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___ブゥーン___ブゥーン
___ブゥーン___ブゥーン
ジャケットの、胸ポケットに入れてあるスマホが僕を呼び出し始めた。
鎮まりかえる会議室に、スマホの振動音だけが響く。
「取らなくていいの?」
何の反応も見せない僕に、初老の女が僕にスマホに出るよう促した。
「五月蠅いっ! 黙ってろっ!」
ナイフを握る右手に力が入る。
「今時の若者の割りに、こんな大胆なことをする勇気があるなんてね」
「だから、黙ってろよっ! 無駄に怪我なんかしたくないだろ?」
「怪我を負わすことが目的なら、私はもう既に大怪我をしているわよ?」
「はぁ?」
意味の解らない女の発言にイラつき、更に力が入る。
首筋に押し付けているナイフがグッと肉に食い込み、それを視ていた女の部下が慌てふためいた。
「き、君っ! 話し合えばわかるっ! だから早まった真似はするな」
既にそんな段階には無いというのに、余りにズレた頓珍漢なことを吐く女の部下にも苛立ちを覚え、ナイフを握る手には更に力が入ったが、そんなことは女にとって大した意味を持っていないようだった。
その態度が僕の決意を強固にさせる。
「神谷ありがとう。でも危ないから彼方は下がってなさい」
「し、しかし先生…………」
女は僕の方にゆっくりと振り向きながら、微笑んだ。
押し付けられたナイフで皮が切れ、首筋から少し血が流れた。
渋々ながら、神谷と呼ばれた男は部屋を出ていく。
「望み通りに怪我することが出来たな」
ナイフを握る力が緩み、少々の震えが起こる。
「なぁ、アンタは自分の置かれている状況を把握できているか?
それとも、もうボケてるのかよ」
女の異常さに気圧されそうになる自分を鼓舞する為に、挑発した。
「良かったわね、望みが叶って」
そんな僕をせせら笑うように優しく女はいった。
こんな状況だというのに、焦りも一つも見せず、皮肉を返し、周りを気遣う余裕すら見せる女。その態度に語気を強くした。
「おいっ! さっきからアンタは何を言って__」
「ククク、うふふふふ」
女は笑った。ただ、笑った。
元々在った不信感も確信に変わってくる。
「なぁ、あんまり僕を怒らせるなよ」
「あらあら坊や、怒ったの?」
命を握られているというのに、微塵も動揺がない。
それどころか、僕を試しているかの様ですらある。
「あのさ、僕が出来ない__」
「大丈夫よ。アナタはちゃんと決断出来るし、選択できる__
いえ、洗濯かしら?」
やはり僕の疑念は正しかったのだ。
この女は他人の命は愚か、自身の命にすら執着がない。
狂っている。いや狂っていたのだ。
僕は間違ってなどいなかった。
でなければあんな風に出来る筈がない。
いや、人の血が通っているのなら、何かをしたはずなのだ。
「いったいアンタは何なんだよ…………」
「ふふ、だってこんな事になって、私のキャリアはこれで終わりだもの。
こんなに面白い終わり方がある?」
目の前にいる怪物に疑問をぶつけるも、無意味だった。
この女はこの地位に登るまで、多くのモノを犠牲にして来た。
今の地位に就いてからは更にもっと多くのモノを犠牲にした。
「キャリアどころか命すら危ういんだぞ? 分かってるのか?」
そうまでして他人を犠牲にして手に入れた地位なのに、それを失くすことに、全く何も感じていない。響いてすらいない。
今は命すら危ういのだ。なのに目の前こと以外を考えられる余裕が残っている。
苛立ちは募る。
「なぁアンタにとって地位や命は大事じゃないのかよ」
「何故? 何をしても何をせずとも、人なんて死ぬときは死ぬし、生きる時は生きる。なら自分が一番面白いと思うものを選べばいい」
正にその自分本位な考え方がこの状況を生んだのに、犯した罪の大きさを全くわかってない。
「だとしたら、この状況すら楽しいってのかよ」
そうだとしたら、僕のしていることは…………
いや、そんなことはもうどうでもいい。
殆ど目的は果たしていると言っていいのだ。
この女のペースに乗せられる必要なんてない。
「私にとっては願ってもない展開よ?」
女は不敵に笑った。
「まさかこの後に及んで殺されないなんて思ってないよな?」
虚勢を張る様に僕も笑った。
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