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廊下を折れ、少し行ったところに屋上に上がる非常階段があった。周りに人がいないことを確かめると一気に階段を駆け上がった。そのまま屋上に通じる扉を押し開く。その瞬間、強い風に煽られた。
地上八階建てのビルを囲む周りの建物はどれも低い。宙に浮くように建つビルの屋上からの景色に自分が神にでもなったかのような気持ちになる。
頃合いを見計らって小松に電話をかけた。
「俺、もうダメかもしれない」
屋上は風が強かった。空は灰色の雲に覆われ、やけに気分が沈んできた。クリスマスが来ても俺はひとりだ。その場にへたり込む。
「え、どうした? なに言ってんだよ。いまどこにいるんだ?」
とつぜんのことに小松は戸惑っていた。
「屋上にいる」
「は? なんで?」
「自分でもわからない。急に何もかもがいやになって……」
「おい、変なこと考えるな」
小松が叫んだ瞬間、電話を切った。
ふぅ。これでやつはどうするか。
大きな息を吐くとふらふらと立ち上がる。
背丈ほどある室外機が並んでいるのが目に留まる。身を隠すのにちょうどいい。後ろに回った。その位置から建物と屋上をつなぐ扉が見える。
案の定、小松は勢いよく扉を開けて屋上にやってきた。
「おい、どこだ? どこにいるんだよ?」
うわずった小松の声が冷たい風に乗って耳に届く。灰色の雲からいまにも雪が降ってきそうだ。
小松はきょろきょろとあたりを見回しながら屋上のギリギリに立ち、身を乗り出した。
このビルの屋上に手すりはない。屋上を囲うように雨水が流れる浅い溝あり、その溝からの立ち上がりに三十センチほどのわずかな段差が設けられているだけだ。足を滑らせれば簡単に地上へと落ちる。
俺はそっと小松の背後に回り、静かに手を伸ばす。
指先が震えていた。いまなら間に合う。どうする。
そのとき雲が切れ、背中のほうから陽が射した。俺の影が同僚の背中を押すように伸びる。その影に気づいた小松がバッと振り返る。
「な、なんだ。脅かす……」
やつが言い終わる前に俺は思いきり突き飛ばした。
おまえが悪いんだ。彼女と一緒にいるのがめんどうなんて言うから。
泳ぐように真っ逆さまに落ちて行く同僚を屋上から見届けた。
トマトを床に投げつけたような衝撃音が足もとから伝ってきた。
地面に広がる真っ赤な海に小松の白いつなぎがみるみる赤く染まっていくのが見えたとき、ようやく自分が取り返しのつかないことをしたことに気がついた。
なんてことをしてしまったんだ。夢でも見ているような気分だった。自分でやっておきながら自分がしたこととして認めたくなかった。
ふと足もとに小松の携帯電話が落ちているのに気がついた。携帯は屋上の際に立てかけるように落ちていた。
そうだ。俺はすぐに電話を掛けた。
「おい、いまどこにいる? どこにいるんだ?」
もちろん同僚は電話に出ない。出るわけがない。やつはもうこの世にはいないのだから。
俺は何度も繰り返し留守番電話に声を残した。
同僚が急にいなくなり、捜していたというアリバイを作るために。
だれにも言えない悩みを抱えた会社員が衝動的に飛び降りた事故。
それが小松の最後になった。
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