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スタッフ専用エリアの化粧室の鏡に映るわたしは、疲労感をまるだしにした顔をしていた。
時刻はまもなく午前0時になろうとしている。
今日は香港からの到着便が遅れたり、荷物の紛失があったりとトラブルがつづき、遅番勤務の終業時間を大幅に超えて、こんな深夜になってしまった。
あと数分で日付けが変わる。そうしたらわたしは40歳になる。疲れるはずだわ、と鏡のなかのじぶんに苦笑する。
わたしのグランドスタッフとしての勤務は、今日で終わり。
2日間の休みが明けたら、つぎはバックオフィスで管理職のポストに就くことになっている。
化粧室を出て、前方の長い通路に目を向けた。すると視線のずっと先に、すらりとした人物のうしろ姿が動くのをみとめた。
え。 息が止まってしまいそうな衝撃が、身体全体に稲光が閃く速さでひろがった。
色あせたジーンズ。白いTシャツ。腰に巻いた、デニムジャケット。それに、ふんわり盛りあがった赤茶色の髪。
慧。
心臓が大きく鼓動し、身体を揺さぶった。
人影はわたしに背を向けたまま歩き、どんどん距離をあけていく。
「待って。慧!止まって」
スタッフ専用エリアに、慧がいるはずない。
頭ではそうわかっているのに、わたしは人影を追いながらあなたを呼んだ。でも、ふり向いてくれない。
「慧!慧!」
あなたは重みのあるスチールドアをふわっと開けて、ターミナルの一般エリアへ出ていった。
営業を終えて明かりを消したショップの前を通り過ぎ、『閉鎖中』の札の掛かったポールの横もすり抜けて、あなたは停止しているエスカレーターをすべるように上っていく。
あなたからけっして目を離さずに、わたしはもつれそうになる足を必死に前へ進めさせた。
慧。慧。
わたしに会いに来てくれたんじゃないの。
どうしてこっちを向いてくれないの。
もしかしたら、迎えに来たの。いつまでもひとりでいる私をあわれんで。
いいわ。
あなたとなら、奈落の底に落ちてもかまわないの。
どこまででもついて行くわ。
エスカレーターのステップを一段一段踏み、あなたにつづいて上階のフロアにのぼった。
どの航空会社もとうに業務を終えている国際線の出発ロビーは、暗く、人っ子ひとりなく、天井の終夜灯だけが弱い光を床に投じている。
「慧!」
追いつけないもどかしさから、わたしはせっぱ詰まった声であなたを呼んだ。
するとあなたはようやく足を止め、ゆっくりとふり返ってくれた。
慧。やっぱり、慧だ。
顔立ちも髪も人懐っこい笑顔も、10年前と変わっていない。
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