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体重を預けるのを右足から左足に変えると、靴底の下でガラスの破片がじゃり、と音をたてる。
「この日記を見るに、研究の成果はともかく、被験体とやらは友好的であったようですが」
そう言って伊東刑事は煤けた日記帳を閉じた。彼女は引き締まったスーツ姿に、凛とした顔つきをしている。
「そう思いますか」
少しの嘲笑を含ませて言葉を返した男性は、首から馬場と書かれた名札を下げる。身に纏う白衣は、体格のよい彼にはいささか小さいようだ。
「研究員である貴方からすれば、違うと?」
「それは、どうとも言い切れない。ただフラットな目線を持つことが重要です。私達にとってね」
「……被験体の真意が何であっても、事件は起きました」
伊東刑事は周囲をぐるりと見渡す。そこは、研究所の一室であった。辺りには鉄やガラスの破片が散乱し、ところどころ焼け焦げた壁が今にも崩れそうになっている。煤と薬品の匂いがどことなく漂っていて息苦さを感じる。
「事故ではなく?」
「亡くなられた研究員の方々に関しては……不幸な事故だったかもしれませんが」
伊東刑事が一瞥した白い紐は、人間を形作られていた。その人型は研究所内に十数個存在する。
「しかし、研究期間中の感電死体の隠蔽――それと、逃げ出した彼女に関しては、事件と言っていいでしょう」
「なるほど」
馬場は、伊東刑事に突き出されたスマホに目をやる。再生された動画には、研究所の出入口から外へ駆けていく一人の女性が映っていた。
「馬場さん。被験体……Iー〇〇3について、人間の女性のような容姿と思われますよね?」
「日記帳の記述を見る限りは、そうかもしれない」
「先ほどの映像は、唯一再生可能な監視カメラのデータです。映っていた女性を被験体と考えて、まず間違いないでしょう」
動画の女性は、裸だった。研究所内で見つかった遺体は、一様に研究所で定められた規格の白衣を身に纏っていた。身元の確認も取れている。
「あの日、研究所内にいた者は全員、原因不明の爆発で死亡しました。その場にいなくても、研究に関わった者は皆不審死を遂げています。そして被験体の行方はわからない……彼女を必ず、見つけ出さなくてはならないんです。あの容姿では、きっと油断する人も多い」
「あの容姿、とは?」
伊東刑事は動画を一時停止して、女性を拡大する。彼女は、小動物めいた大きな瞳に小柄な体格だ。
「この可愛らしい顔に、華奢な体ですよ」
「なるほど、こんな雰囲気であれば他人に油断されると。すみません、そういう感覚には疎くて。例えば私はどうなんでしょう?」
「……正直、警戒されるでしょうね。失礼を承知で言いますが、私は研究員と聞けば、不健康そうな痩身を想像します」
自覚したことはないのだろうかという疑問を飲み込んで、伊東刑事は馬場の広い肩幅を見つめた。馬場は研究員と聞いて連想するイメージからは剥離している。そうでなくても大柄な男性は警戒されやすいと、伊東刑事は職業柄身をもって理解していた。
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