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雨が降っていた。
降り始めたのは、私が学校で授業を受けていた時だったから、多分二時とか三時とか、それくらいの時刻だったように思う。
ぱらぱらと軽快な音を立てて降り始めた雨に、なんだか妙なリズム感があるなぁ、なんて思っていたら、ついうっかり眠ってしまい、教師に怒られたのだった。
夜の家路を歩きながら、私は痛む頭をさすった。右のこめかみから十センチほど上の辺り。そこにたんこぶができていた。
――多田センめ。
たんこぶの原因になった教師への愚痴が、私の心にふつふつと湧いてくる。
多田先生は、国語の教師だった。ただ断っておくが、このたんこぶは教師から体罰をくらったとか、そういった理由でできたものではない。あの教師は、私に起きるよう声をかけただけだ。
ただ、それにびっくりして飛び起きた私が、椅子から転げ落ち、隣の机に頭をぶつけてしまったというだけの話。流血沙汰にならなかったのは、本当に不幸中の幸いだったように思う。
だから本当は、多田先生を原因と指すのはお門違いで、それは私もわかっているのだ。しかし自分を責めるよりも、原因をどこかへ持って行った方が、この鈍痛を紛らわすことが出来そうだった。多感な中学生の精神衛生を保つために、理不尽な批判の対象になることも、教師としての務めではないかと思う、なんて、またぞろ理不尽な自己正当化を試みてみて、私は、遠くに見える黒い空に、ほう、と溜め息を吐きだした。
昔から、そうなのだ。
私は昔から、耳が良かった。音感は鋭いし、遠くで落ちた小銭の音や内緒話も聞こえたりする。音の聞き分けも得意で、さすがに聖徳太子みたいに一度に十人の話は処理できないものの(それはきっと頭脳のせいだと思う)、オーケストラの演奏を一つの音楽としてでなく、各楽器の演奏を別々に聞き分けることができた。
きっと音楽的な才能があるのだろうと、自惚れていたが、その耳の良さは時に、欠点として私を悩ませた。
音によって、気が紛れてしまうのだ。
例えば運動会で、徒競争があったとしよう。流れるBGMは、お馴染みの「天国と地獄」だ。それが流れ出すと、もう集中力が続かない。やれこの演奏はきっとこの楽団のこのCDだの、そのCDの曲編成はこうだっただの、指揮者はどうだの、ああだのこうだの。芋づる式に、そんな無駄な考えがどんどん湧いて出て来る。そしてスタートの合図が鳴ろうにも、音楽とリズムが合っていないと、どうしても気持ち悪くて、合図でなく音楽に合わせて体を動かしてしまう。
例えば不意に大きな音が鳴ると、飛び上がってしまう。もちろんそれは驚いたせいでもあるのだが、いきなり大きな虫が耳に飛び込んできたような衝撃があるのだ。音が頭の中をブンブンと飛び回り、頭痛となって私を襲ってくるのだ。
それほど制御が利かなかったのは小学生までで、中学になった今は幾分ましにはなった。それでも、今日の国語の授業のように、やや集中力が切れている時に、すっと心の中に音が入込んでしまうと、それに影響されてしまうのは、まだ治っていなかった。それに、不意に鳴る大きな音は、未だに苦手である。時々山の方で鳴る獣除けの発砲音とかも、決して好きにはなれなかった。少しでも耳の良さを活かそうと、無理して入った吹奏楽部でも、時折飛び上がるような目に遭っている。
ほう、ともう一度、遠くの空へ向かって溜め息を吐いた。
思い切り吐いたはずの溜め息は、私の目の前で地面にたたき落とされて、びちゃびちゃと音を立てて転がった。
土砂降りだった。
一応傘を差してはいるが、その意味があるのかは怪しいものだ。アスファルトにはねた雨水でスカートの裾は濡れに濡れ、足に絡まり、ただでさえ歩きづらい雨の夜道の邪魔をする。風が吹けば、傘を持っていない方の腕も濡れるし、担いでいるスクールバッグも既にぐしょぐしょになっている。そして止めのように、傘の骨を伝って、雨が浸水してきてしまっていた。まさか屋外で雨漏りに遭遇するなんて思いもよらなかったから、不快ながらも、なんだかおかしかった。
雨脚が強くなり始めたのは、部活が始まるころだったから、四時前頃だったように思う。吹奏楽部の部室で、帰るまでに止むといいなと思ったのを覚えている。
だが、結果はご覧の有様。
止むどころか、雨脚は強くなる一方で、天からバケツをひっくり返したように(きっとそのバケツに入っているのは砂利に違いない)降り出して、そこから一時間以上経ってようやく、私の住む街の自治体は大雨警報を発令したのだった。
おかげで、今日は帰りが早い。
普段なら夜の八時までみっちり練習する所を、今日は六時前には終了、顧問から帰宅命令が出された。
校舎から外に出てみれば、この雨のせいで、普段の帰りの時より、空はずっと暗かった。
雲のせいで空は厚く重く、そして、粒が大きくひっきりなしに落ちてくる雨粒に街灯の光は散らされ、ぼんやりとした光しか見えない。雨戸を閉めている家も多いようで、それが余計暗さを手伝っていた。
一緒に帰っていた友人とは、つい先ほど別れた。私の家は遠いため、普段は自転車通学だが、この雨で自転車に乗るのは自殺行為だと思う。
大通りの歩道を歩く。
人通りは全くと言っていいほどなく、雨音と、それに反響する私の足音が、私がまるで世界にたった一人の人間であると錯覚させる。
ずきずきと、頭が痛む。
強い雨音に苛まれてか、気圧による偏頭痛か、それとも今日出来たたんこぶのせいか。
理由の解明はしようがないが、とにかく、今は一刻も早く家に帰り、お風呂で体を暖めて眠りにつきたかった。特に黒々とした夜道は、嫌な想像をかきたてる。何か普段では遭遇しない、想像でしか出会うことのない存在と出くわしてしまうような想像を。
足に絡まるスカートと格闘しながら、足早に歩いていると、ふと目に留まるものがあった。
小さな有限会社の前の自販機と、その隣に立つ電柱の間から、水色の物が飛び出していた。
傘だ。
水色の傘が、こちらに石突きを向けて落ちていた。
いや、どうやらその傘は、落ちている訳ではないらしい。強い風が吹いたが、その傘は音を立てて震えるばかりで、どこかへ飛んで行ったり転がって行ったりする様子はない。
つまり、誰かがその傘の下にしゃがんで、その傘が飛ばないように抑えているのだろう。
こんな天気の日に?
こんな警報も出ているのに?
私には、この状況でそんな状態でいる理由が分からなかった。
嫌に想像力をかきたてるも、それすらもこの雨空のようにはっきりとせず、ただ嫌な予感として私の心にのしかかった。それに追い打ちをかけるように、この雨音で考えがまとまらない。
私はどうしたらいいのかが分からず、一人で知らない土地に放り出された幼児のように、その場に立ち尽くしてしまった。
咄嗟に、頭を振って脳をリセットする。
冷静になってみれば、このまま通り過ぎながら様子をみて、助けが必要そうなら声をかければいいだけの話なのだ。何か危険そうな香りがするなら、ちょっと遠回りになるが交番に寄って、事情を話して助けを呼べばいい。
がりがりと、音がした。
そこまで考えがまとまって、ようやく動けそうになった時だった。
がりがり。
確かに雨音とは異質な、消え入りそうなその音は、私の敏感な耳の隙間にするりと飛び込んできた。
尖った固い道具で固い木の板を擦ったような、がりがりという音だった。
「えっ」
なんて小さい声が、私の喉から飛び出たと思ったら、その音は雨音に紛れて消えてしまう。
それほどの雨音なのだ。
数メートル先のあの傘の向こうから、そんな音が聞こえるはずがないのだ。
だから、この私の声も、あの傘の人物には届かないはずなのだ。
なのに――。
びくり、と。
驚いたように、小さく、その傘が揺れた。
ややあって、その人物が立ち上がり、こちらを振り返る。
少女だった。
歳は、私と同じくらいだろうか。
線の細い少女だった。
雨に濡れたせいかだろうか。元々の顔色はわからないが、顔が蒼白く見える。線の細さも相まって、この雨風の中に放っておいたら、バラバラになって飛ばされてしまいそうな、そんな儚い印象を受けた。濡れてしまって黒々と光る黒髪が、その印象を加速させていた。
「……どうか、しましたか?」
雨に濡れて体力を奪われたからであろう掠れた声で、少女が言った。
えっと、と私は言葉に詰まる。
「えっと、私がそれを聞く立場というか――、その、ほら、こんな天気じゃないですか。こんなところで、何をしてるのかなって。何か困ってるのかなって」
「――別に、困ってはいません」
困ったように、少女が呟いた。
その間にも、あの音は鳴りやむことなく続いている。
がりがり。がりがり。
ひっきりなしに鳴るその音の正体はまだわからないが、私は、それに近しい音をようやく思い出した。箱の中に入れた小動物が、その箱の中で動く音だ。
少女の足下に、箱が置いてあった。その箱の中身が、きっとその音の発信源なのだろう。
箱は木でできており、大きさは三十センチ四方程度だろうか。時々、その蓋がカタカタと揺れているのが見える。
「その中、何が入ってるの?」
大体同じ歳の少女が相手ということで、私は少し安心していたらしい。私は少女に歩み寄りながら、訊いた。
少女は、「わからない」と頭を振った。
「ちょっと前から、ここに置かれているんですけど……、その、わからないんです。私は、生き物に詳しくないから。それに、誰もこの子に気を留めてないみたいだし……」
「ちょっと前?」
「二ヶ月くらい前かな。私が気付いたのがその時期というだけで、ずっと前からここにいたのかもしれないけれど」
二ヶ月と聞いて、私は内心で首を傾げた。二ヶ月もここにこれが置いてあったとして、何故私はそれに気が付かなかったのだろう。がさがさと音を立てる物に、私が気付かないはずがないのに。
そんな私の姿をどうとったのか、少女が説明を続ける。
「生き物だとは思うので、パンとかドッグフードとか猫缶とか、持って来てみたんですけど、まったく口をつけないんです。水をあげても飲まないし。もしかしたら、私以外の誰かがそういった世話をしているのかもしれないけれど、そういった形跡があったことはないですし……。少なくとも生きているのは事実だと思いますよ、この子は」
眩暈がする思いがした。
どうやら、その箱の中の生物は呑まず食わずで数ヶ月は生きられる謎生物らしい。そんな生物はいないと言い張りたかったが、実際に目の前で音を立てている何かがいて、そして初対面の相手にそんな嘘を吐く理由が思い浮かばないから、その言葉は呑みこむほかない。
あなたは、この子が何なのかわかりますか。
そう言って、少女はその箱の蓋を開けた。
蓋が開いたことに驚いたように、がりがりと鳴っていた音が、止んだ。
真っ黒で丸い何かが、箱の中からこちらを見上げていた。
「これ、は……?」
今まで見てきた生き物のどれとも似ていない生き物だった。
生えている体毛から、おそらく哺乳類であろうことは推察できる。強いて言うならばウニが一番近しい風体かもしれないが、針ではなく体毛であることは観察しなくてもわかるし、そしてその体毛も濃く太く、実際にどういう体型をしているのかは判別がつかない。どこが胴体でどこが頭なのかもわからない。毛が生えていないのはその黒々とした大きな目だけだった。体長は二十センチ程度だろうか。
可愛いでしょう、なんて言って、少女はしゃがみ込むとためらいなく箱に手を入れ、その黒く丸い生き物の毛を撫でた。彼女はもう、その生き物に慣れ切ってしまっているようだ。
「その、子? は、そこの有限会社で飼っている何かなんですか?」
答えのわかり切っている質問が、引きつった声で飛び出した。
さっき、誰もこの生き物を気にしないと、彼女が言っていたではないか。
「違うと思います。だって、そこの人がこの子に関わっている姿、見たことないですから。さっき言ったように、誰もこの子に気が付かなかったんです。だから、お世話――と言っても結局何もできてないですけど、毎日のように様子を見に来たのは、私だけです、きっと」
「毎日――?」
お世話をする必要がないのに?
彼女の物言いが、引っかかった。がりがりという音がなくなったおかげで、ようやく思考も戻ってきたようだ。彼女は何故、こんな雨の中、ここにいるのだろう? この黒い生き物の様子を見に来たのだとしても、変だ。いっそのこと、家に連れて帰るなりすれば、彼女もこの生き物も、安全な場所で夜を越すことができるではないか。この生き物を家にあげられないにしても、軒先に避難させるとか、やりようはいろいろとあるはずだ。
「――なんで、あなたは、ここにいるんですか?」
最初に訊くはずだった言葉が、自然と口をついていた。
びくりと。
怒られた子どものように、少女は肩を震わせた。それから一瞬間を置き、薄紫の唇で小さく息を吸い、吐いた。
「……あなたは、両親の怒鳴り声は好きですか?」
「――え?」
「両親の怒鳴り声が、毎日のように聞こえて来たらどうでしょう。来る日も来る日もどちらかが疲れて折れるまで、延々と怒鳴り合いの夫婦喧嘩をしていたら、どうでしょう。聞きたくもない言葉とか、罵倒とか、大きな音とか、痛々しい音とか、そういった音が聞こえるとしたら、あなたはどうしますか?」
私は口を開いて、しかし言葉は出せず、すぐにその口を閉じてしまった。そんなの――、そんなの、耐えられる訳がない。ただでさえ、物音一つに影響されてしまう私が、そんな環境に居たら、きっと壊れてしまうだろう。
そんな私の方に一瞥もくれずに、彼女は、その生き物を撫で続ける。
「無理ですよね、嫌ですよね、そんな環境。でも、私には家がそこしかないから、そこに帰らなくちゃいけない。それに、喧嘩が終われば、二人とも冷静になってくれるから、四六時中、そんな環境って訳じゃないんです。だったら、一時的に避難するしかないじゃないですか。誰に相談したって、家の事なんだから、どうしようもないって取り合ってくれないんだから、自分でどうにかするしかないじゃないですか。ありがたいことに、喧嘩している最中は、二人とも私のことは眼中にないみたいだから、家から私がいなくなったって、大して気にも留めないんです。だから、両親が喧嘩しそうな時間を見計らって、家を出ているんです」
「それは虐待なんじゃ――」
「? 何でですか? 二人は私に何かしてくる訳じゃないです。ただ、今後の家の方針だったりとか、ストレスが溜まっていたりとか、そういったことで喧嘩してるだけだから。むしろ私には優しいし、私立の中学にも通わせてくれたし。私が辛いのは、二人が喧嘩しているその時だけだから。だったら、私が避難すれば済む話でしょ?」
ただ、と少女が目線を落とした。
「数ヶ月前から、家を離れても心がざわざわして、周囲の音が過敏に聞こえるようになってきたんです。車の音とか、他人の会話とか、風で家が軋む音とか、腕時計の音とか。そうなってしまってから、いろいろとままならなくなって……」
私は、目を見開いた。
「それは――」
それは、よく知っている。だって、昔から私がそうだから。音の過敏な生活は、苦痛だ。物事に集中できなかったり、聞きたくない話が聞こえてきたり、眠るに眠れなかったり――。
「そんな中、この子を見つけたんです。この子といると、落ち着くんですよ。どういう訳かは知らないけれど」
彼女がそう言うと同時に空が一瞬光った。
雷だ。
私は咄嗟に傘を手放し、耳を塞ごうとする。しかし、その重低音は、それよりも早く私の耳に飛び込んできた。ひび割れたままのその音は、私の脳みそを叩きまわり、同時にキーンという耳鳴りが頭を締め上げる。
吐き気のする頭痛だった。どうやら、近くに落ちたらしい。
その頭痛に耐えかねて、私はしゃがみ込んでしまった。
私の傘が、喧しい音を立てて地面に転がる。
髪に、顔に、体に、礫のような雨が叩きつけられる。
最早濡れるのは気にならなかったが、大粒の雨が地面に、建物に、私に叩きつけられる音は、今の私には耐え難かった。
果たして、雨音はこんなに大きかっただろうか。
いや、もともと会話なんてできないくらい大きな音だったのではなかったか。
痛む私の頭の片隅が、そんな疑問を抱いた。
少女が、私の肩に手を置いた。
がりがりと。
また、あの音が小さく聞こえた。
「大丈夫ですか?」
少女が心配そうに、私の顔を覗き込んできていた。
「……大丈夫、です。雷の音で、頭が、痛いだけ、だから」
ずきずきと痛む頭と、まだ頭に居座る反響音のせいで表情は厳しいままに、私は応えた。
今度は、少女が目を丸くした。
どうやら、少女にも身に覚えがある症状らしい。
しかし、少女には雷に動じた様子は見えない。
私ほど聴覚過敏ではないのか、それともここにいるからそこまで影響がなかったのか。
少女はおもむろに私の手を握った。
「触ってみませんか、この子に。たぶん、良くなりますから」
そう言って、少女は私の手を引っ張り、黒く丸い生物の近くまで持っていった。
びくりと、一瞬ためらって、しかし抵抗は出来ずに、私の指先がその生き物に触れた。
見た目よりも芯は強いが柔らかい毛の感触がある。ほんのり温かいのはその生物の体温によるものだろうか。体毛があまりにも多すぎて、それの体に直接触ることはできない。さらに不思議なことに、この大雨だと言うのに、それは渇いた感触がした。
がりがりと、音が鳴った。
その生物は身じろぎひとつしていないというのに。
その音は、その毛玉の奥から聞こえてきているのだろうか。もしかしたら、この生物の鳴き声のようなものなのかもしれない。
――あるいは、私の幻聴か。
じっと。
その生物は、私を見上げていた。
ようやく、気が付く。
頭痛が和らいでいた。
頭痛だけではない。
音だ。
あれだけ反響していた雷の音も、雨の音も小さくなっていた。
まるで、世界の音量を絞ったように、音が小さくなっていた。
え、と思わずそれから手を放す。
すぐに、音の洪水が私の耳を襲った。
がりがり、と音がした。
「ね? びっくりしますよね」
少女がそう言った。
もう一度、恐る恐る黒く丸い生き物に触れる。
再び、私を取り巻く音の数々が退いて行った。どういう訳かはわからないが、この生き物に触れている間は、周囲の音が聞こえづらくなるらしい。しかも、私にとってちょうどいいくらいに。
そんな訳がない。そんな非現実的な事が起こる訳がない。
触れているのは手で、実際に耳に何かをされている訳ではない。全くもって、何がどう作用してそういう効果になるのか、皆目見当がつかなかった。
「なんで、これは、どうして――?」
「わからないです。でも、落ち着きますよね、この子」
もしかしたら、普通の人たちは、これくらいの音量の中で生活しているのかもしれない。
――いいな。
私は、ごわごわしたその毛を撫でながら、ぼんやりとそんなことを思った。雨音に遮られずに、そう思った。
私を包む雨音は、いつも私を苛んでいるとは思えないほど心地よく、いつまでも、ここでこうしていたいと思ってしまう。毎日のように、ここへ足を運んでいた少女の気持ちが、少しわかった気がした。
唐突に、私の背後からエンジンの音が聞こえた。
次いで、地面を転がる、低いタイヤの音が聞こえる。
じゃばん、なんて音がしたかと思うと、振り返った私の目の前に、大波が迫って来ていた。
慌てて目を閉じて、黒く丸い生物に触れていない手で顔を庇うが、その程度で襲い来る瀑布から身を庇いきれる訳もなく、私は波にのまれてしまう。
どうやら、大型車両が水たまりを跳ね上げたらしい。
赤いバックライトが、低い音と共に遠くに去っていくのが見える。
「あっ」
と、背後で息をのむ声がした。
え、と言って振り返ると、少女が驚いていた。
どうしたの、と訊こうとして、私はもう一度、え、と呟いていた。
箱が、なくなっていた。
触っていたはずの、あの黒く丸い生き物が、いなくなっていた。
代わりに、私の手に握られていたのは、黒く滑らかな感触の、小さな丸い石だった。
どうやら少女も、同じものを握っているようだった。
私達は、顔を見合わせた。
がりがりと、遠くで音が鳴ったような気がした。
雨の音は、まだ心地いいままだった。
――夢を、見ていたようだ。
なにか固い物を引っ掻くような音がした気がして、目が覚めた。
寝惚け眼で勉強机に乗った時計を確認すると、一六時二七分となっている。
椅子に座って寝てしまったせいで凝り固まってしまった背中を伸ばしながら、外を見てみる。
しとしとと、雨が降っていた。
久しぶりに、音に影響されて眠ってしまったようだ。
椅子から立ち上がると、少し眩暈がした。軽い脱水症状かもしれない。水を飲もうと立ち上がると、椅子と床が軋みを上げた。
その音に、思わず顔を顰めてしまう。
寝起きで聴覚過敏になっているらしい。
水を飲みに行く前に、私は勉強机の引き出しを開け、中から小さな木の箱を取り出した。
その蓋を開けると、中にはあの夜持ち帰った、黒く丸い石が入っている。
私はそれを取りだして、左手に握った。
一つ、深呼吸をする。
心が落ち着くと同時に、窓の外の雨音もさほど気にならなくなった。
あの夜から、この石は私のお守りとなった。
集中したい時や周囲の音が気になる時に、これに触れていると、それが気にならなくなるのだ。
あの黒く丸い生物に見えた何かは、元々この石だったのかな、なんて今では思い始めていた。
そういえば、あの少女は今、どうしているだろうか。
あの夜に出会った彼女は、名前も知らなかった。もちろん連絡先も知らないし、どこに住んでいるのかも分からない。
私達は、あの黒く丸い生き物がいなくなってから、すぐにお互いの家路についた。
二言も、三言も、話さなかったように思う。
ただ一つ、彼女について言えることは、きっと彼女も、この石を大事に持っているに違いないということだけ。
あれから一年経つが、彼女の家庭環境が幾分かマシになっていればいいと思う。
キッチンの冷蔵庫を開ける。扉のポケットに入っている、冷えた麦茶をコップに注ぎ、一息に飲み干す。胃に落ちた冷たい液体が、脳を殴りつけて覚醒させる。
冷蔵庫へ麦茶を戻し、ジャージのポケットに石を入れて、コップを洗う。
耳の奥で、がりがりという音がした気がした。
あの夜聞いた、黒く丸い生き物が出していた音が、聞こえた気がした。
最近――特に、この石を持っている時に、その音が聞こえるような錯覚を覚えることがよくあるように思う。
もしかしたら、この石のせいなのかもしれない。
もしそうだとしても、私にはこの石を捨てる気にはなれなかった。
この石があれば、周りの音に気を遣わずに生きていけるのだ。音に振り回されて疲弊する生活に戻るのは、嫌だった。
そんな生活に戻ることを考えれば、自分の自由に音を調整できるこの石を手放す手はない。
それと比べれば、引っ掻くような小さな音なんて、大して気になることではないから。
がりがりと、私の中で音が鳴る。
雨はまだ止みそうになかった。
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