もちづきごころ

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 夜が好きだ。  そんなことを言うと、大抵の人は「わかる」って言ってくる。わかる、夜の方が静かだし落ち着くし良いよね、そんな風に言ってくる。私、星を見るのが好きなんだ、俺も月を見るのが好きでさ、そんな風に言ってくる。夜風がどうとか布団に潜れるのがどうとか仕事から解放されるのがどうとか。  うるさいな。  僕が夜を好むのはそんな浅はかな理由じゃない。一緒にしないでくれ。というかそもそも、他人の「好き」に簡単に同意を示してくるなんて失礼じゃないか。僕の何が「わかる」っていうんだ。僕の心の何をもお前達は知らないで、どんくさい僕のことを嘲笑ってくるくせに。  そんな毒めいたことを思っているうちに僕の昼は終わる。口には出さない。出せやしない。僕は所詮その程度の人間だ。そういう話をするとどこからともなく「沈黙は美徳だ」なんて言う人が出てくるものだけれど、そういうのも僕には用がない。余計なことを言わないでくれ、ただひたすらにそう思いながら強く目を瞑る。  誰も何も言わないでくれ。まるで僕がそんじょそこらにいる典型的な一般人Aでしかなくて、それ以上の何者にもなれないと言わんばかりじゃないか。僕だって個性が欲しい。誰かにとってのただ一人になりたいし、自分にとってのただ一人になりたい。だけど僕はただの凡人で、平凡で、もしかしなくても平均以下で、自分が一般人Aでしかないことなんて百も千も承知なんだ、だからわざわざ他人という口からそれを指摘してこないでくれ。  僕の中にある親しい絶望を倍増させないでくれ。  僕と同じ身長のそれが大きくなってしまったら、どちらが僕なのかわかったもんじゃない。 ***  自信を持ちなよ、と人は言う。  自信を持ちなよ、自信があればどんな苦境も越えられる、人に好かれる、気分が良くなる、人生が楽しくなる。  僕を何だと思ってるんだ。自信っていうのは実績があるから身につくものなんだ。僕が好き好んで自信を失っていると思っているのか。そんなの、とんだもの好きじゃないか。  僕は友達がいない。友達と呼んでも差し支えない知人はいるけれど彼らは僕を知人以上の関係性だとは思っちゃいない。だから僕は遊びに誘われない。だから僕も遊びに誘わない。  僕は成績が良くない。平均点との睨めっこではたびたび負ける。たまに平均点より上を取れても、気付かれないまま「今回もあまり良くなかったね」って言われる。頑張っても頑張ったことにならない。だから僕は頑張りが足りない。  全部、事実だ。これを無視して「僕は人に好かれている」「僕は頑張り屋だ」って名乗る方が馬鹿馬鹿しいじゃないか。だから僕は絶望している。自信を失くしている。それが当たり前の対応だからだ。  そして僕は、このことを誰にも言わない。  言い返される言葉はわかっているからだ。 「もっと自信を持てば良いのに」  僕はいたち以外といたちごっこをするつもりはないし、いたちといたちごっこもしたくない。僕は冗談でもなく、人間として人間と話をしていたいだけだ。頭脳と頭脳で話をしたいだけだ。それはものすごく贅沢で、困難で、奇跡みたいなものなのかもしれない。  なら、期待もできやしない。  自信なんてものより大切なものを、みんな忘れ去ってしまっている。 ***  光の下には影が落ちる。影が落ちる、という表現は好きだ。良い。影は重力に勝てやしないのだ。常に「落ちる」ばかりで「上がる」ことはない。だから僕は影が好きだ。そこには事実しかない。影は落ちるしかないという事実しかない。光源がどれほど明るくとも、淡くとも、その事実は変わらない。  だから僕は、夜が好きだ。  夜になると僕は部屋のベランダに出る。夜風は昼間の風よりも冷たい。空には星があるのだろうけれど、周囲の住宅や街灯の明かりが眩しくてよくわからない。月は屋根が邪魔で見えたり見えなかったりだ。  ただ、暗い空だけが必ずある。  影のような空が必ず頭上にある。  影なのかもしれない、と僕は思う。昼間の空の影、太陽に照らされた青の下に落ちる影。だとしたら素敵だ。夜という時間には夜空をも超える大きさの影なんて存在できないのだから。  それがたまらなく心地良い。布団の中よりも心地良い。どんなにたくさんの懐中電灯を持ち込んで僕のありのままを照らしたところで、僕の絶望は増幅はすれどあの空に遠く及ばないのだ。  僕は空へと手を伸ばす。僕の意図を察してか夜風が僕の手指を地上側へと押し込めてくる。夜風はみんなと同じだ。夜は静か、夜は落ち着く、友達は良いもの、自信は必要なもの。光は美しくて憧れで、僕達に必ず必要なもの。それらに逆らってさらに手を伸ばす。さらに、さらに、空へ。あの影の元へ、もっと近くへ。  太陽と違って災害をもたらすことのない、月と違って欠けることのない、星と違って見えなくなることのない。  人間と違って触れることの決して叶わない。  それがたまらなく心地良い。  僕は声を出して笑った。遠慮がちな笑い声は小さく夜の街に響いていった。遠くで犬が遠吠えをしたから、僕は代わりに笑うのをやめた。犬も遠吠えをやめた。少しの間だけうるさくなった夜はあっという間に静かになった。  夜空は僕達のことなど気にもせず、影色のままそこに広がっていた。
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