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「でも、彼女が死んで、いなくなって、初めて気付いたんだよ。自分の娘が、自分の精神を蝕んでいたんだっていうことをね」
ノアは鴨ロースをもう一切れ口へと運ぶ。
「毎日聞こえていたお願いを強いる金切り声は聞こえないし、イトシイ娘がいつ死んでしまうかも分からない恐怖も、もはやない。無理な要求を叶えるため、昼夜身を削ることもない。使用人からの苦情も聞かなくて済む」
最後の言葉にハッとなる。
使用人が、主人の娘であるロミナの苦情を、あろうことか主人本人に伝えるなど、普通はあり得ない。
礼儀など構う必要がないほど、ロミナの横暴ぶりが問題視されていた?
いや、それも考えられるが、カストピール夫人と使用人たちは、私が思っていたよりも、一段と近しい存在だったのかもしれない。
……いや、もしかしたら……そもそも主人と使用人との距離は、本来ならそれほど遠いものではないのかもしれない。
メガートン男爵家の使用人も、同じようにフランクな関係なのかもしれない。
(それなら、メガートン夫人が、使用人であるロイドの説得をすんなり聞き入れたことも、普通のこと?)
「もしかしたら、今もまだカストピール伯爵は、夫人のことを疑ってるかもね。夫人はロミナが亡くなって、良いこと尽くしだから」
ノアは他人事のようにそう言った。
「ま、そう言う訳でさ。もう姉さん、新聞のことは気にしなくていいよ。カストピール家はあの程度の曖昧さを欲しているんだからさ」
腑に落ちない。
本当にそれでいいの?
夫人は伯爵に疑われたまま、一生を過ごすの?
「いいんだよ、それで。あんまり真実に固執しすぎたら、幸せだった瞬間を、幸せと感じる前に通り過ぎて一生戻れなくなるよ?」
「知らない方が幸せ……そう言いたいの?」
「まあ、それはそうなんだけど、むしろその傾向が強いのは、カストピール伯爵家よりもメガートン家の方だよ」
(そうだ。まだ、肝心なことを聞き出していない)
「ノア、はっきり答えなさい。あなたとジュリアスの関係について」
「姉さん、もうお腹いっぱいなんじゃない?」
口元をナプキンで上品に拭いながら、ノアは言った。
結局普通に食事を終えていた私は、満たされた自分の腹部に手を添えて視線を落とす。
(まさかここまで来て、これ以上は私に真実を教えないつもりなのかしら? カストピール伯爵や夫人のように、有耶無耶にされた環境で生きていけと?)
「知らない方が幸せだなんて、私はそうは思えないわ」
「でも、姉さんはロミナのヒスについて、メガートン夫人にだんまりを決め込んだじゃないか」
「……」
(なんで……そんなことまで知っているの?)
「そ、それは……」
「あ、やっぱり? だと思ったんだ」
(……やられた)
「それとこれとは―――」
「一体何が違うの?」
全ての動きをピタリと止め、ノアは射抜くような目で私を見つめる。
吸い込まれるような深い青色の瞳に、身動きひとつできなくなる。
「姉さんだって、教えないことが最善だと自分一人で判断し、相手の不確実な幸せへの道筋を、勝手に作り上げたんでしょ? そういう意味じゃ、事の重大さや時と場合なんて、考慮せずとも全て同じさ」
「……」
ノアを丸め込むため、毅然とした態度を心がけて対抗したが、彼には通じなかった。
私は悔しさに唇を噛み、視線をノアから外す。
そんな私を見てか、ノアは満足げな笑いを零した。
「姉さん、安心してよ。責めてなんていないし、教えないなんて意地悪するつもりもない」
ノアはその場を立ち上がり、紳士的な仕草で、私の席まで歩みを進めた。
「続きは僕の部屋でしよう。大丈夫。聞かなきゃ良かったと思ったら、忘れちゃえばいいんだよ」
にっこりと笑って、ノアは私に手を差し伸べた。
私は迷った挙句、ノアの言葉を理解しないまま、その手を取った。
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