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ランの、“父が買ってくれた”という言葉に、ノアは少し意外そうに、そしてどこか愉快そうに応じる。
「サンザー殿が?」
“鬼のサンザー”の名で敵味方双方から恐れられ、武辺者の塊のようなサンザーが、幼い娘に絵本を買ってやっている光景を、ノアは思い浮かべる事が出来なかったのである。対するランも苦笑いを大きくして告げる。
「はい。ナグヤの宇宙港内にある雑貨店で。でも、その頃の私はもう七、八歳で、絵本なんて読む年齢じゃなかったんですよ。ただ、パステルカラーの表紙がすごく綺麗だな…って眺めていたら、急に父が“買ってやる”って」
それもまたサンザーらしいと思い、ノアは笑い声を漏らした。するとランもつられて「ふふふ…」と笑う。ランが自分との二人きりの会話で笑うのは、これまで無かったはずで、ノアの笑顔も自然と大きくなった。
「でも、初めてだったんです―――」とラン。
「初めて?」とノア。
「武人教育一辺倒だった父が、それ以外の何かを買ってくれたことです」
思い出を懐かしむランの横顔に、ノアは「そう…」と優しく頷きかける。さらに語るラン。一緒にBSIの模擬戦を戦ったあとであるためなのか、彼女にしてはいつになく饒舌だった。
「父がそういったものを私に買ってくれたのは、あとにも先にもこの時だけ…当時の私は、自分の歳より下の子向けのその絵本を、ボロボロになるまで繰り返し読み返しました…」
「………」無言でランの次の言葉を待つノア。
「―――でも、不思議なものですね。あれだけ読んだ絵本の事を、この星に来て、この書庫を見るまで、忘れていたんですから」
そこまで言ったランは今度父に会ったなら、もう長いこと職務以外の話をしていない父に、あの絵本の事を覚えているか尋ねてみようか、と思った………
第五衛星の地表から幾つか突き出た灰白色の岩盤の一つに、ヴェルージ=ウォーダの『シデン・カイXS-TS』が何本ものポジトロングレイブに機体を貫かれ、磔にされている。操縦者に生命反応はすでに認められず、周囲には同様に動かなくなった敵味方のBSIユニットが、累々と横たわっていた。
さらに数分前、第6・第33合同艦隊の指揮を代行していた、スーゲット=アーチの戦死の報告も届いている。
自分を幾重にも取り囲む所属不明艦隊のBSI、アーザイル軍の『イカヅチ』、アザン・グラン軍の『ハヤテ』を眺め渡し、『レイメイFS』に乗るサンザーは、一つ大きく息を吐いた。だが決して悲嘆の吐息ではない。
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