三日月の監視塔

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三日月の監視塔

「オレミ君は本当によく破損品(はそんひん)を見つけるよね」と主任が言った。それが褒めているわけではないということは、声で分かる。 「はあ。確かに、袋の空気が抜けていたり、中身の形が崩れていたりするものは、一応、取り除くようにはしていますけど……」  ローラーラインを次々と流れてくる袋詰めの商品――食パン・総菜パン・菓子パン・和菓子――それらを店舗ごとに指定された数だけケースに詰めていく手を止め、僕は答えた。  すると主任は表情を変えず、あらかじめ決められていた言葉を紡ぐ。  そう、僕がなんと答えようと関係がない。主任は最初から説教をするつもりでいたのだ。彼のシナリオにはもともとルート分岐など存在せず、つまり僕の返答なんてものは、どちらを選んでも同じ結果になる無意味な選択肢と同じことなのだ。 「いいか。メーカーから送られてきた商品をここで仕分け、各販売店に出荷するだろう。販売店が破損品だと判断すれば、それはここではなくメーカーに返品される。だから、わざわざ我々が破損品を見つけて返品する必要なんてないんだ。どの段階で破損したのかなんて、分かりゃしないんだしな。……それに、返品したらそのぶんだけ、新たにメーカーから商品を送ってもらわにゃならんだろう。無駄な手間だ」  主任は言うと、僕が『破損品用』のケースに仕分けた商品を一つずつ手に取って検分し、「これも問題ないじゃないか。これも。これもだ」と呟いては、それを仕分けラインの上へと戻していく。 「でも、破損品だと分かってるんですから……。それに、お店側が困るじゃないですか。ほしい数だけちゃんと、売れる商品が届かないと」 「……販売店側だって、いくつか破損品が混じってくることくらい、分かってるだろうさ。それを見越して多めに発注してるだろう、当然」 「でも、……じゃあ、販売店も気付かずに破損品を売っちゃったら、どうするんですか」 「そしたら客が返品するだけの話だ。とにかくゴチャゴチャ言うな。全部仕分けておけ」 「いや、でも……」 「でもでも言うな」  僕はそれでもまだ反論しようとしたのだけれど、主任はケースの中に残った破損品を突くように鋭く指さし去っていく。  僕は仕方なく、一番近隣の店舗へ出荷されるケースにそれらを入れた。破損品分の追加発注があっても、近場なら早く届けることができる。 「おいミカズキ、そういう破損品は、いくつかの店舗に分散させたほうがいいぞ。目立たないようにな」  通りがかりの先輩作業員が、良かれと思ってだろう、端的なアドバイスを残していく。  一理ある。でも…… 「むしろ、一つの店舗にたくさんの破損品が届いて、問題になるべきだと……僕は思いますけどね」  僕はぶつぶつ言いつつも、結局は先輩に言われた通り、その破損品たちを学校のクラス分けみたいに分散させた。  そういえば昔、年の離れた妹が、「オオシマイヨ」という同級生と全然同じクラスになれないと嘆いていた。それもそのはず、僕の妹もその女の子も、ピアノが弾けたのだ。ピアノが弾ける児童というのは、リーダー格の児童と同じく、クラス分けにおいて真っ先に分散させられる。  僕はそのことを知っていたのだが、妹には教えなかった。妹がピアノをやめてしまうかもしれないと思ったからだ。  当時妹から散々聞かされた話――「オオシマイヨとその周辺」とでも言おうか――の中で、妹はオオシマイヨに群がる人間たちのことを、「ドーナツ」と呼んでいた。リングドーナツの空洞の中心に、オオシマイヨがいる。そして特筆すべきは、「彼女とドーナツは触れ合っていない」ということだ。コンサートにおいてステージと客席最前列との間に緩衝地帯が設けられるように、オオシマイヨの立つ場所は聖域化されていた。  しかし、アイドルに握手会などの交流イベントが存在するのと同じで、彼女とドーナツの間にも交流の機会が存在した。オオシマイヨは一年中、放課後に同級生たちの家を訪れて回っていたのだ。 「帰りの会」が終わると、教室には彼女を家に招かんとするドーナツたち(そこには彼女の同級生だけでなく、上級生・下級生・教師までもが含まれた)の輪が形成され、そして多くの男子たちが、そんなドーナツたちの輪を離れたところから眺める、第二のドーナツと化していた。  ……妹が一度だけ、家にオオシマイヨを連れてきたことがあった。確かにあの「世界の真理を知っています」とでもいうようなすまし顔を一目見れば、誰もが彼女の虜になるだろうし、彼女に少しでも近付くため必死になるその心情も、理解できなくはなかった。  だからこそ僕は、妹にクラス分けの仕組みを教えなかったのだ。  でもそんな僕の気遣いとは別に、妹はピアノをやめたし、「オオシマイヨとその周辺」の話もしなくなった。  終業時刻。腹を空かせたトラックが次々とやってきて、運転手は、身長以上に高く重ねられたケースのタワーを乱暴に積み込んでいく。  確かに、僕がいくら目を光らせて破損品を取り除いたところで、この積み込みと搬送の過程で、どのみちまた新たな破損品が生まれることだろう。開店前に商品を届けなければならないので、運転手たちも急いでいる。  深夜。僕は二つの目を光らせ近付いてくるトラックの間を縫い、帰路に就いた。  砂漠の中のオアシスのごとくきらめく二十四時間営業のコンビニに寄り、並べられたばかりの漫画雑誌を立ち読みして、免罪符としてのクロワッサンを買う。  多くのパンの中からなぜクロワッサンを選んだのか。それは僕自身にもよく分からなかった。  確かに、僕の名前はクロワッサンに関連があるといえなくもないのだけれど、僕自身はどちらかといえばその関連性を嫌っているのだ。  コンビニを出たところで、僕は「ああ、そうか」と気がついた。  三日月。雲一つない夜空に浮かぶその弓なりの輝きが、まるでサブリミナル効果のように僕の潜在意識を刺激していたに違いない。  僕はコンビニの袋からクロワッサンを取り出して掲げ、三日月の隣に並べてみる。  クロワッサン。両端の曲がり具合が致命的に足りないそれは、三日月というよりは日焼けしたサナギみたいだった。  まあ、クロワッサンをその名の由来通り三日月形に作ったって、現代の流通・販売においてはただ効率が落ちるだけだ。  たとえばもし人間が弓なりの体形をしていたとしたら、どんなに電車に乗り辛いだろう?  帰る。帰ろう。僕はクロワッサンを食べながら生活道路を歩いた。  近所では有名な空き地が見える。かつては大型ショッピングモールが建てられるとのうわさがあった繊維工場跡地なのだが、近くに別のモールが誘致されたせいか、建物が壊され瓦礫(がれき)もきれいに撤去された状態のまま、もう何年も手付かずとなっている。  僕が小学生だったころ、よく友達と通用門を乗り越え、中の空き地で野球をやった。けれど今ではその門すら取り壊され、空き地全体を取り囲む愛想のないブロック塀と同じ高さの新たな塀で、その土地は封印されている。  入口を塞がれた、広大な空き地。  僕はかつて通用門があった一辺をたどり、どこかに入口はないのだろうかと注意深く脇見歩きをする。いくら土地利用の見込みがないとはいえ、普通は関係者用の出入口くらい、ちゃんと設けているものだ。それこそ、本当に土地を封印するつもりであるのならば話は別だが。  通用門があった部分だけが明度の高い新しい塀となっていることを除けば、なんの変化もない灰色の壁が、ただただ延々と続いている。それでも僕は角を曲がり、次の辺も入口を探した。手頃な石を一つ拾い、まるで迷路を抜けるための一つの策であるかのように、それをかりかりとブロック塀に押し当てながら歩いていく。  なぜそうしたのかは分からない。きっとなんとなくだ。しかし往々にして、その「なんとなく」が新たな発見をもたらす。  ……窪(くぼ)んでいる。  ブロック塀の継ぎ目はわずかに溝になっていて、その溝がまるでブロックの集合体であることを誇示するかのごとく、壁面に無数の長方形を描き出しているのだが、そのブロックの四方の継ぎ目だけ、明らかに溝が深くなっていた。当てていた石が、妙に引っかかったのだ。  不思議に思ってそのブロックを軽く押してやると、はまっていただけらしいそれはいとも簡単に向こう側へと落ちた。  ブロック塀の、僕の腰よりわずか低い位置にある部分に、長方形の穴がぽっかりとあく。  なんだ、これは? 僕は戸惑った。鉄砲狭間じゃあるまいし……。老朽化にしたって、こんなきれいに、まるでくり抜かれたみたいな歯抜けのブロックができてしまうものなのか?  ……いや、違う。これは足場なんだ。  僕は試しにそこへ右足を置いた。つられるように左足が自然と浮き、高められた視線の先に、まるで「ここにつかまれ」とでも言うかのような、継ぎ目に沿った切れ込みのあるブロックが見つかった。  僕はそれも向こう側へと落とすと、あいた空間に右手をかけて、ブロック塀にへばりつく。  もしや。…………、思った通りだ、また腰の下辺りに、足場が見つかった。僕はそこへ左足を置く。すると右手をかけていた空間が、今度は第三の足場となった。まるでボルダリングだ。  そのようにして、僕は塀を跨いだ。塀から手を放した隙に強い風が吹き、肘から提げていたコンビニの袋がクラゲみたいに舞い上がっていってしまったけれど、そんな小さな罪悪感は、好奇心の前では全くの無力だ。  忍者にでもなったつもりで静かに慎重に敷地内へと降り立つと、今まで見えなかったものが見えるようになった。ブロック塀に隠れて見えなかったというわけではない。それは塀なんかの何倍も高く、空を突き破るかのようにそびえ立っていた。  剣山のごとき、無数の塔。……いや、それらの大本は繋がっている。  城だ。低く広大な土台から、おびただしい数の塔が伸びているのだ。  まるで世界中の高層建築物を一ヶ所に集めて、そこに大量の生コンクリートをでろでろと注ぎ、それらの下部を無理矢理にひとつながりにしたかのような――そんな豪快さと危うさが混在した塔の群れに、僕は恐れおののかずにはいられなかった。  数歩後ずさる。すると背中に硬いなにかが当たり、ハッと後ろを振り返ってみると、……それはなんのことはない、今し方乗り越えた、穴あきのブロック塀だった。  僕は「驚かすなよ」と呟きながら城に視線を戻す。が……、……なんてことだ。城は忽然と消えてしまった。  ……本当に、なんてことだ。よそ見をしてしまったがために!  わなわなと、おぼつかない足取りで城があったほうへ歩み寄ると、幸福にも、城は再び僕の前に姿を現した。  なるほどなるほど、分かってきたぞ。近付けば見える塗料かなにかが、塗られているのだろう。  そうと分かれば焦ることはない。いくらか余裕が生まれてきた。僕は時間が経つのを忘れ、獲物が突き刺さるのを身を潜めて待っているかのようなその城を見上げ続ける。  だが人間、眺めてそれで満足というわけにはいかない。やがて僕は入口を求めて城を周回し始める。これもやはり、一見してそれと分かる入口というのはない。しかしブロック塀の一件が僕に確信めいたものを与えていた。 「入口は必ずある」――だから注意深く探すのだ。  そうして僕は時間をかけ、レンガ調のシールが貼られただけの面を見つけ、回転扉となっていたそれにほとんど巻き込まれるようにして、城の中へと入った。  最近のコンビニだ、と僕は思った。昔に建てられたコンビニは、建物の外装にレンガ調のタイルを使っている。タイルなのでもちろん本物のレンガ造りとは違うのだが、凹凸があり、いかにもそれらしく見える。  でも最近のコンビニは、平らな壁面にレンガ調のシールを貼っているだけで、凹凸がないため、斜めから見ればすぐにレンガではないと分かるのだ。  といっても、その話を誰かから聞いたのは、いったい何年前のことだったろう? ひょっとしたらもう、レンガ調のタイルを使ったコンビニなど、とっくに絶滅してしまっているのかもしれない。 「今晩は、オレミカズキ様。お待ちしておりました。ささ、こちらへ」  そう言って出迎えてくれた初老の男は、現場作業後の僕に負けず劣らず、みすぼらしい身なりをしていた。  寝起きみたいなぼさぼさの髪には白髪が混じり、立ちくらみの真っ最中というようなふらふらとした足取りで僕を案内する。  なぜ僕の名前を知っているのか? それはあえて問わなかった。問えば動揺を悟られることに繋がる。  城内は光源に乏しく、こもった空気のにおいがしたが、暗さゆえに不潔な感じはせず、余計なもののない通路はすっきりとしていて、まるでテーマパークのアトラクションの順番待ちをすいすいと通り抜けているかのような気分だ。 「オレミ様のお部屋は、『月の階』にございます。ささ、お早く」  そのエレベーター乗り場は、あたかも壁の一部であるかのように巧妙に隠されていた。男がカードをかざし、割れるように扉が開いてようやく、そこがエレベーター乗り場であることに気付く。  ひょっとしたら他にもエレベーター乗り場があって、僕はそれに気付かないまま通り過ぎてしまったのかもしれない。あれだけたくさんの塔があるのだ。エレベーター一基ではとても足りない。  僕は後ろ髪を引かれる思いのままエレベーターに乗り込み、階数ボタンのないその内部を興味深く見回していると、男がやはり一枚のカードをパネルにかざして、箱は動き出した。  ……動き、出したのだろうか? 音もなく、縦Gも感じられず、本当に動いているのか疑わしい。  しかし僕がそうして疑っているうちに、箱は迅速に「月の階」へと僕らを運び、「さあ着いたんだから早く出て行っておくれよ」とでも言うようなため息めいた音と共に扉を開いた。  いったいここは何階なのか。階数表示はない。外の景色も見えない。もしかしたら地下かもしれない。  ビジネスホテルの廊下にも似た、機能重視の通路へと出る。地上か地下かはともかく、空調は隅々まで行き届き、暖かみのある明かりに照らされた赤い絨毯(じゅうたん)は、毛足の長さゆえか一歩進むたびに僕のぼろぼろの作業靴を強く押し返した。 「こちらがオレミ様のお部屋となります。ささ、どうぞお入りください」  いくつかの扉を通り過ぎ、男は三日月マークの表札がかけられた部屋の前で立ち止まる。  三日月。この階の部屋の表札は、端の部屋から順に見ていくと、月が欠け、あるいは満ちていく並びになっているのだ。なんと分かりにくいことか。 「ちょっと待ってくれよ。ここまで黙ってついてきたけれど、僕はホテルに泊まるお金なんて、全然持っていやしないんだ」 「心配ご無用。当施設はお部屋が住居兼仕事場となっておりますゆえ、ご宿泊はもちろん、ご飲食も全て無料でございます」 「仕事。仕事だって? 冗談じゃない、僕は今仕事をしてきたばかりなんだ。くたくたなんだよ。あとは風呂に入って寝るだけさ」 「そのようで。ですから、仕事は明日からで構いません。今日はゆっくりお休みになってください。ささ、どうぞどうぞ。ささ、」  男はカードキーをあてがうようにして扉を開け、口癖と思われる言葉を二度も繰り返して僕を急かす。 「待ってくれって。仕事っていうのは、いったい……」 「……監視塔の仕事といえば、視(み)る仕事でございます」  男は半ば強引に僕を部屋に押し入れると、まるで燻煙式(くんえんしき)殺虫剤を使用するときみたいにさっと部屋を出て、封印するかのごとく閉ざす扉をすんでのところで止め――それだけ答えると、三日月が描かれたカードキーを扉の隙間から差し出した。僕はほとんど反射的にそれを受け取り、男は静かに扉を閉める。……オートロック。 「なんだっていうんだ、本当に……」  カードキーを手に僕は立ち尽くす。壁際のカードキーホルダーにそれを入れると、室内の明かりが点いた――そう思ったのだが、点いたのは部屋の壁三面を占拠している、三つの大型モニターだった。 「……なんだ? これ……?」  モニターの映像は碁盤の目のように無数の仕切りが引かれ、区分されたその長方形の中には、様々な街の姿が映し出されていた。  自動車が行き交う道路や駐車場の映像が最も多く、次いで飲食店・食料品店・衣料品店……その他様々な店内の映像がある。そしてその多くが、斜め上から見下ろす形で撮られていた。  なるほど、監視塔ね。国中の監視カメラの映像が、ここで見られるというわけか?  僕はモニターに囲まれるかたちで設置されている高級そうなリクライニングチェアに腰かけ、その座り心地を確かめる。……悪くない。  肘掛けの先端には、モニターを操作するためのものと思われるタッチパッドのような機器が埋め込まれていた。  この部屋でする「仕事」というのが、監視員としてモニターを眺めるだけのことなのだとすれば、なんと楽な仕事だろうか。世界一楽な仕事なのではないか?  そうだ。きっと僕はその仕事に選ばれたのだ。そうに違いない。  僕は肘掛けのタッチパッドを指先で無意味になぞり、モニター内のポインタをくるくると回転させた。  気になったのは、ビジネスホテル然とした室内設備・備品の中に、肝心のベッドが存在しないことだった。トイレ・バスルームはあるものの、寝室は設けられていない。ベッドがないようでは、程度の差こそあれ、これではネットカフェの個室と変わらない。  ……まあ、ネットカフェというのは、言いすぎか。……いや? しかし娯楽が一つもないじゃないか。「ささ、」の男はここを「住居兼仕事場」だと言った。けれど一冊の漫画本もないのだ。モニターの前に配置されている小さなテーブルの上には、やはりホテルにあるような電話機が一台と、手帳用の下敷きみたいな板が一枚、無造作に置かれている。  手に取ってみると、それが見たことのない型のタブレット端末であることが分かる。一般的なタブレット端末にしては小さく、タッチパネル式の携帯型デジタル音楽プレイヤーにしては大きく、スマートフォンにしては薄い。電子書籍を読むための専用端末に、だいたいこれくらいのサイズ感のものがあったな、と思い当たる。  まあともあれそのタブレット端末に触れたところ、タッチパネルらしい画面には部屋の表札と同じ三日月マークが表示され、続いてその三日月に被さるようにして(どうやら三日月マークは壁紙のようだ)『指紋の登録が完了しました』なるメッセージが表示された。やれやれ。  指紋の登録が済むと、端末の画面に整然とアイコンメニューが並べられていく。僕はその中の『映画』というアイコンに触れてみる。すると画面の中に映画のタイトルが羅列された。  ふぅん、どれも見慣れないタイトルだな。ん? 『人気(ひとけ)のない人気(にんき)観光地で』? これは来月封切りになるはずの邦画じゃないか? ……『ゴーストアバター』、これもまだ日本では上映されていないはずの洋画だ。予告編が観られるというわけか?  僕は大して期待せず、そのタイトルに触れてみる。そしたらどうだ、監視カメラの映像を流していた室内の巨大な三面モニターのうちの一つ、真ん中のモニターの映像が切り替わり、紛うことなき映画の本編が始まった。タブレット端末に表示されている残り時間を見れば、それが予告編の類でないことは明らかだった。  ……おいおい、まさかさっきのタイトル全部、観放題というわけか。しかも、もしかして……どれもまだ一般には公開されていない作品なんじゃないか?  僕は一旦、等号を縦向きにしたかのようなお馴染みの一時停止ボタンをタップしてから、端末のホーム画面に戻り、並んでいるアイコンの名前を一つずつ確認していった。 『テレビ』『映画』『雑誌』『小説』『ゲーム』……。『テレビ』のアイコンをタップすると、端末には『ワイドショー』『ドキュメンタリー』『紀行』『教育』『料理』『バラエティ』『クイズ』『芸能』『音楽』『トーク』『時代劇』『特撮』『ドラマ』『アニメ』と新たな項目が表示され、さらにそこから新たに表示される項目――具体的な番組名をタップすると、やはり正面のモニターだけが切り替わり、選んだテレビ番組を流し始める。  ……ふふん。とりあえず、暇潰しに困るということは、なさそうだな。  考えてみれば、今や娯楽の多くは画面の中に集約されてしまったのだ。  僕はリクライニングチェアの背もたれを倒し、タブレット端末を操作して、先ほどの洋画を観ることにした。  観始めてすぐ、違和感に気付く。日本語吹き替え版であるにもかかわらず、日本語の字幕も表示されているのだ。  ……ははあ、分かってきたぞ。この塔の住人は、監視員でもあり、チェック係でもあるのだな? 封切り前の映画を見せ、問題点がないかをチェックさせる。  僕のその推察はどうやら見事に的中していたようで、テレビも、映画も、雑誌も、小説も、漫画も、ゲームも、全てまだ世間に出回る前のタイトルばかりだった。  なんだか、未来にきてしまったみたいだ。僕はいつもコンビニで立ち読みをしている漫画雑誌の最新号――いや、未来号とでも呼ぶべきだろうか?――を巨大モニターに映して読み漁っているうちに、いつの間にか、……うとうと、眠りに落ちてしまった。          §  目を覚ます。今は朝か、昼か? 室内を見回すけれど、時計はおろか、窓すらないのだ。三つもモニターがあるのに、時刻表示が一つもないなんて。  三つの巨大モニターのうち、左右の二つは変わらず監視カメラの映像を流し続けている。  野外に設置されているらしい監視カメラの映像区画が明るかったこと、そしてレストランの店内を映している区画に多くの客の姿があったことを複合して、「今は昼時なのだな」と僕は結論付けた。見たところ、監視カメラの映像はどれも日本国内のもののようだし。  洗面所で顔を洗い終えたところで、やけにタイミング良くインターホンが鳴る。訪ねてきたのは、目の下に大きなクマのある男だ。彼もやはり浮浪者のような格好をしているが、僕を部屋に案内してくれた「ささ、」の男よりは若く、中年太りのお手本のような体形をしている。 「オレミカズキ様、いかがお過ごしですかな。……ほほう、さっそく仕事ですか。感心、感心」 「漫画を読んでいただけですよ。左右のモニターに、監視カメラの映像を流してはいたけれど」 「結構、結構。それで、なにか気付いたことがあれば、そこの電話で教えてくれればよろしい」 「『なにか気付いたこと』って……、『今回の話はサイコーだった』とか、そういうことを?」  僕は冗談めかして言ったが、男は神妙に頷いた。 「はい。なんでもよろしい。『こういったことを教えるように』と限定してしまうと、せっかくの『気付き』をみすみす逃してしまうことに繋がります。本当になんでも、気付いたことをお教えください」 「……じゃあ、たとえば、さっき読んだこの野球漫画の……どこだっけ、そう、このシーンだけど」  僕は言いながらタブレット端末を操作して、正面のモニターにとあるページを映し出す。そして「大したことじゃないんですが」と断ってから、説明を始めた。 「ここ、『ランナーは二・三塁……一打逆転のチャンスなんだ』って書いてあるけど、点差は二点なんですよね。『一打逆転』って言い方なら、普通はバッターランナーを含めないと思うから、ここは『一打同点のチャンス』にするか、『一発出れば逆転のチャンス』にしたほうがいいと思うんだけど……」  説明しながら、僕はだんだん自信がなくなってくる。これがもし僕の指摘した通りだったとしても、多くの読者は気に留めず読み進めるであろう些細なミスだ。なんとくだらない指摘をしたものだろう。  ……しかし男の反応は違った。 「――そこに気がつくとは! すばらしい。さすがですね」  男は目を見開き大げさに僕の発見を賞賛する。小馬鹿にしているのかとも思ったが、男は「ちょっとよろしいですかね」と言って部屋の受話器を取り、何者かに電話をかけた。 「もしもし。……ええ、ええ。『週刊少年アラウンド』四十六号の、『スイッチエース両太郎』の十七ページですが……三コマ目をご覧ください、『一打逆転のチャンス』と書いてありますが……」  なんだっていうんだ、いったい? 自分で指摘しておいてなんだけれど、そんなに大騒ぎするようなことだろうか。  やれやれ。喉が渇いたし、なにか飲み物でも飲もう。でもこの部屋には冷蔵庫もなければ、グラスの一つもない。 「……あの、食事とかはどうしたらいいのですか? 無料と聞いたんですが」  男が受話器を置いたのを見計らい、僕は訊ねた。 「お食事ですか。あとほんの少し早く、言ってくださればよいものを」 「まさか、食事の時間は終わってしまったのですか? 食堂とかの?」 「いいえとんでもない。二十四時間いつでも構いませんよ、もちろん」  男は「少しお待ちください」と言うと、今し方置いた受話器を取り、番号も打たずにしばし待つ。 「料理はなにがよろしいですかな?」  受話器の口元を手で押さえ、男が訊ねてくる。僕が「なんでも構いませんよ。食べられるものなら」と、そう答えるが早いか、男は受話器の向こうの誰かに「昼食をお願いします。ええ。お任せで」と料理を注文する。 「他にもなにか、必要なものがあれば」と男が言うので、僕は「ベッド」と即答する。 「……まことに残念ですが、ベッドは『必要なもの』として認められていないのです」  僕は混乱した。「ならせめて掛け布団を……ブランケットとかでもいいんだけど」 「ブランケットでしたら、認められております。――ええ、ブランケットを一枚……」  男は再度「もうありませんかな?」という顔で僕を見て、受話器を置く。やれやれ。          §  シャワーを浴びる前に替えの服をと思って探したのだが、クローゼットすら見当たらない。バスローブの一つもない。  そうこうしているうちにまたインターホンが鳴り、扉を開けると、透明なボウルのような蓋(ふた)で覆われた皿をいくつも積載したカートを傍(かたわ)らに、初老の男が待ち構えていた。 「ああ、これは、どうも」  僕は気安くそう挨拶したが、彼は「ささ、」の男とは別人だった。まず第一に、食事を扱う仕事に従事しているためか、身なりが清潔だ。髪は同じく白髪が混じっていたものの、薄くなりゆく頭髪を潔く受け入れ、全体的に短く整えている。  顔立ちも年齢も似通っているのだから、「ささ、」の男が散髪をして風呂に入ったと考えることもできるが、その立ち姿や醸し出す雰囲気が、僕に「別人だぞ」と警告していた。 「ええと、食べ終わったらどうすればよいのでしょう? ……その、皿とか? あと、替えの服が欲しいときは、どうすればよいのでしょう」  僕が訊ねると、男は無言のまま部屋に入り、テーブルの上の電話機を目指して歩いていった。  ……しまったな、彼は口数が多いほうではないのだ。しかもその表情を見る限り、いささか不機嫌なご様子だ。  僕は思い出したかのように「ああ! そうですよね。電話をすればいいんだ。申し訳ありません、当たり前のことを……」と言って手を叩くと、男は「ふん」と小さく鼻を鳴らして帰っていった。カートを押す後ろ姿が、またなんともシャンとしている。僕は彼の背中を見送ると静かに扉を閉め、ひとまず食事をとることにした。  男が置いていった料理はオムライスだった。白い皿の上でやや「く」の字に歪んでいて、右側のあいたスペースにデミグラスソースがかけられている。  三日月形のオムライス。味も文句のつけようがない。ただし大騒ぎするほどの味でもない。  カートには他にも皿が載っていたけれど、どれもオムライスだったのだろうか。もっとよく見ておけばよかったな。まあともかく、他にも大勢、この時間に食事をとっている住人がいることは確かのようだ。  その日は四本の映画作品を観た。どれも昼食のオムライスのような出来だった。  合間に左右のモニターを眺めてマロンケーキを食べた。監視カメラに映る従業員たちはみな神経質に働いていた。おそらく彼ら彼女らはそこに監視カメラがあることを知っているのだろう。  店を訪れる客たちは対照的にリラックスしていた。無駄な動きのなんと多いことか。  衣料品店を訪れた客は気軽に商品を手に取って広げ、ろくに畳みもせずにそれを戻した。ファミリーレストランのテーブルに座った学校帰りの女子生徒たちが、(聞こえはしないが、おそらく)大きな声で話をしている。やがて鞄から鏡やポーチを取り出し、塗り絵のような化粧を始める。コーヒーショップのカウンターには、年老いた男が一人、なにをするでもなく静かに座っていた。黒い液体の注がれたコーヒーカップを、まるで毎日一杯飲み干さなければならない苦い薬であるかのようにじっと見つめている。店主はなにをしているのか分からないが、だいたいモニターの外にいる。それはどこかの駅構内にある小ぢんまりした店らしく、背景に時折せわしない足取りの人々が映り込んだ。  いくつもある映像区画に多くの人物が映っているとどうにも落ち着かないので、肘掛けのタッチパッドを操作して駐車場の映像を適当に選ぶ。すると左右のモニターは絵画のように動かなくなった。映像が止まっているんじゃないかと思うほど、それはぴくりとも動かなかった。  なぜ人はこんな退屈な映像を撮るのだろう。そしてなぜ僕はそれを見ているのか。  監視カメラの映像なんて、なにか事件があったときだけ見ればいいのだ。普段からチェックする必要なんてない。ドライブレコーダーと一緒で、交通事故が起きた場面だけ見ることができればそれでいいのだ。  ……でも、と僕は考える。「誰かが毎日その映像をチェックしている」という事実が、経営者の安心に繋がるという部分はあるのかもしれない。あるいは、なにか事件が起こったとき、この塔に責任を転嫁できるとか。つまりは、「事件の早期発見のために契約しているというのに、今の今までこの事実に気付かなかったとは。きみたちはいったいなにを見ていたんだ!」というように。案外そういった、保険に似たシステムのビジネスが成り立っているのかもしれない。  しかしそれにしたって、こんな監視員生活を続けていたら、間違いなく不健康になる。リクライニングチェアに座り、モニターを眺めるばかりの生活なのだ。仕事も娯楽もろくに身体を動かさずに済んでしまう。  しかも三食おやつ付きときている。これで太らない住人がいるのなら、それは紛れもなく仕事をしていない怠惰な人間だ。……おかしな話だけれど。  四本目の映画を観終えた僕は、メモを見ながら「気付いたこと」を電話で伝え、それから部屋を出て、月が満ちゆく廊下を進み、エレベーターに乗った。その箱にはやはり階数ボタンはなく、扉が閉まると自動的に下へ参りますをして、『運動階』なるフロアへと僕を運んだ。エレベーターを出たところに、本当にそう書いてあったのだ。『運動階』と。  その階のメインエリアはだだっ広い体育館のようになっていて、ちょうど小太りの中年男性たちがバスケットボールの試合を始めようとしているところだった。 「よかった、ちょうど一人足りなかったんだよ」 「? いや、でも、十人いるじゃないですか?」 「一人は審判だから。きみ、こっちのチームね」 「……あの、よければ僕が審判をやりますけど」 「審判って……きみできるのかい? 言っておくけど、俺たち、試合のジャッジには結構厳しいよ?」 「なるほど」なるほどじゃないぞ僕。ジャッジが厳しいなら分かるが、ジャッジに厳しいってなんだ。  ともかくそんなやりとりの後、僕はオレンジビブスのチームに入り、フリスビーを追う犬のように素直にボールを追いかけた。息が切れ、滝のような汗をかいたけれど、途中何度も審判の裁定に誰かしらが文句をつけて試合が止まるので、それが良い休憩時間になった。  試合が終わるころ、僕はチームのみんなとすっかり打ち解け、違和感なく彼らのニックネームを呼ぶことができるようになっていた。 「ところで、新入りくんはなんていう名前なんだ?」 「言ってなかったね。僕はオレミカズキって名前だ」 「ミカヅキ。変わった名前だな」 「違う。僕は、オレミ、カズキ」 「……ふむ。つまり、『ス』に点々で呼べばいいわけだな? 『ツ』に点々ではなく?」 「それでいいよ」僕は諦めてそう言った。「三日月の部屋のミカズキとでも呼んでくれ」 「三日月の部屋のミカズキ。この後俺の部屋で祝勝会やるんだが、おまえも来るだろ?」  そう誘ってきたのは、オレンジビブスチームのリーダー格の男だった。彼もやはり余分な肉を腹にため込んでいた。ただしその動きは、案外と素早い。 「祝勝会って。負けちゃったじゃないですか」 「なにを言ってるんだ、勝っただろ。審判に」 「確かに。あのファウル判定が覆ったのは、実質的勝利と言える」とこれは別の男が言う。やはり小太りの中年男性だが、眼鏡をかけているせいか、いくらか理知的に見える。 「はあ、分かりました。まあ……行きますよ」  そんなわけで、飲めや食えやの祝勝会だ。みんな、いくら運動したって痩(や)せないわけだ。 「ところでミカズキは、最近入ったばかりなんだろう?」 「ええ、まあ。というか、一昨日の晩に入ったばかりで」 「二日で運動の重要性に気付くとは、良いセンスしてる。……それでさ、もしまだ『組合』に入ってないんだったら、ぜひ入ってあげてほしいんだ。もちろん強制はしないけど。彼ら、監視塔員の待遇改善のために、結構がんばってるみたいだし」  眼鏡の男が言うと、「それは良い考えだ」とこれはまた別の男が、炭酸飲料の入ったグラスを掲げて合いの手を入れた。  やや、これは巧妙な勧誘会だったのかなと僕は思ったが、「ええ? 組合の奴ら、あれは目立ちたいだけだろ」と否定的なことを言う者もいる辺り、どうやらそうではないらしい。 「待遇改善って、たとえばどんなことを訴えてるんです?」  僕が慎重に声のトーンを選び訊ねると、答えようとした眼鏡の男の後ろから、ペットボトルの炭酸飲料を持ったリーダー格の男が現れて、眼鏡の男のグラスに黒い液体を注いだ。 「今叫ばれてるのは、主にアルコールとミュージックだな」 「アルコールとミュージック」僕はリーダー格の男の言葉を復唱した。  彼はししおどしみたいな洗練された手つきで僕のグラスに炭酸飲料を注ぎ、七分目までいったところで、ボトルはちょうど空になった。 「頼める酒の量が決まってるんだ。一人一人、月単位でな」 「なるほど……まあ、僕はお酒飲まないので、あれですが」  加えてたばこも吸わない。そういえばさっきから誰もたばこを吸わないけれど、やはり規制されているのだろうか。規制されているのであれば、同じように改善内容の一つに挙げられそうな気がするのだが。  その旨を訊ねると、「ここ、火の扱いには特別厳しいから、たばこはダメなんだよ」と、眼鏡の男が心底悔しげな表情で言う。きっと塔に入る前は喫煙者だったのだろう。  彼には悪いが、考えてみれば当たり前のことだ。たばこを吸ったまま仕事をして、そのまま眠ってしまう状況が容易に想定できる。監視塔員はベッドに横たわりながら仕事をしているようなものなのだ。  まあ、男の口ぶりから察するに、「たばこのほうはともかくとして、せめて酒くらいは自由に飲ませてくれよ」ということだろうか。 「酒やたばこはやらなくても、音楽は聴くだろう? ミカズキ、きみも若者なら、外にいたころはこんなに小さな機械に何百曲もの音楽を入れて、毎日欠かさず聴いていたはずだ。しかし塔のチェック仕事に、CDは含まれていないからな。だから音楽を聴くにはテレビの音楽番組ということになるが、それも期間を過ぎれば、新しい回のものに更新されてしまう」 「確かに、それは寂しいですね」 「だろう? それに、すぐ聴けなくなってしまうからと、同じ番組を何度も何度も繰り返し見るのは、これは効率が良いとは言えないじゃないか。チェックの仕事としても」 「まあ、そうかもしれませんね」  そんなわけで、僕は「監視塔労働組合」というのに入ることにした。手続きは「組合に入る意志を組合員の誰かに伝えればそれでOK」という、ごくごく簡易なものだった。  入ったからといって、特別なにかの活動にかり出されるわけでもない。そもそも、僕らが自由に行き来できるのは、自分の部屋と運動階だけらしい。本当は今回のように誰かの部屋に集まるというのもやってはいけないことなのだそうだ。電話も、監視塔員の部屋同士は通じない。だから運動階を訪れた際、時折他の組合員から思い出したかのように待遇改善交渉の進捗を聞くことが、僕の唯一の組合活動だった。  さて、これは予想できたことだったが、監視塔は、一度出れば二度と戻ることが許されない施設だった。まあ、気楽に外出できるようでは、情報管理の面で顧客からの信頼性はゼロに等しい。もっとも、監視塔員を辞めるつもりであるのならば、塔を出るのはいつでも自由ということだから、どちらかといえば緩い条件なのかもしれない。  監視塔での日々は、僕が思っていた以上に悪くはないものだった。あくせく働く必要もないし、誰からも怒られることのない監視・チェック業務。しかも注意力を働かせて電話報告をすれば感謝されるし、それに僕はこういう仕事に向いている気がする。細かいことが気になる性質なのだ。まあだからこそ、この塔に入ってこられたのだが。  元の生活に戻りたいとは思わなかった。六畳一間の、絵に描いたような安アパートにあるものは、どれもすり減り、やがては捨てられていく類の一時的なものばかりだったし、訪ねてくる友人がいるわけでもない。  元の仕事場で、手続き上、僕がどういう扱いになっているのかということは気になったけれど、ある日、面白い場所に設置された監視カメラの映像はないものかと探していると、偶然にも――あるいは無意識にそれを探し求めていたのかもしれない――あの作業場を映したものがあった。すっかり忘れていたが、あそこにもいくつか監視カメラがあったのだ。  監視カメラの映像を拡大して見てみると、今日入荷する商品の数量と、作業員の配置図が書かれたホワイトボードの片隅に、『オレミ』というネームプレートが貼られているのを確認することができた。そしてその上には、専用の消せる黒ペンで、『四月まで休職』と書かれている。 『もちろん四月以降の滞在も可能です。先方へお電話したところ、四月まではとりあえず休職扱いにできるとのことでしたので、そのように致しました』  僕がとある電話報告――学園バトルアニメの入学シーンで、校舎にかけられていた垂れ幕の文字「熱烈歓迎」の「迎」の字が、「卯(う)」にしんにょうとなっていた――のついでに訊ねてみると、受話器の向こうの男はそう答えた。 「悪いんだけど、放っておいてほしいんだ。そうやって善処してくれるのは、……なんていうか、ありがたいんだけど。でも僕は、戻る気なんてさらさらないんだ。……だから、そうやって退路を残されると、……決心が鈍るだけで、なにも良いことがない。……ここでの暮らしが気に入ってるんだ。他の人たちは、アルコールだのミュージックだの、待遇の改善を求めているみたいだけど、僕は現状でも十分に満足している。ここには仕事があって、上司がいなくて、娯楽があって、少しの交流がある。僕はそれでいいんだ」  それは本心から出た言葉だった。おおよそのテレビ番組も観られるし、漫画や映画もいち早く観ることができる。娯楽としてはそれで十分じゃないか。 『もしや、組合のことをご存知で? まさか入ったわけではないでしょうね?』  いつも僕の仕事を褒めてくれる電話の相手が、やけに神経質そうな声で訊く。 「入ったって?」 『組合にですよ』 「入ってないよ」 『ならばよいのですが。……くれぐれも、組合の者とは関わらないでください』 「関わらないよ」 『特に組合の幹部は、……危険な人物ですから。絶対に関わらないでください』 「分かったって」  ……でももちろん、僕は組合の幹部と深く関わることになる。          §  運動階。僕は基本的に他人と積極的に関わりたいとは思わないし、だからこそこの監視塔にとどまっていられるのだが、こと運動に限っていえば、集団で行ったほうが楽しく感じる。  運動階を気ままに探索してたどり着いたトレーニングルームには、ランニングマシンをはじめとした多種多様な器具が揃っていた。でも僕はそれらを一度も利用することなく、みなで球技を楽しむほうを選んだ。僕にとっての運動階は、いわば社交場のようなものだったのだ。 「今日はサッカー……いや、フットサルなんですね」  その日、まだ新しい黄色と黒のジャージに身を包み運動階を訪れると、もはや見慣れた面子の先客たちは、四面分のバスケットコートを今日は向きを変え二面分のフットサルコートとして使用していた。 「ああ。ここじゃだいたい、バスケかフットサルだ」  入念に伸脚運動をしていたリーダー格の男は、僕を見ることなくそう答えると、床に徐々に両脚をつけていき……最終的に見事な百八十度開脚前屈、いわゆる股割りを披露する。 「でもこの前、みんなでドッジボールやりましたよ」 「ドッジボールね。あれは審判が、つまらねぇんだ」 「まあ、当たったか当たってないかだけですもんね」 「判定に抗議したって、水掛け論になるだけだしな」 「試合のために審判がいるっていうより、審判のために試合をやっている感じですもんね」 「試合が先か、審判が先か。……そうだ、日曜はバレーをやるから、ひよりさんが来るぞ」 「ひよりさん?」「日曜に来るから、ひよりさんだ」  男の言葉から察するに、その「ひよりさん」なる人物は女性なのだろう。この塔は極端に女性の住人が少ないから、ある種マドンナ化しているのであろうことは想像に難くない。  僕は男の隣に並んで準備運動を始める。でもフットサルのチームはキーパーを入れて五人までだったはずだから、見たところ人数はすでに揃っているようだ。数えてみると、オレンジビブスチームも、グリーンビブスチームも、それぞれちょうど五人ずついた。  もう一つのコートはまだ人数が半端なためか、みんなビブスを着けずにシュート練習をしていた。おそらく僕もあちらに加わるべきなのだろう。 「これだけ人がいれば、野球もできそうですけどね」 「野球ねぇ……野球はルールがわりと複雑だからな」 「投げて打って走って守るだけですよ。シンプルだ」 「いや、そんな簡単な話じゃないね。人数もいるし」 「十八人、ギリギリ集まりませんかね? 無理かな」 「プラス、審判が四人必要だ。二十二人は無理だな」  男は言いながら、城の絵柄が描かれたサッカーボールを僕に蹴って寄越した。  なるほど……、審判か。それは考えていなかった。 「しかし、野球ね。それで四月には出ていくわけか」 「出ていくって? もしかして、僕のことですか?」 「休職中なんだろ? 俺らの情報網は結構すごいぜ」  やれやれ。誰かがあのホワイトボードの映像を見たんだろうな。 「勝手に休職扱いになってただけで、戻りませんよ」  僕は男にボールを蹴り返しながら答える。屋内でのボールの跳ね具合・転がり具合がまだうまくつかめない。そもそも、サッカーボールを蹴るなんて何年ぶりのことだろう? 「でもここにいたんじゃ、野球中継は観られないぜ」  ああ、なるほどね。それでプロ野球のシーズン開幕に合わせて、ここを出る腹積もりなのだと思ったわけか。  しかし、プロ野球を観られないというのは、盲点だった。言われてみれば確かに、『テレビ』のアイコンをタップした先に、『スポーツ』という項目は存在しなかった。 「もしかして、スポーツニュースすら見られない、とかですか?」 「ああ。ニュース番組は、制作から放送までの間隔が短いからな」  ニュース番組のチェック業務は請け負っていないというわけだ。 「野球中継が観られないだなんて、組合はなにをやっているんですか?」 「前に言ったろ。アルコールの制限緩和と、ミュージックの解放運動さ」  そこでどうやら、試合開始の頃合いとなったらしい。男の周りにオレンジビブスチームの面々が集まってきた。 「組合の……幹部の人に会えないですかね。提案、したいことがあるんですけど」 「提案ね。ちょうど今、トレーニングルームにいるはずだ。失礼のないようにな」  トレーニングルーム。あのランニングマシンとかがあったエリアか。  僕は思わず、「そんなこと言って、実はあなたが組合のボスだったり」と茶化そうとしたけれど、思いとどまる。 「やっぱり、すごい人なんですか? やめておこうかな」 「今までに、重要指名手配被疑者を四人ほど見つけてる」  ジュウヨウシメイテハイヒギシャ。つまり、いわゆる「指名手配犯」を、監視カメラの映像から四人も見つけ出してるってことか。それはなんか、すごいな。会ってみたくなってきた。  結局僕は、円陣を組み始めたオレンジビブスチームの面々に「試合、がんばってくださいね」と軽く手を挙げ挨拶し、体育館を後にした。  やや道に迷いながらたどり着いたトレーニングルームには、たったの一人しか利用者がいなかった。もしかしたら幹部の人はもう部屋に帰ってしまっていて、その人物は組合とは無関係かもしれないという考えが脳裏をよぎったのだけれど、ランニングマシンの上で黙々と走るその姿を一目見て、そんな考えは一瞬にして消え去ってしまった。  ……その人物は、監視塔員としては奇跡的とも思える要素を二つ、兼ね備えていた。  一つは、痩せているということ。きっとトレーニングが日課なのだろう。僕たち球技組とは違い、毎日ストイックに身体を絞り続けているのだ。流れゆくベルト面を蹴る洗練された足の運び――真っ直ぐに伸びたままブレない上半身が、それを如実に物語っている。  そしてもう一つの奇跡的要素。それは……その人物が、若く瑞々しい女性であるということだった。 「ピアノはまだやってる?」と僕は訊ねた。彼女は走るスピードを緩めることなく、僕の顔を一瞥(いちべつ)して――それからたっぷりと間を置いてから、「……はい?」と言った。  未成年女性の、見知らぬ成人男性に対する……いわばお手本のような反応だった。          § 「私はこの城で生まれたの。父が監視塔員で、母が運営階員。だから橋渡し役なのよ」  僕は壁際に設置されたベンチに腰を下ろし、オオシマイヨの穿(は)いているピッタリとしたレギンスの上、拍を打つように揺れるスカートを眺めながら、昔一度だけ家に遊びにきた不愛想な少女の姿を思い浮かべ、それを目の前にいる彼女の姿と重ねる。 「でも学校は普通に通っていたんだね?」 「そうよ。カルトのコミューンだって学校だけは普通に通わせるわ。義務教育だもの」 「ここってカルトのコミューンなのか?」 「たとえよ。あと悪いけれど、昔のあなたのことは全然覚えてないわ。小学生のころは城に帰りたくなくて、毎日――それこそ日替わりで同級生の家に遊びに行っていたから。あなたのことはおろか、あなたの妹のことも覚えてない」 「妹のことも? きみはまだ、小学校の同級生を忘れるような歳じゃないと思うけど」 「……私はね、モニターに映る全ての人々に名前をつけて、毎日毎日観察しているの」  ランニングマシンは電動式で、定期的にスピードを増減するのだが、彼女は顔色一つ変えることなくそれに対応し、それでいて呼吸も乱さずにしゃべり続ける。 「だから、最近会ってない人の名前なんて、忘れてしまっても仕方ないと思わない?」 「それじゃ、僕の名前が一番最新だ。何日ごとに会えば、忘れられずにいられるかな」 「毎日」と彼女は言った。その言葉には、妙な確信と少しの親しみが込められていた。 「オレミカズキなんて名前、毎日見なきゃ――いえ、聞かなきゃ、きっと忘れちゃう」 「一応、みんなからは『ミカズキ』って呼ばれてるけど。僕は好きじゃないんだよな」 「どうして?」「『三日月』というなら『ツ』に濁点だ。『ス』に濁点だと、変だよ」  僕はほとんど間髪入れずそう言った。これまで幾度となく説明してきたことなのだ。 「要するに、誤謬(ごびゅう)のある感じが気になるのね? 監視塔員向きの性格だわ」 「言葉にすると、そういうことになるのかな。きみは自分の名前が好き?」 「好き……だったわ。ローマ字を習うまではね」 「ローマ字? ローマ字がなにか関係あるの?」 「あるの。私ね、ヘボン式ローマ字に直したとき、特殊な表記が含まれる名前が嫌いなのよ」 「ええと、『オオシマ』の『シ』が『si』じゃなくて『shi』になるのが嫌ってこと?」 「そういうことね。あと『オオ』の部分も、長音だから『o』が一つ消えたりするでしょ?」 「つまり、『し』『ち』『つ』や長音が含まれる名前が嫌い、ということか」 「それだけじゃないわ。『じ』『ふ』や促音(そくおん)・拗音(ようおん)が含まれる名前も嫌いね」 「きっと『n』が含まれる名前も嫌いなんだろうね?」 「後ろに『b』『m』『p』がこなければ、大丈夫よ」 「じゃあ、『親愛』が『竹刀』になったりするのは?」 「うーん、そう言われると……、嫌い……かしらね?」  やれやれ。要するにヘボン式どうこうというより、ローマ字に直したときに表記ブレが発生したり、誤読される可能性のある名前全般が嫌いなのだ。彼女のほうがよっぽど監視塔員向きの性格じゃないか。  でも考えてみれば、「オオシマイヨ」をローマ字に直してしまうと、なんだかもうなにもかも「おしまいよ」な感じになってしまうので、彼女がそれを嫌う気持ちも分からないではない。 「けどむしろ、そういう要素が全くない名前のほうが、珍しいんじゃないか」 「オレミカズキ」彼女はさっき僕がそうしたように、間髪入れずそう言った。  僕は最初、なぜそこで自分の名前が呼ばれたのかが分からなかった。  そして「ああ、」と、一拍遅れて反応を示す僕に、彼女は目を向けることもなく――スローダウンする足場を軽やかに蹴り、「あなたの名前、とても好き」と、なにげなく告げる。  それは僕が自分の名前を好きになるのに――そして彼女に好感を抱くようになるのにも、十分すぎる理由だった。  ……まあより正確にいえば、「o」が含まれている時点で、僕の名前も「オオレミ」とか「ヲレミ」とか、誤読される可能性はあるんだけどね。  そう考えると、やはりローマ字に直して表記ブレや誤読が起こらない名前というのは、とても少ない気がする。  今パッと思いつくのは、そうだな……ムラカミハルキ、だけだ。  彼女がランニングマシンを止めると、トレーニングルームは急に静かになった。遠くから球技組のかけ声が聞こえてきたけれど、それはなんだか別世界での出来事のように思えた。 「なにか話があるのなら、サウナにでも入って話さない?」  彼女は運動によってわずかに乱れた着衣を整えながら言う。  普通、初対面の人間に自分のルーチンワークを乱されたら不快な気持ちになると思うのだが、その言葉からは迷惑そうな様子はかけらも感じられない。それでまた僕は彼女のことが好きになった。 「かまわないけど、ここのスパって、確か男女別々だろ?」 「今まで、私の他に入ってる女性なんて見たことがないわ」  まあ、彼女がそう言うのなら大丈夫なのだろう。ふと「入ってきた男性ならいるのか」というくだらない質問が頭に浮かんだが、本当にくだらないので言わないでおく。なにも自分から評価を落とすこともない。 「フットサルをしてる人たちも、男の人ばっかりでしょ?」 「まあね。日曜にはバレーをするから、ひよりさんって人が来るらしいけど」  もっとも、それも「バレーが先か、ひよりさんが先か」という感じではある。  僕は彼女に導かれるまま女性向けの脱衣所へと入り、そういえばどう服を脱いだものか――いやそもそも一緒に脱衣所に入ってしまってはダメだったのだ――そうぐるぐると思考を巡らせているうちに、彼女は用意されていた大きなバスタオルを上手に使い、さっさと服を脱いでしまった。まるで手品みたいだと、僕は思いがけず感心してしまう。 「……すけべ」  オオシマイヨは僕が最初に声をかけたときと同じ目でそう言うと、白いバスタオルの残像を残し浴場へと消えた。  やれやれ。結局僕の評価は下がってしまうのだ。          § 「発想は悪くないけれど、たぶんどちらもうまくいかないわね」  僕が全身に汗をかきながら全霊をもって説明した二つの提案は、彼女によって儚くも一蹴されてしまった。もっとも、汗をかいたのは「僕がそれくらい必死に力説した」という意味ではなく、環境的な理由なのだが。  サウナルームに入った僕は、まず飲酒量の制限を打ち破る手法を披露した。それは、たとえば僕のようにそもそも飲酒をしない者がお酒を頼み、飲酒者にそれを渡す、というものだった。それで飲酒量制限問題は解決する。  そして新たに、野球中継の導入運動をするのだ。今のプロ野球はビデオ判定をする場面が多々あるのだし、そういったモニター越しのジャッジを監視塔で代行すれば、仕事になるはずだ。幸い監視塔には、審判の裁定にうるさい者たちが揃っている。 「まず一つ目だけれど、それってお酒を渡す塔員に、なにかメリットはあるのかしら? 善意に頼るだけのシステムは長続きしないわ。そして二つ目は、観客が納得しないと思うの。人はしかるべき人間に裁定されるから納得する――納得せざるをえないのであって、この城のように、世間的に得体の知れない団体がそれを代行するのって、受け入れられないと思う。分かる?」 「分かるよ。確かにきみの言う通りだ。僕の考えが甘かった。……一つ目の提案はもしかしたら、僕たちは監視されていて――そういう不正を行ったらすぐにバレるからダメ、と言われるかもとは思ってたんだけど」 「運営階員に、ってこと? それは大丈夫よ。城の中に、監視カメラは一つもないわ」 「ふぅん、そうなのか。……ところでその、『運営階員』っていうのはなんなんだ?」 「この城を運営している人たちよ。たとえば、私たちからの電話に応対する人とか」 「もしかして、いつも料理を運んできてくれる、あのシャンとした男も運営階員?」 「シャンとしてるかは知らないけど」 「たくさんの運営階員がいるわけだ」 「そう。ああでも、私の部屋に料理を運んできてくれるのも、だいたいいつも同じおばさんね」 「へぇ。……そういえば、僕が電話をかけると、いつも同じ……執事っぽい人が出るんだよな」 「それは私も同じよ。あの声は加工されているの。運営階の事務員は、ほとんどが女性だから」 「なんで声を変えてるんだ?」僕が疑問を口にすると、彼女はそっけなく、「女の人だと分かると、いたずら電話が増えるのよ」と言った。ふぅん、そんなものかな。 「でもそういうことって、僕に教えても大丈夫なの?」 「大丈夫じゃないわよ。だから二人だけの秘密、ね?」  彼女は少し笑って、それからバスタオルの先で額の汗を軽く拭った。白すぎる胸元がちらりと覗く。 「……実はね、ミカズキのこと、前から知っていたの」  良い代案もすぐには浮かばず、熱に耐える沈黙の後で、彼女がそう打ち明けた。  年下であるオオシマイヨに呼び捨てにされるのはどこか奇妙な感じがしたのだが、この塔においては彼女のほうが先輩なのだし、むしろ僕のほうこそ彼女を「さん」付けで呼ぶべきなのかもしれない。  それにそもそも、呼び捨てにされて悪い気はしなかった。 「小学生のころのことを言ってるんじゃないの。私はこの塔で、モニター越しにミカズキを観ていた」 「僕の、外での暮らしを見ていた……ってこと? ……僕って、そんなに面白いことをしていたかな」 「面白いというのとは違うの。観ていると安心したのよ。だってあなたは、いつも一人でいたし……」  彼女はそこで、「相手の良いところを挙げようとしたけれど、なにも思いつかなかったわ」というような視線の泳がせ方をして、「……とにかく、一人ぼっちのあなたが好きだったのよ」とごまかすように言って笑った。 「それに、毎日この城の塀を見て歩いていたじゃない? 絶対にいつか入ってくるって思っていたの」 「ここにいる人たちって、みんなあのブロック塀の足場を見つけて入ってきたの? きみは別として」 「ううん。監視塔員も運営階員も、普通はちゃんとした求人募集を経て採用されるわ」 「ナントカワークとか、そういう求人誌に載ってるってこと? 見たことないけどな」 「巧妙に隠してるの。テーマパークの求人だって、そのまま書いたりしないでしょ?」  それから彼女は、監視塔の採用試験についていろいろと教えてくれた。彼女自身も又聞きのようで、話が脚色されている可能性は多分にあるのだけれど――たとえば、ある人は採用面接でいきなりお笑い番組を見せられて、五人のお笑い芸人のネタを戸惑いながら眺めた後、面接官に「なにか気付いたことはありますか」と質問された。 「……でもその人は、見事正解を言い当てたの。三番目に出てきた『ステーキマン』というお笑い芸人が、腰に大きなナイフとフォークをたずさえていたんだけど……それが左右逆だったのね。だからその人は、『はて? 特にこれといっては。ただ……三番目の彼はどうやら、左利きのようですな?』と答えて採用された、なんて言ってたわ。でもそのキザな言い回しは、さすがに誇張してるわよね」というような話だ。  そうしているうちに、ずいぶんと時間が経った。どう考えてもサウナに居過ぎていたが、そのおかげで、大量の汗と共に精神的な澱(おり)のようなものまできれいさっぱり排出できた気がした。身体的な疲労感を前に、人間はようやく雑念を捨てることができる。  僕たちはジャグジー付きの浴場へ出て、各々シャワーを浴びる。タオルを絞り、脱衣所へ戻ろうとする僕を、彼女が「待ってよ」と呼び止める。いや、待ったらまた、一緒に着替えることになっちゃうんだけどな。 「ミカズキのこと、もっと教えてよ。なにか用事があるわけでもないんでしょ?」  ……とのことで、僕はジャグジーに浸かり、自身の簡単な生い立ちについて説明した。  面白くもない話だ。父親が妹をビール瓶で殴って重傷を負わせてしまい、離婚……僕は高校を中退し、一人暮らしとアルバイトを始めた。  もちろん最初のうちは大変だったが、五年も経った今では慣れたものだ。趣味らしきものといえば野球中継や映画を観ることくらいなものだし、年金どころか健康保険料さえも納めていないから、一人分の生活費くらいは十分に賄うことができた。むしろ貯金もできたくらいだ。 「外にいたころは、スマホで野球中継を観てたんだよ。部屋にテレビがないから」 「……野球も、ここのモニターで観ることができたら、臨場感があるでしょうね」  身体に巻いていたタオルを取り払い、湯が激しく噴き上がる箇所に向かい、脚を投げ出すようにして座る彼女は、僕の話を興味深そうに聞き、時に神妙な相槌を打った。 「きみはどうして組合の幹部をやってるの? それこそ、善意でやってるのかな」 「善意もないわけではないけど。……城生まれの人間なんてほとんどいないし、多少無茶をしても、私の場合は城を追われるってことがないから。……ほら、両親と子供が別々になっちゃうでしょう。それに両親は二人とも、この城ができたころからの住人だし、そのうえ……私、この城で生まれた最初の子供なのよ」 「なるほど、だから無下(むげ)にはできないってわけだ。言わば王女みたいなものだし」 「本当にそう呼ぶ人もいるわよ。王女様って」彼女は後ろ手に底へ手をつき、天井を見上げる。 「きみが王女様なら、僕は城を追放されるな」僕はそんな彼女の胸元を見つめて冗談めかした。 「そうよ。王女様とこんなことしてたら、ね」彼女は視線に気付くと僕に思いきり湯をかける。  そのとき僕は、本当に城を追放されることになるなんて、これっぽっちも思っていなかった。          §  部屋に戻った僕は充実した気持ちで満たされていた。冷静に考えてみれば、運動をしに赴(おもむ)いた運動階で運動はできず、僕が出した二つの提案も実を結ばなかったのだが、彼女と出会い、話せたことは、それらの失敗を省みる必要のない些細な事象へと変えてしまっていた。  僕はこの監視塔という暗闇の中で、基点となる灯台を見つけたのだ。  そう、暗闇。僕はリクライニングチェアに座り、両手を大きく広げて伸びをし、「さあて、」と口にするまで、その異変に気付かなかったのだ。  ……三面モニターの電源が、点いていない。  嫌な予感がした。僕は肘掛けのタッチパッド部分に触れ、モニターに変化が起きないことを確かめると、テーブルの上に置いておいたタブレット端末を手に取る。  幸い端末は生きていた。僕は停電時に一本のロウソクを見つけたかのようにそれをありがたがった。しかし端末のどの項目をタップしても、モニターに命が灯ることはなかった。  カードキーの置き方が悪かったのではないか? 僕はそう考え、部屋の出入口近くのカードキーホルダーからカードキーを持ち上げて、再度ホルダーに投入する。しかし、結果は……。  出入口付近の小さな常夜灯は点いているし、スイッチを押せば洗面所の明かりもちゃんと点くので、停電ということはない。今までは全く気にならなかったが、かすかに空調の駆動音も聞こえる。そう、モニターだけが死んでしまったのだ。  僕はもちろん受話器を取り、運営階に電話をかけた。 『いかがいたしましたか?』そっけない呼び出し音の後、お馴染みの執事めいた声が聞こえる。 「カードキーをセットしたのに、モニターが点かないんだ」  僕は不快さを表すニュアンスが声に出てしまわぬようにと心がけながら、ただ事実だけを正確に報告した。僕は文句を言っているわけではなく、状況の回復に努めているのだと……その気持ちが伝わるように。 「三つともだよ。カードキーをホルダーに入れ直したりもしてみたんだけど、ダメなんだ。洗面所とか……他の電気は点くから、停電ではないと思うんだけど」  受話器から沈黙が聞こえ始めた。沈黙は聞こえるものなのだ。そしてそれにはいくつかの種類がある。ちょうど世の中に様々な種類の白色が存在するように。  そして今回のこの沈黙は、僕が子供のころに幾度か聞いた種類の沈黙だった。  懐かしさすらある。それは、両親や教師が、僕に反省の弁を求めているときに使う種類の沈黙だった。  モニターは意図的に消されたのだ。  それを理解した僕は、自ら罪を告白した。 「……ねえ、確かに僕は組合に関わっていた。積極的にではないにしても、組合員として情報を聞いていた。幹部にも会って提案もした。でも悪気はなかったんだ。僕は自分たちが監視されているかどうかを確かめたかったんだよ。組合活動をして、それがあなたたちに気付かれていなければ、僕たちは監視されていないってことになるでしょう。安心したかったんだ。本当は、アルコールの制限緩和やミュージックの解放運動なんて、どうでもよかったんだよ。『監視されていない』という確信を持ちたかっただけなんだ。ほら、やっぱり監視されるのって、気分が良いものではないから」  打算的な面はいくらかあったものの、その言葉は紛れもなく僕の本心のうちの一つだった。  それにしても、オオシマイヨは「城の中に、監視カメラは一つもない」と言っていたが、やはり僕たちは監視されているのではないか? でもどうなんだろうな。監視員を監視するのであれば、その「監視員の監視員」も監視されるべきなのだ。そしてそうなれば、その「監視員の監視員の監視員」も同じように監視されるべきだ。となると、これはもう完全にきりがない。ならばと相互に監視させようにも、今度は癒着が問題となる。  僕がそんなことを考えている間にも、受話器からは沈黙が漏れ続けていた。  おかしな沈黙だな、と僕は思った。具体的になにがおかしいのかは分からない。ただ「なにかがおかしい」ということに僕は気がついた。だから僕は耳を澄まし、身を寄せるかのようにその沈黙に意識を傾けた。そうすれば微小な音が聞こえるようになるということではない。ちょうど文章の行間を読むみたいに、なにもない音を聴き続けるのだ。  僕は受話器を持ち替え、「なるほどね」と呟いた。沈黙は僕に反省を促してなどいなかった。彼女はただ単に、無闇にしゃべってぼろが出るのを恐れていただけなのだ。 「……きみは、オオシマイヨだな?」  意を決して紡がれた僕の言葉に対し、返ってきたのはやはり沈黙だった。永遠に続きそうな沈黙だった。でもその沈黙は笑っていた。沈黙の種類が変わったのだ。だから僕もそれ以上なにも話さなかった。やがてその沈黙も消え失せた。  僕は受話器を置き、リクライニングチェアを倒して、眼球を引っ込めるかのように固く目を閉ざした。  眠ろう、と僕は思った。そう口に出しさえした。せっかく邪魔な明かりを向こうから消してくれたのだ。眠らない手はないだろう。  映画が観られないというのなら、代わりに夢を観ればいい。でもその日、僕は夢を見なかった。いや、「見なかった」のではない、「見たかもしれないが、覚えてはいなかった」のだ、正確に言えば。けどその二つの間にいったいどれだけの違いがあるだろう?  クジャクだって森の中では踊っているのかもしれない。でもそれを見た者はいないのだ。          §  翌日、モニターの継続した死を確認した僕は、朝早くから運動階を訪れた。外界から隔絶され、日の光すら射し込まないこの監視塔においても、朝と夜の区別は確実に存在していた。  早朝の体育館には、ランニングをする男が一人と、モップがけの清掃をしている男が一人いた。いや、あるいはそのモップがけも本人にとっては運動の一環なのかもしれなかった。  どちらも初めて見る顔だ。そして二人とも、監視塔員としては比較的マシな体型をしている。  僕はトレーニングルームへと向かった。そのエリアに入る前からランニングマシンの稼働音が聞こえていたのだけれど、そこにいたのはこれもやはり知らない中年男性だった。  なにもランニングマシンを使わなくてもいいじゃないか、と僕は思った。体育館でランニングをしていた男と論争になればいいのに。いや、あるいはもう、そういうことはとっくにしているのかもしれない。  僕は仕方なく昨日座ったのと同じ長イスに腰掛けたのだが、ランニングマシンで走っている男がたびたび「こいつはいったいなにをしにきたのだろう」という目でこちらを見てくるので、とりあえず近くのエアロバイクにまたがってみた。  自転車に乗る必要のないこの監視塔で、トレーニングのためにそれに乗るという行為は、どことなく趣深く、示唆(しさ)に富んでいるような気がした。でもペダルを漕ぎながら改めて考えてみれば、海で泳ぐ必要のない人間だってプールで泳ぎを練習するのだし、そこにはひとかけらの趣深さもなく、どのような種類の示唆も存在してはいなかった。  僕はオオシマイヨが来るのを待ち続けた。全てのトレーニング器具を試し、ジャグジーに二度浸かり、休憩室のドリンクディスペンサーでココアコーラを作って飲んだ。  ……そうしているうちに夜になり、体育館からボールの弾む音が聞こえてきた。 「おうミカズキ、今日はバレーだぞ」  体育館に足を運ぶと、そこには普段より明らかに多くの男たちが、肘と膝に黒いサポーターをつけ、きちんとしたシューズを履き、年齢に見合わぬ爽やかな汗をかいていた。  試合前の練習時間はすでに終わり際のようで、四面あるコートの二面に四つのチームが分かれ、談笑交じりのくだけたミーティングを行っている。  見たところ一チーム九人制の、いわゆる「ママさんバレー」と呼ばれる形式のようだ。  九かける四。三十六人。審判も含めればもっとだ。……なんだよ、バレーならこれだけの人数が集まるんじゃないか。  僕に話しかけてきたリーダー格の男は、いつも通りオレンジ色のビブスを着て、やはり肘と膝に黒いサポーターを着けていた。それに、バスケやフットサルをするときはまちまちなのに、今日はみんな半袖半ズボンで揃えている。笑えてくるな。気合の入れようが違う。上下ジャージ姿の僕は、どうやら場違いみたいだ。 「そういえば、今日は日曜でしたね」 「知らずに来たのか。ほら、ビブス」  そう言って男は赤いビブスを放ってきた。……赤?  僕は辺りを見回す。オレンジ、ブルー、グリーン、ブラック。赤いビブスを着た人間は一人もいない。……ああ、と僕は察する。オレンジのビブスが足りなくなったから、赤いビブスで代用しているのか? 「ミカズキ。三日月の部屋って、おまえだったよな」  僕は不意に、背筋にさらりと冷たい水が流れていくような感覚を覚えた。気付けば、オレンジビブスチームの視線も、その他の色のビブスを着た者の視線も、――要するに体育館内の全ての視線が、僕に集まっていた。  静まり返る館内に、時折、威嚇(いかく)のために指の間接を鳴らすかのごとく、誰かがボールを弾ませる。 「……そうですけど、それがどうかしたんですか?」  作り笑いを浮かべ訊ね返すと、男は傍らに立つ女性を目で示した。女性。いつの間に?  彼女は身体のラインがはっきりと浮かぶ半袖シャツの両袖を、若々しく肩先まで捲り上げている。しかし年齢は三十代前半……あるいは後半。全体的に丸みを帯びた体つきではあるものの、女性としては背が高く、太っているとは感じさせない。まあおそらくは彼女が「ひよりさん」なのだろう。 「昨日スパに行ったら、脱衣所に見慣れないジャージがあったのよ。……あの子とはたまに一緒になるけど、違うジャージだったし。……それで、悪いとは思ったんだけど、ポケットの中に入っていたカードキーを、見せてもらったわ。……間違いなく、三日月マークのカードキーだった」  彼女は責めるような口調で言う。いや、彼女は明確に、僕を糾弾しているのだ。  僕は無意識のうちに彼女の乳房に目を向けていた。それこそ、服の中にバレーボールでも入れているのではないかと思うほど、それは大きかった。  僕がなにも言わずにいると、彼女はさらに語気を強め、僕にいくつかの言葉を浴びせた。 「とりあえずこれ、返しますよ」  僕は彼女の言葉を完全に無視して、リーダー格の男に赤いビブスを差し出した。 「牛が興奮するみたいだからさ」  男は不可解そうな、あるいは不快そうな表情を見せ、それでも一応、ビブスを受け取る。  僕はそのとき、「闘牛は赤色に興奮しているのではなく、闘牛士による巧みな布さばきによって興奮を煽られているのだ」という話を思い出していた。ああ、それにそもそも、「闘牛は観客の前に出された時点ですでに興奮しているのだ」とも聞いたことがあるな。  では、舞台裏で準備をするにあたって、いったいどのようにして闘牛を興奮させているのだろう? ――僕はよくそうして、考えるべきではないときに、余計なことを考える。  きっと、あまりパッとしない方法で闘牛を興奮させているんだろうな、と僕は思った。  だってそれが華やかな方法だったとしたら、観客の前でやったほうが盛り上がるはずだものな。  急速に僕の居場所が失われていく。  僕はトレーニングルームに戻り、長イスに寝転んでオオシマイヨが来るのを待ち続けた。 「……あの子とはたまに一緒になるけど、…………」  乳房の大きな女性の、その言葉が気になって、……僕は眠ることもできず、喉が渇き……またココアコーラでも飲みに行こうかと起き上がった、――そのとき。六月の雨のように静かな足音を伴って、オオシマイヨが姿を現した。 「人は何事にも飽きるものだなんていうけれど、  月は、どれだけ見ていたって飽きないのよね」  口元に笑みを浮かべ、オオシマイヨはそう言った。唇の両端が異様に吊り上がり、それは僕に否応なく、三日月が横たわる姿を連想させた。 「あなたが城に入ってきて、最初は本当に嬉しかった。  でも、私の部屋の夜空から、月が消えてしまったの」  城の中に監視カメラはないというのは、おそらく本当なのだろう。  ここはいわばリングドーナツの穴なのだ。監視されない場所。監視できない場所。  死角。 「あなたは夜空へ戻るべきだわ。  そして部屋を照らし続けるの」  ……やれやれ、ドーナツの穴が死角だなんてな。普通は丸いのに。  僕はまたしても余計なことを考える。考えるべきではないときに。  僕の口は何事か言おうと薄く開かれていたが、そこから発せられたのは、溜め息にも似た重い吐息だけだった。 「月は遠くから見なければね。  そう思わない? ミカズキ」  喉は渇き、瞳は潤んでいた。結局のところ、僕はドーナツの一部でしかなかったのだ。  にもかかわらず、彼女に近付きすぎてしまっていた。  だから僕は戻ることになる。いるべき場所へ。  彼女の目の、届くところへ。          § 「三件、お願いします」と僕は言い、専用端末から吐き出されたレシート三枚をレジへと並べた。  ――監視塔を出てからの職場復帰は、拍子抜けするほどスムーズだった。  僕はバイト先からの帰り道に交通事故に遭い、幸運にも外傷はなかったものの、頭を打ち、記憶の混濁がみられるということで、しばらく休職――という扱いになっていた。  銀行口座を確認してみたところ、労災保険が給付されていたし、『アキチジョウ』なる人物から少なくない額のお金も――おそらく運営階からの手切れ金なのだろう――振り込まれていた。  僕はそのお金を、全て野球観戦につぎ込むことに決めていた。  ちょうど今、バイト帰りに寄ったいつものコンビニで、申し込んでおいたアイチドームでのプロ野球開幕三連戦のチケット代金を払い込み、チケットを発券してもらうところだ。  店員はレシートに印刷されたバーコードを手際良く読み取ると、僕に払い込み金額を告げ、「そういうマニュアルだから仕方なく」といった感じで「チケットの内容にお間違いはありませんか」と訊ね、それからボールペンを差し出してレシート下部の署名欄へのサインを求め……これはもうチケットを入れる以外に使い道がないぞというような細長い紙ケースにチケットを入れて、それを僕に渡した。  店外へ出ると、僕は紙ケースを開いて、券面に印刷された『レストラン・カウンターシート』の文字を再度確認する。  一般発売チケットの中では最もバッターボックスに近い『内野S席』と最後まで迷ったが、僕は最終的に、三階のアリーナビュー・レストランでコース料理を楽しみながら試合を観ることができるその席を選択した。有給休暇もすでに申請してある。  野球を観ながらコース料理、だってさ。笑ってしまう。  見慣れた深夜の生活道路。やがて僕は、封印された空き地に突き当たる。そのブロック塀の先に、城は――監視塔は、見えなかった。どんなに目を凝らしても、遠くからでは見えないのだ。  角を曲がると、僕はあの日と同じように小石を拾い、それをブロック塀に擦りつけながら歩いた。けれど窪んだブロックは見つけられない。  いつも通り、途中から手に力を込め、……ガリガリ、心電図にも似た波線を、塀に刻んでいく。数え切れないほどの脈拍。でも心の中では分かっていた。足場はもう、埋められてしまったのだ。  向かいから三人の若い男が歩いてくる。僕は小石を塀から離し、掌に握り込むと、顔を伏せてやり過ごそうとした。でもすれ違いざま、その男たちの会話が耳に入ると、僕は思わず立ち止まり、男たちのほうを振り返る。 「今、なんて言いました?」  男たちは最初、「俺たちに話しかけてんの?」という表情で僕を見て、それから「おい、無視でいいよ」という意味のアイコンタクトを仲間内で交わした後、どうやらその意見は彼らの間で概ね肯定されたようなのだけれど、そのうちの良心的な一人はまだ僕を精神異常者と決めつけるには早いと思ったのか、「……いや、こいつが『ここの空き地ってなにかできるの?』って訊いてきたから、俺が『長いことほったらかしだったけど、今度大型ショッピングモールができるって話だよ』って、……そう言ったんだけど」と、実に簡潔に説明する。  僕は手に持っていたチケットを紙ケースごと落としてしまう。慌ててそれを拾った後で、僕はその良心的な一人に、「そんなわけないですよ」ときっぱり言った。「ここには城が建ってるんですから」と、指をさしてその場所を示してやる。  でも三人の男は一人として僕が指さした先を見ることはなく、そこでようやく心置きなく僕を精神異常者だと断ずることができたのか、彼らはやはり互いに顔を見合わせ――無言の意見交換を済ませた後で、誰からともなく歩き出した。  その背中に、僕は「本当なんだよ」と訴えかけた。良心的な一人が振り返り、気の毒そうに僕を見た。 「本当なんだよ」と僕はもう一度訴えた。今度は誰も振り返らなかった。
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