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歩きながら上を見上げたアリサは、九階建てのビルの屋上に人影を見つけて瞠目した。
急いで中に入って、階段を駆け上がっていく。
生きるのに食べ物も水も睡眠も必要ではないのに、激しい運動をすれば息はあがる。苦しいとまではいかないが、平常時よりは不調を感じる。
この身体はどういった仕組みになっているのだろう。肩を上下させながら、とにかく最上階を目指してアリサは足を動かした。
今ここにいる自分は「生きて」いるのか、「死んで」いるのか――。
屋上へのドアは肩を押し当てて、もたれかかるようにして開けた。
乾いた風がこちらに吹きこんで、髪やスカートを揺らす。毛先が頬をくすぐった。
「……シュウ」
シュウは屋上の縁に立っていて、振り返ろうともしない。一歩でも踏み出せば、地面へ真っ逆さまだ。
「ダメだよ、シュウ。やめて」
うわずった、小さな声しか出てこない。
シュウがようやく、ちょっとだけアリサの方をかえりみた。
アリサの頭の中はほとんど真っ白だったが、僅かに空白に侵されていない部分では、細切れの思考が秩序なく飛び交っていた。
死ぬわけない、本気じゃない、どうやって止めよう、今日も晴れてる、シュウが、シュウが――。
アリサはやっとのことで、おっかなびっくり、交互に足を動かして前に進んだ。
「シュウ、ねえ」
この子を失いたくない、と手をのばす。
しかし自分の手が視界に入った途端、「これは何もつかむことができない手だ」との諦めが胸によみがえってきた。影をすり抜けた、あの手。
指先が固まって動かない。シュウの服の裾をつかんで、引き寄せなければならないのに。
やっぱり、つかむことなんてできやしないんだ。
――でも、私は……――。
アリサは、シュウの腰に抱きついた。
ろくに動かない指先の代わりに、腕をがっしりとクロスさせて。
そのまま二人で仲良くバランスを崩して、後ろへと倒れこんだ。
シュウの身体が上にかぶさってきたが、倒れた痛みはない。他人事みたいな鈍い衝撃を、遠くに感じただけだった。
こんな具合じゃ、飛び降りたって、大して痛くないかも。そんな考えがアリサの頭によぎる。
シュウはというと、何故だかなかなか起き上がらない。アリサに覆い被さったまま動かずにいるので、気絶でもしたのかと心配になってきた。
「死ぬと思った? 俺が」
耳をくすぐる声は、声変わりし切っていないが、男性であることを示す低い響きを持っている。
シュウがごく間近で、アリサの顔をのぞきこんできた。
鼻先が触れそうなほど近く、吐息がかかる。
しっかと目を見開いても、近すぎて相手の顔がよく見えない。
シュウの、夜空のような暗い瞳から染み出した闇が、アリサの瞳に落下する。そんな錯覚を覚える。
その闇は多分、私を体内から真っ黒に染め上げるのだ。
気を抜けばすぐに、二人の心は同化してしまいそうだった。そうしてしまえば、シュウは今より楽になれるのかもしれない。
「俺はもう、どうでもいいんだ。どうなったって、構わないんだ」
ゆっくりと目をしばたたくと、シュウは身体を起こして立ち上がった。
気怠げな足運び。拒み続ける小さな背中。
暗い建物の中へと少年は吸いこまれていく。
アリサも起き上がったが、シュウの後は追わなかった。
――そうだね。全部、どうでもいいね。
こう言ってあげれば、彼は満足したのだ。
シュウはじたばたするのに嫌気がさしていて、仲間が前向きな行動をとるふりを続けるのが、我慢ならないのだろう。
「ごめん、シュウ」
アリサは呟いた。
風が吹く。冷たくも、暖かくもない風が。ただ吹き抜けるだけで、何ももたらさない。少しずつ、塵を動かすだけのもの。
「私は全部諦めて、受け入れるなんてできないよ。君やカタギリさんがいなくなったら、悲しいよ」
人差し指で、自分の唇にそっと触れる。
さっきのシュウとの距離は、ほとんど口づけをする寸前だった。
――私はシュウのことが、好きなんだろうか? シュウを、愛しているんだろうか?
問いは答えを見つけられずに、力なく崩れて消えてゆく。甘やかな動揺すら引き起こさない。
――わからない。私にわかるわけがない。
――だって私は、メロンパンの味すら、わからないんだから。
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