大福漢方薬局

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 俺は再び、今度は社員として平順の会社で働くことになった。皆が出戻りの俺を歓迎してくれた。給料はまあ何というかだし忙しいことには変わりないが、精神的にはずっと楽になって毎日気分よく仕事ができる。あの会社のおかげで労働と対価はちゃんと釣り合っていると身にしみていた。あそこで上手くいかなかったのが出自のせいだとは思いたくなかった。  普通語(プートンフワ)(北京語。中国語の標準語)で観光案内や日常会話なら出来るが、英語で案内をすることも多い。英語で案内をしたほうが喜ぶ客も多くて、始めの頃は俺の普通語が頼りないせいかと思っていたのだが、そうではないことがだんだんと分かってきた。  台湾語や上海語、広東語等々、方言も入れたら中国語の種類は互いに話が通じないほどバリエーションが豊富で、日常は普通語以外の中国語を使っている人も沢山いる。滅多なことでは口に出さないが、かの国の体制に疑問をもっている客も少なくない。英語が分かる客には英語でガイドをするほうが無難なのだ。  中秋節や春節といったイベントは昔と同じように孫家と一緒に過ごしている。今年の春節も世界中に散っている孫の家族が一堂に会した。平順の子供も孫もみんな語学が堪能で、リビングは中国語、英語、日本語がとびかっている。 「父さん、いいわけ? 前途ある若者を自分の会社になんか入れちゃって」  息子の祐樹が言った。祐樹は日本のパスポート最強、とのたまって、躊躇なく日本の国籍をとった。中国のパスポートは74の国・地域でビザ免除、もしくはアライバルビザで渡航が可能だが、日本のパスポートはそれが190の国・地域に及び世界一位なのだそうだ。 「僕が平順さんの所で働きたかったんです。色々な人に会って話を聞けるから。今の仕事、気に入っているんです」 「ふうん。親父の会社が嫌になったらいつでもこいよ。給料倍増だぜ」  祐樹がニヤリとした。  それもあり、なのかもしれないが、今の職場は快適だ。やり手の祐樹の下で働くのは大変だろう。簡単には給料倍増とはならないに違いない。うっかりすると解雇もあり得る。気のいい男だが、友情とビジネスは別物なのだ。  昔から街探索が好きだったから、観光案内は趣味を極めるようなもので、少々のことがあっても苦にならない。貧乏就学生の下宿探しから大富豪のお買い物のお供まで、バリエーションに富む中国の人々との出会いは面白かった。  それに。日本を離れたら父とのつながりが完全に断たれてしまうような気がするのだ。    父親の名前だけは知っている。母は留学中に父、井上太一と出会い愛し合うようになった。 「親の決めた婚約者がいてね。泣く泣く別れたらしい。父親から聞いた話だから僕も詳しいことは知らないんだよ。すまない」 「平順さんのおかげで父と母のことが分かったんです。謝らないでください」  母の姓は(ルオ)。大学を卒業するころ、もう大丈夫だと思ったのだろう。平順は両親の話をしてくれたのだ。  中国人同士なら母も強行突破ができたのかもしれない。が、日本兵にさんざん辛酸をなめさせられた祖父母が「日本鬼子(リーベングイズ)」とだけは一緒になってくれるな、と泣いて頼んだ。忙しい両親に代わって自分を育ててくれた祖父母の必死の願いなのだ。無下にはできなかったにちがいない。それでも母は愛している人の子供を産みたかったのだろう。    俺は美しい母親(いつの間にか貂蝉のような美女になっている)が涙ながらに乳児院の前にボストンバッグを置く姿を想像して、一人悦に入っていた。  オヤジはハイテクに疎い。平順と一緒に仕事をしていてよく分かった。ハイテクまでいかなくてもスマホでさえ満足に扱えないのだ。平順は販売員に勧められるまま、格好をつけてスマホにしたのだが、契約の縛りが終わるとすぐにガラケーに戻してしまった。井上太一もSNSの類をやっているとは思えないが、時間が空くと井上太一の名前を検索してしまう。見つかるはずがないと頭の隅では分かっているはずなのに。今日の昼休みも検索をしてしまった。もう惰性としか言いようがない。  初めて井上太一の名前がヒットした!同姓同名ということも大いにあり得る。落ち着け、落ち着け、妙な期待はするなよ。自分に言い聞かせながら名前をクリックする。『大福漢方薬局』と表題のあるホームぺジージがパソコンの画面いっぱいに広がった。  店主は二人。井上太一と佐伯和哉、と二人の氏名が記載されていた。背の低いほうが太一だ。画像の年恰好では俺くらいの息子がいてもおかしくはないが、太一が父親だという証拠は何もない。自分と似たところがあるかどうか写真を拡大して穴のあくほど見たが、人の好さそうな笑顔の太一から共通したパーツを見つけることはできなかった。店の場所は同じ市内だ。いつか行ってみよう。そう思うだけで遠足に行く前の子供のように気持ちが高揚した。
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