3、屋上の少年とメロンパンの味

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 歩きながら上を見上げたアリサは、九階建てのビルの屋上に人影を見つけて瞠目した。  急いで中に入って、階段を駆け上がっていく。  生きるのに食べ物も水も睡眠も必要ではないのに、激しい運動をすれば息はあがる。苦しいとまではいかないが、平常時よりは不調を感じる。  この身体はどういった仕組みになっているのだろう。肩を上下させながら、とにかく最上階を目指してアリサは足を動かした。  今ここにいる自分は「生きて」いるのか、「死んで」いるのか――。  屋上へのドアは肩を押し当てて、もたれかかるようにして開けた。  乾いた風がこちらに吹きこんで、髪やスカートを揺らす。毛先が頬をくすぐった。 「……シュウ」  シュウは屋上の縁に立っていて、振り返ろうともしない。一歩でも踏み出せば、地面へ真っ逆さまだ。 「ダメだよ、シュウ。やめて」  うわずった、小さな声しか出てこない。  シュウがようやく、ちょっとだけアリサの方をかえりみた。  アリサの頭の中はほとんど真っ白だったが、僅かに空白に侵されていない部分では、細切れの思考が秩序なく飛び交っていた。  死ぬわけない、本気じゃない、どうやって止めよう、今日も晴れてる、シュウが、シュウが――。  アリサはやっとのことで、おっかなびっくり、交互に足を動かして前に進んだ。 「シュウ、ねえ」  この子を失いたくない、と手をのばす。  しかし自分の手が視界に入った途端、「これは何もつかむことができない手だ」との諦めが胸によみがえってきた。影をすり抜けた、あの手。  指先が固まって動かない。シュウの服の裾をつかんで、引き寄せなければならないのに。  やっぱり、つかむことなんてできやしないんだ。  ――でも、私は……――。  アリサは、シュウの腰に抱きついた。  ろくに動かない指先の代わりに、腕をがっしりとクロスさせて。  そのまま二人で仲良くバランスを崩して、後ろへと倒れこんだ。  シュウの身体が上にかぶさってきたが、倒れた痛みはない。他人事みたいな鈍い衝撃を、遠くに感じただけだった。  こんな具合じゃ、飛び降りたって、大して痛くないかも。そんな考えがアリサの頭によぎる。  シュウはというと、何故だかなかなか起き上がらない。アリサに覆い被さったまま動かずにいるので、気絶でもしたのかと心配になってきた。 「死ぬと思った? 俺が」  耳をくすぐる声は、声変わりし切っていないが、男性であることを示す低い響きを持っている。  シュウがごく間近で、アリサの顔をのぞきこんできた。  鼻先が触れそうなほど近く、吐息がかかる。  しっかと目を見開いても、近すぎて相手の顔がよく見えない。  シュウの、夜空のような暗い瞳から染み出した闇が、アリサの瞳に落下する。そんな錯覚を覚える。  その闇は多分、私を体内から真っ黒に染め上げるのだ。  気を抜けばすぐに、二人の心は同化してしまいそうだった。そうしてしまえば、シュウは今より楽になれるのかもしれない。 「俺はもう、どうでもいいんだ。どうなったって、構わないんだ」  ゆっくりと目をしばたたくと、シュウは身体を起こして立ち上がった。  気怠げな足運び。拒み続ける小さな背中。  暗い建物の中へと少年は吸いこまれていく。  アリサも起き上がったが、シュウの後は追わなかった。  ――そうだね。全部、どうでもいいね。  こう言ってあげれば、彼は満足したのだ。  シュウはじたばたするのに嫌気がさしていて、仲間が前向きな行動をとるふりを続けるのが、我慢ならないのだろう。 「ごめん、シュウ」  アリサは呟いた。  風が吹く。冷たくも、暖かくもない風が。ただ吹き抜けるだけで、何ももたらさない。少しずつ、塵を動かすだけのもの。 「私は全部諦めて、受け入れるなんてできないよ。君やカタギリさんがいなくなったら、悲しいよ」  人差し指で、自分の唇にそっと触れる。  さっきのシュウとの距離は、ほとんど口づけをする寸前だった。  ――私はシュウのことが、好きなんだろうか? シュウを、愛しているんだろうか?  問いは答えを見つけられずに、力なく崩れて消えてゆく。甘やかな動揺すら引き起こさない。  ――わからない。私にわかるわけがない。  ――だって私は、メロンパンの味すら、わからないんだから。
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