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人生でこれまでなかったほど勉強をした。そのかいあって何とか経済学部に滑り込むことができた。学生寮に入ることができたから生活費はバイトで賄えそうだった。
「ここからでも大学には通えるのでしょう?」
麗明が不服そうに言った。
「独り暮らしの練習をしたいんです。ここにいると麗明さんに甘えちゃって、俺、何にもしないから」
百歩譲って弁当まではいいが、いい年をしてトランクスまで洗ってもらうのは抵抗がある。朝食と夕飯が寮で提供されることを話すと、ようやく麗明も安心したようだった。
「あんまり羽目を外すなよ」
平順はそういって片目をつぶり、通帳とハンコを俺に渡した。通帳から金を引き出した記載がほとんどない。それどころか通帳を作った日よりも額面が少し増えていた。
「あの、これって」
「圭佑と一緒に暮らしていたら子供たちがいた頃を思い出してね。若返ったような気分になったんだ。大した額じゃないから。受け取ってくれよ」
「でも……」
「いいから」
「ありがとうございます。大切に使います」
お金はありがたく受け取ることにした。身寄りのない俺にとってこれから頼りになるのは現金しかない。コネもツテもないから、いい成績を取っておかないと、これ、という企業には就職できないだろう。バイト、勉強、バイト、勉強であっという間に夏休みになった。
「疲れた顔をして。大丈夫?」
「はい、大丈夫です。バイトのシフトをちょっと増やしただけですから」
「融通がきくからバイトは俺の会社にしろよ」
「これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「人に頼ることも学ばないといかんぞ。人間、一人じゃあ生きていけないんだ。社会に出たらいくらだって苦労は出来るんだ」
「病気になったら元も子もないでしょう? あなたに万が一のことがあったらお母さまに申し訳が立たないわ」
最後は麗明に涙ぐまれて、バイト先も平順の世話になることになった。キャンパスライフを楽しんで、けっこういい成績で大学を卒業することができたのは平順のおかげだ。
平順の会社は本人が言う通りごく小さな会社だが、リピーターが多く、口コミで客が途絶えることなくやって来る。中国系の客がほとんどで、仕事をしながら言葉を覚えることができた。
人が相手の仕事だし、日本に初めて来る客も多い。マニュアル通りでは対応できないようなイレギュラーなトラブルもしょっちゅうある。そういう時は社員同士で知恵を出し合う。自己裁量が多い分、責任は重いが仕事は面白かった。いざとなればドア一つ隔てた重役室に駆け込めばなんとかなる。平順と古くから仕事をしてきた爺さん婆さん達が助言をしてくれるのだ。問題を解決するたびに社員同士の結束が強まっていく。そんな会社で働くのは心地よかった。
「せっかく大学を出たんだから、もっと大手の旅行会社にしたら。幅の広い仕事ができるよ。給料だって違うし」
居心地がよくて、卒業後もそのまま平順の会社に就職するつもりだったのだが、平順の言うことも一理ある。色々学べるだろうし、いい給料はやはり魅力だ。中国人とのハーフで英語と中国語が堪能(ということにした)という武器を最大限に利用し、学生の人気ランキングで常に上位に入っている大手旅行会社に就職した。
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