来るならば早期に、そして的確な処置が求められる立派な命のやり取りだ。  話を伺うところ、男が今回狩りに成功したのは一年目ほどの牝鹿のようだった。  止め刺しを行い、足に絡みついたワイヤーを外し、その後引きずって川に下ろす。動脈を切ることで血が流れやすい状態になったところで、一日二日は様子見してもいいだろう。猟師や地域によって止め刺し後の扱いは異なるが、今回ばかりは男もそれだけの処置を済ませて森に置いてきたのだそうだ。  息子のため息で句点を打たれて。 「んじゃ、俺はそろそろ時間だから……侑菜、冬乃、良い子で待っていられる?」 「うん! だいじょおぶだよ!」 「早く、かえってきてね、パパ」  ぽんぽんと頭を叩いて二人を宥めている。 「親父、早速で悪いけどよろしく頼む」 「ああ」  父の顔と、息子の顔。その二つを上手に切り替えて扱う息子に妙な感懐を覚えてしまいながら、男は重苦しく頷いた。孫二人へと目を配れば、やや不安そうにする妹と、今にも踊り出しそうに気分を高める姉の姿がそこにあり、男としても初経験となる孫の子守に薄らと緊張感を覚えている。  不安を七分、安堵を三分に収めた顔で、息子は覚悟を決めた。 「お爺ちゃん怒るとめっちゃ怖いからな。心配させないようにしてくれ」 「はい!」 「ぅ……うん」  大手を振って玄関を跨ぐ息子の、孫に向けられた笑顔を傍目に男も見送る。  そうして、長い一日が幕を開けた。  ……とはいえ。  男の教育方針は元より放任主義だ。その相手が孫ともなれば、必要以上に口出しすることなく自由にさせてやろうとさえ思っている。思っていた、のだが。  どうやら、暴れん坊が過ぎるらしい。 「きゃははっ、にへ」 「ま、待ってよーぅ」 「………」  表情の機微こそ僅かであるものの、男、いや祖父の表情は確かに凍りついたものだ。それは猟を生業にしてというもの、どんな鳥獣と出会おうが襲われようがついぞ見開くことのなかった鋭い眼光を丸くさせるものであり、その静かな呼吸音には僅かながらの恐れを感じさせる。 「むう……」  ドタバタとして。これほど家が騒がしいのも一体何年ぶりだろう。  息子が家を飛び出し、妻が倒れ、それから男はずっと一人。孫との対面も実際のところ片手で数えるほどしかない。  それもまだ物心つかないような、生まれたばかりの頃に息子夫婦が連れてきてくれた程度のものであり、息子の嫁が亡くなられた頃にはもう、彼が帰省に及ぶこともなかった。  決して口も上手くなく、深い関心や世話焼きなどという一面もない男にとっては、息子との関係値というのはそれほどまでに希薄なのである。  だから正直、この状況を、どう受け止めておけばいいのかも実際のところ男には分かっていなかった。  探検と称し、襖を開け放ってどんどん奥へと潜り込んでいくような姉妹を遠目に炬燵から見守る。驚いた顔を誤魔化すように湯呑みを傾けて息を吐き、今日一日をどうしようかと考えていると。  ガタン、と大きな物音がした。  様子を見に行かぬわけにも行かず、男は立ち上がりそちらへと向かう。  ――話は変わるが。  昭和初期から今まで残るこの家屋は、しかし男の生家ではない。男の生まれは横浜の方にあり、四十年前に知り合いからの譲り受けという形で土地を頂き、猟師という職につき、この九州地方の片田舎で半自給自足の生活をするようになっている。  古ぼけた家だ。延べ床面積は一五十坪にも迫り、数十年住み続けている今でも全ての部屋を扱えているとはとてもじゃないが言い切れない。  無駄に広すぎる家屋であり、持て余しているというのが本音。  埃の積もるような部屋が、七割方を占めていると言っても過言ではなかった。  だからだろうか。 「あぅ……」  のっそり、と祖父がその場に姿を表すと、萎縮したように何かの置物を手にした姉妹の姿がそこにはあった。暴れん坊の張本人である侑菜はどこかに潜り込んだのか埃で見事に汚れており、対して冬乃は怯えたように祖父のことを見上げるなかで、彼はなによりもその手の中にある置物に違和感を覚えていた。  初めて目にした物品だ。  木彫りの民芸品に伺える。十センチほどの筒状に、鹿をイメージしたものだろうか。二本の角を細やかに生やした上で、意匠があるわけではないが、もっとも手を込んで彫られているのは口のデザイン。  例えるならば、歯を剥き出しにして笑った人間の口元、と言えるだろうか。  彫り深くずらりと敷き詰められた歯列を目立たせる民芸品は、前述したような角とはあまりにもミスマッチしており、無論男には見覚えのないもの。  この家のどこにそんなものがあったと言うのか、怪訝にも思うが祖父には問いかけることが出来ない。孫への質問のしかたが判らなかったのだ。  仕方がないと重苦しい呼吸音を響かせてから、動かし慣れていない喉をゴロゴロと鳴らしては努めて優しく祖父は言う。 「気をつけなさい」 「はぁい……」  そんな一幕を迎えながらも、時間は明確に立っていく。 (次ページへ)
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