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カミングハウス氏、わたし達の平和の象徴であるオルトの崖から臨める幽玄な夕陽の物悲しい輝きは、秋の大気に包まれてより一層美しさを増しています。いかがお過ごしでしょうか。
先日、わたしはあなたに、ハウンドベルの彫像の再建についての質問状を送りましたね。読んでいただけましたでしょうか?
ハウンドベルはこの国をその命を賭して守り抜いた英雄です。ハウンドベルの彫像は、わたしたち村人の心の寄る辺として長い間わたしたちの生活に根付いてきました。御多忙のことと存じますが、どうか、どうか再建を御検討ください。未だ御返事を頂けていませんが、前向きな御返事を心よりお待ちしております。
さて、わたしが今回、再びあなたに向けて手紙を書くのは、しかしハウンドベルの彫像についての、返事の催促ではありません。もうあなたの耳にも入っていることと存じますが、最近のわたしのオルトの不安の種である、カナン漁村のことについてです。
カナン漁村――あの、暗く陰鬱な村と交流を待つようになったのは、もう十年も昔のことになるのですね。ちょうど、わたしとあなたがコルト学団の団員だったころです。覚えていますか? わたし達がカナン漁村に向かったのは、カナン漁村のちょうど中心部、井戸の中に落下した隕石の調査の為でした。その調査のとき、あなたが偶然にも知り合ったカナン漁村の方とのつてで、オルトとカナン漁村の間に貿易を中心とした交流が始まりました。思えば、あなたにの村長としての才能はあのときから既に現れていたのですね。
今回、あなたに質問を差し上げた理由の主たるものは、この、カナン漁村との貿易についてなのです。すなわち、カナン漁村から送られる海産物の中に、何か毒――例えば、水銀や、亜鉛の類――が入っているのではないか、ということについて、です。
最初の犠牲者は――ここでは言葉を選ばず『犠牲者』という表記を用いますが――トーマ・ユングベリでした。妻のユキナによると、トーマは夕食の後、体調不良を訴えて自室に戻り、そのまま眠ってしまった。翌日になってもなかなか目覚めない夫を心配したユキナが扉を開けようとすると、鍵もついていないのに、扉はビクともしなかった。異常を察したユキナが扉を強引に打ち破ると、中にはトーマの痛々しい遺体があった――。
ここまで聞けば、食中毒だ、アレルギー反応だ、と他の見解を見つけることがいくらでも可能でしょう。しかし問題はその死に方にあるのです。その後の警察によると、なんとトーマは、彼の自室で、まるでカビのように粘着質な軟体動物と化して、部屋の中に、まるでのりのようにへばりついていたというではありませんか。
いえしかし、わたしとて、そんな話をすぐ鵜呑みにしたわけではありません。実際、そんな話を聞かされたところで、それをそのまま信じる人は少ないでしょう。そんな死に方はまるで、悪い夢のようではありませんか。
しかし、カミングハウス。わたしは見てしまったのです。ユキナの言っていた通りの、複雑怪奇な死体の有様を。しかも、それは、トーマと同じ死因による死者の報告が、十一件を越えたときのことでした。十二人目に亡くなったのはわたしの妹だったのです。妹はリビングで、吐き捨てられてから時間が経ってこびり付いた唾のように、汚らしい様相で、異臭を放ち、死亡しておりました。
そしてわたしは思い出したのです。
妹は、カナン漁村から運ばれた魚を夕食に食べていたのだ、ということを。
いいえ、妹だけではありません。妹が死ぬまでの十一件すべてにおいて、被害者はその異常な死の間際にカナン漁村からの海産物を食していたと言うではありませんか。ここまで揃ってしまっては、もはやその変死の原因がカナン漁村にあると考えざるを得ないでしょう。
わたしはそこで、先月の初めに、あなたに手紙を出しました。カナン漁村について、海産物の中に毒が入っていないか、また、カナン漁村で何か異変があったのではないか、調査して欲しい、という依頼です。無論、村長であるあなたならば、カナン漁村の村長との話し合いの機会を設けることは容易であろう、という期待と、もうこれ以上、海産物が原因であろう連続の変死を見たくない、という懇願によるものでした。しかしあなたは、それをはねつけた。調査に向かうどころか、貿易をストップすることすらもしませんでした。ただ、カナン漁村へ注意喚起を促しただけでした。
カミングハウス、ああ、あなたはこの問題のことを理解していません。これが単なる食中毒の連続であれば、注意喚起をするだけでも十分事足りるのかもしれませんが、しかし、この問題は、注意喚起程度では済まされない――人間の範疇を越えた怪奇極まる事件なのです。
わたしはこの話を、他の誰にもしていません。
あなただけに打ち明けます。
わたしは、見てしまったのです。
それは、わたしの使用人の部屋で起きた出来事でした。あなたがカナン漁村に注意喚起をした、そのちょうど三日後の夜……。わたしはその夜、あまりよく寝付けず、夜中に何度か目覚めてしまったので、あまり薬に頼るといったことはしたくはなかったのですが、寝つけ薬を飲みました。それで、ようやく眠れた頃――何か、木の軋むような物音で目が覚めました。
時刻は確か、午前二時あたりだったと記憶しています。
わたしは目を擦りながら上体を起こし、物音のする方向をぼやけた視界で把握しようと試みました。そしてすぐに、天井、すなわち使用人の部屋からの物音であることに気付きました。
使用人――アリーは、とても大人しく、かつ仕事のできる優秀な方でした。そんな彼女が、夜中にわたしが目覚めてしまうほどの物音を立てるだなんてことは、今までに一度もありませんでした。わたしは不思議に思って、天井に向かって声を上げました。
『アリー、何をしているの? アリー!』と。
しかし返事は帰ってきませんでした。
仕方がないので、わたしは蝋燭に火を灯し、手持ちの燭台を持って辺りを照らしつつ、彼女の部屋を見に行くことにしたのです。――この夜は、今思い返せば、いつも夜よりも闇が深く、何処か禍々しい、呪いじみた雰囲気を漂わせておりました。
二階へと続く階段を上がります。木製なので、木が軋み、ぎし、ぎし、と音が鳴ります。けれど、彼女の部屋から聞こえてくるのは、そのとき、わたしが踏みつけていた階段から鳴る、重みによる音ではありませんでした。何か別種の、類の異なる物音です。
そして、段々と登っていくうちに、なにやら全身に、冷たいものがまとわりつくような、刺すような寒気を覚えるようになりました。一歩、一歩、足を踏み進める度に、わたしの身体は震え、痙攣し、先へ進むことを拒むのです。
わたしは自覚していました。
わたしは今、恐怖しているのだ――と。
何に?
何を恐れて、わたしは震えているのだろう?
わたしの心は、そんな不安でいっぱいになり、何処か『知らぬふりをしてベッドに戻りたい』といった、なげやりな感覚さえも生まれていました。けれどもわたしは進み、彼女の部屋、扉の前までに辿り着いたのです。
わたしは彼女の部屋のドアを二度、立て続けにノックしました。
「アリー? 大丈夫ですか? 聞きなれない物音が聞こえたから……」
けれど、彼女からの返事はありませんでした。変わりに、木の軋むような物音が続くばかりです。
「アリー?」
わたしはもう一度尋ねました。
「今から入るけれど、それでもいいですね?」
アリーは何も答えませんでした。
もう、扉を開けるしかないだろう――わたしは勇気を振り絞って、ドアノブをぐい! と下へと降ろし、ドアを一気に引きました。
「アリー! 大丈夫ですか!」
わたしはそう言って――言って、絶句しました。
硬直しました。
部屋の中には、まるでビニールの袋のように薄くなって広がっている――アリーではない、誰かの身体がありました。それはぺしゃんこに潰れて、展性で伸びきった身体が、床に染み込んで固着しておりました。木の軋む音は、ビニールのように薄っぺらになったその身体が、固着する音だったのです。
しかし、わたしが驚いたのは、その点ではありませんでした。
いたのです。
その――ビニールのような死体の、上に。
それは、尾骶骨で直立しておりました。
尾骶骨から続く背骨、が、まるで頑丈な杖のようにまっすぐに伸び、上部から横に伸びる肋骨が、まるで鮫の牙の咀嚼するように、ゆっくりと伸びていたのです。そして、肋骨に守られるようにして胸の部分に垂れていたのは、心臓ではなく、脳味噌でした。
脳味噌は、その皺から液体を漏らしていました。
その液体が垂れている場所が、最もビニール化が進行している場所でした。
その、骨と臓器の化け物は、わたしの方を軽く一瞥すると、その肋骨を器用に操って窓の扉を開くと、滑り込むようにして這い出て、夜の闇の中へと消えていきました。わたしは脱力して、思わずその場に座り込みました。あれは、この世のものでは無い――わたしたちが、知ってはいけない、本来ならば知ることの許されない世界の端くれなのだ――わたしは、洗濯室で居眠りをしていたアリーがやってきてくれるまで、恐怖で動けませんでした。
そう――カナン漁村の海産物を食べて死んだ、あの死体たちはすべて、化け物が生まれるための、脱皮して残された『皮』に過ぎなかったのです。
皮。
あなたはこのことを知っていましたか?
……いいえ、知るはずがないでしょう。
だって、あそこで死んでいたのは、他でもないあなたですもの。
アリーからすべて聞きました。あなたはアリーと恋仲だったそうですね。あなたはアリーの部屋にやってきて、そこで――あの、化け物になった。あの、骨と臓器だけで出来た、出来損ないの操り人形のようになって。
あなたは、化け物になったはずなのです。
けれど。
けれど、あなたは翌日、何食わぬ顔で街を歩いていました。
村のみなさんと仲睦まじく会話をして、素知らぬ顔で農作業を手伝って――。わたしは心底、寒気のする思いでした。あなたはあなたであって、あなたではない――あなたはあの日、ビニールになって死んだはずなのです。あなたはわたしの手によって、焼かれたはずなのです。
わたしは恐ろしい。
考えてみれば、おかしなことは山ほどありました。何故、死者が大量に出ても、村人たちは抗議をしようとしないのか? カナン漁村では死者は出ていないのか? どうして取引が続行されているのか? どうしてカナン漁村への対応は注意喚起のみに留まったのか? あなたはハウンドベルのことを心から尊敬していたのに、どうして彼の彫像を倒したままにしているのです?
どうして?
いつからだったのですか?
わたしは我慢できませんでした。わたしは村のみなさんに黙って、カナン漁村に調査に向かったのです。あそこは、もはやまともな土地とは言えないでしょう。なによりわたしは、これからこの村に起こる出来事が、恐ろしくて仕方がなかったのてす。
カナン漁村はこの村から二キロほど離れたところにあります。海に面した、日当たりの良い村です。立ち並ぶ家々はすべて木製で、板敷や日干しのための木の棒が立てかけてあります。わたしはカナン漁村のちょうど裏手から、隙間を縫って侵入しました。
最初に疑問に思ったことは、明かりが少しもない、ということでした。いくら夜とはいえ、通行のために松明などは灯して置いておくべきでしょう。それが、火の明かりどころか、月明かりさえもないのです。この村は、日当たりが良かったはず――当然、月の光もよく届いたはずなのです。
決して、その日が強風で松明の火がすぐに消えてしまったとか、曇天で月の光がなかった、というわけではありません。けれど、カナン漁村は、何か薄暗い黒の霧で覆われているかのように、不鮮明で不明瞭でした。
また、漁師の命とも言える船が、すべて汚れていたり、壊れているのも気になりました。頻繁に使用していれば汚れることはないでしょうし、まして壊れることも少ないでしょう。
わたしは、奇妙な空間を訝しく思いながら、まっすぐに進みました。
すると、そこで――ひとつ、光を見つけたのです。
松明があった、と安心したのもつかの間でした。
光っていたのは、松明ではなく、井戸でした。
井戸。
覚えていますか?
わたしとあなたは、カナン漁村の井戸に落ちた、隕石のことでカナン漁村を訪ねているのですよ。
わたしはそれを見た瞬間、何かを悟ってしまった気がして、身の震える思いでした。周囲には耐え難いほどの悪臭が漂っています。何か、不快な感覚――わたしには井戸を中心としたその周囲が、黒く汚く蠢き、ねじ曲がっているような感覚さえも感じました。
なにかが、いる。
形容し難いほどの恐怖が、悍ましいものが、いる。
そこでわたしを待ち構えている。
わたしは本能では勘づいていました。わたしは帰るべきだ。何も見なかった振りをして、今日見たすべてのことを誰にも離さないでいるべきなのだ、と、心の底では理解していたのです。
理解していたはずでした。
わたしは吸い寄せられるようにして井戸に近づきました。
悪臭がヌルヌルとした実感を伴ってわたしの皮膚にへばりつくような感覚を受けます。わたしはそれでも、吐き気を堪えて、井戸の底をのぞき込みました。
井戸の底。
鏡面。
青色。
粘菌。
固着。
沈黙。
集合。
分岐。
それから、――光。
わたしは思わず悲鳴をあげて、走り出しました。
井戸の底には、光り輝く白色の隕石がありました。そして、それを取り囲むようにして…………何重にも、何重にも重ねられた肋骨と背骨が、まるで蛇の巣のように絡みつき、蠢き――とぐろを巻いていたのです。
そして、中央に集まる――脳味噌。
てらてらと、脳漿を濡らして、犇めくそれは、人ではありませんでした。
わたしは半狂乱になって、やっとの思いで自室に戻りました。
これが、わたしがカナン漁村で体験したすべてです。
カミングハウス、わたしは信じたいのです。わたしの見たすべてが幻覚で、或いは幻聴で、おかしいのはわたしであると。村の人たちはまだきちんと人間で、あなたもまだ生きているのだと。これはすべて悪い夢なのだと、証明して欲しいのです。そのために、どうか、カナン漁村へ調査に向かってください。きちんとした、大学の方を雇って、もう一度井戸を調べてください。
返事は十日、待ちます。
十日待って、もしも返事が来なければ、わたしはすべてを諦めて、この村から出ていこうと思います。
わたしの部屋の扉を、アリーが叩き続けています。アリーの声をしていますが、本当にアリーなのかどうか、もうわたしには分かりません。この手紙はあなたの家に、石を括りつけて投げ込みます。もしもこれがすべて、わたしの幻なのであれば、そのときはすべてを弁償します。
お願いですから、信じさせてください。
どうか、どうか、よろしくお願いします。
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