あたらしい暮らし

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あたらしい暮らし

田舎の虫はでかい。 都会育ちの私に、大きな鎌を自慢げに振りかざして威嚇するカマキリとのにらみ合いも、かれこれ十分が経過する。 庭掃除用の箒の柄で鎌の先端にちょんと触れる。 突然動きに出た私に驚いたのか、それとも更にやる気を出したのか。 そいつは自分の頭よりも更に高く鎌を持ち上げてポーズを取って見せた。 冬にもなると深い雪に覆われる、三方を山々に囲まれた神白村。ようやく春が訪れ、野の花が咲き乱れる四月の朝。 手のひらサイズはあろうカマキリとの、終わりのないにらみ合いに強制的に終止符を打ったのは、火に掛けていたヤカンだ。 ぴゅおーっと叫ぶ昔ながらのヤカンにしたのは、単に忘れっぽい私に合っていたからではない。 この村に越してくる前。私がまだ大都会のど真ん中で当時の婚約者と暮らしていた家から持って来たものだ。 元と言うだけあって、婚約破棄している。 ある夜突然別れようと切り出され、それに対して私も特に何も言い返すことは無かった。 私は自分に甘い。そして他人にも甘い。いわゆる激甘人間だ。ぬるい湯に浸かってだらりとしているのが好き。人生だって同じくだ。 いともあっさりと幕が下りた五年間の付き合いにも、案外心残りは無かった。 同棲中、お前の大雑把な所に時々腹が立つだの、お気楽な人間だのと小言を言われたこともあるが、そういった不満の積み重ねがあったのだろうか。 こればっかりは仕方ない。それを変えなきゃと思った事も無い以上、私たちは合わない人間だったのだ。 冷静に「今までありがとう」とだけ告げ、その日のうちに荷物をまとめて家を出た。 そこから持って来たのがこのヤカン。 彼からも「もっと洒落たの買えよ」と言われていたけど、実家から持って来た嫁入り道具にするつもりだったこれは、変えるつもりが無かった。 白地に赤や黄色の大きな花がぐるりと一周並んだ、よく言えばレトロ。昭和感漂う代物だ。 「あの子どこ行った?」 火を止めてお茶パックを放り込み、玄関を出た所でアヒルのピー君が首を傾げて私を見上げていた。 ピー君がくちばしで家の前の通りを指す。 いや、実際には顔を向けただけだが、そのくちばしの指す方に行ってみると、のそのそとカマキリが出て行こうとしているところだった。 「ふふん。私の勝ちね」 勝ったところで何もない。 ただ、のんびりとした田舎の小さな村では、こんなどうでもいい勝負にまで本気になってみるのが案外楽しいのだ。 今までだったら「気持ち悪い」と避けながら歩くところだが、この村に越してから出会う虫がいちいち大きくて、勿論叫びたくなるくらい気持ち悪いやつもいるのだが、そんなのに比べたらカマキリなんて可愛いものだ。 まるで「じゃあな」と潔く負けを認めて、風来坊のように去っていく後ろ姿に「達者でな」と、二十五歳らしからぬ言葉をかけてしまうのだ。 「それにしても良い天気ねぇ。看板作りが済んだら散歩にでも行こうか」 私の足の周りをぺたぺたと歩くピー君が、家の脇にあるブロックで囲った彼専用トイレスペースに歩いて行く。 意外と賢いピー君のお尻からジェット噴射のようにフンが飛び出す。 そうしてすっきりした顔で尾っぽを振るわせて私を見つめる。 「さぁ、掃除頼んだぜ」と言わんばかりに。
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