血を分けた沈黙

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血を分けた沈黙

 その日の母は、機嫌がよかった。しばらく施設に出向くことができなかったので、雄一も真理子もほっとした。洗濯したパジャマや下着を両手に抱えていた雄一は、棚の上に紙袋をどさりと置いた。 「お母さん、調子はどう?」 「そうねえ」 「ごはん、食べてる?」 「そうねえ、食べてるわよ」  雄一が母と話している間に、真理子は部屋から出て、ユニットの担当者に声をかける。 「いつもありがとうございます。なかなか来られなくてすみません。母は最近どうでしょうね?」 まだ若く見える小柄な女性介護士は、少しだけ眉をしかめて言った。 「ほとんど眠ってらっしゃることが多くて」 「寝たきり?」 「いえ、お食事のときはしっかりなさってますよ」 「そうなんですか」 「夜中に混乱なさることがありますね。ちょっと叫び始めちゃったり」 「ごめんなさい、ご迷惑を」 「いえいえ、大丈夫なんです。皆さんよくそういうことありますから」 「食事はしっかり食べてますか?」 「それが、最近はかなり少なくなってきて」 「そうですか」  真理子は不安だった。施設にあずけたはいいが、どことなく母を捨てたような気がしていて、いつも心が重かったのだ。  個室へ戻ると、母はうとうとと眠っていた。雄一は枕元でスマホをいじっている。 「また寝てるの?」 「そうみたいだな。疲れるらしいよ」  持ってきた衣類をタンスの中にしまう。出ている洗濯物を紙袋へ放り込む。椅子を持ってきて腰かけ、真理子もスマホを取り出した。母は眠り、雄一と話すことも特にない。  施設の個室はとても明るく清潔で、神経質な母にはちょうどよかった。埃を嫌い衛生観念が強すぎるほどの母は、兄妹二人には少々うるさい存在でもあった。二人とも強い近眼でちょっとした埃など目に入らない。それを母が拭いてまわるものだから、うっとうしく感じることも多かった。今の母は埃のことを気にしているだろうか。施設での生活をすべて把握しているわけではないのでわかるものでもないし、どちらでも構わなかった。 「金が結構つらくなってきそうだな」 「そうだよね」 「俺も今、仕事ができてないし」  施設に払う費用は、決して安くはない金額だ。母が貯めてきた年金でなんとかしのいでいるが、長引けば雄一と真理子の財布から出さねばならない。雄一は精神的に不安定だから、しばらく仕事をしていない。真理子はパートタイムで、以前に稼いだ分を取り崩しているだけなので、それほど豊かなわけがない。 「まあ、なんとかなるでしょ」  そうでも言っていないと、自分たちがこれ以上ないほどの貧乏人になったようで滅入ってしまう。  不安定な雄一に負けず、真理子も最近はよく眠れていない。数日前に思い切って近所の精神科を訪れていた。 「私、睡眠薬、処方されちゃってさ」  雄一が顔を上げて、真理子をじっと見た。 「眠れないのか」 「ちょっとね」 「大丈夫? 毎日何時間くらい寝てる?」 「まちまちかな。今朝は4時に起きちゃった」 「なんていう薬?」 「え、わかんない。薬の名前、難しいもん」 スマホに視線を落とし、雄一はつぶやくように言った。 「薬はさぼらずにちゃんと飲めよ。ひどくなったら大変だから」 「うん」  真理子もまたスマホに視線を落とし、生返事のように答えた。  母は、眠ったままだ。目を覚ます様子はない。もしや死んでいるのではと顔を近づけたが、特に変化はなく息もしている。 「よく寝てるみたい」  真理子がつぶやくと、雄一は立ち上がって伸びをした。 「帰るか」 「やることないしね」  介護士の女性に丁重に挨拶して、二人はユニットを出る。エレベーターで一階まで降りると、馴染みのソーシャルワーカーとばったり会った。 「まあ清水さん、こんにちは」 「あ、母がいつもお世話になりまして」  マスクをかけたソーシャルワーカーは、重そうなファイルを手に近づいてくる。 「ちょうどよかったです。来週から、ご家族の面会もご遠慮いただくことになりそうでしてね」 「ああ、流行っているアレのせいで?」 「そうなんですよ、厚労省から要請がきてしまったもので」 「仕方ないですよね」  うっかりマスクをしていなかった雄一と真理子は、かなりバツが悪かった。 「すみません、マスク忘れちゃった」 「いえいえ、大丈夫ですよ。面会もまたすぐに落ち着くと思いますから」  世界的に流行しつつある謎の感染症が、自分たちのすぐ近くまで襲いかかってきていた。少しずつ、死亡者が出ている。特に危険だとされる病院や高齢者施設は、いち早く面会謝絶にするなどの措置が取られていた。母のいる施設はかなり頑強で広い敷地だし、大きな病院が近くにあるので自信がありそうだったが、それでも面会は禁止になるようだ。 「来週からなら、今日きておいてよかったです」 「本当に。お母様にはしばらくお会いになれませんけど、何かありましたらお電話しますね」 「よろしくお願いします。必要なものがあったら、宅急便でお送りしてもいいんですか?」 「そうですね、多分そうなると思います」  雄一も真理子もぺこぺこと頭を下げながら母のことを頼み、施設を出た。  施設と病院が隣接した広い敷地は、静かで空気がよく別天地のようだった。人生の最後をここで過ごすことのできる母は幸せだろうか。それとも、やはり家にいたかっただろうか。満開を迎えるソメイヨシノの下を、雄一と真理子は並んで歩いた。なにも話すことはなく、いい天気だね、そうだね、と、どうでもいいことをつぶやいていた。  死んだ父は晩年、施設で毎日のようにサイダーを飲んでいた。若い頃にダースで注文していたあのサイダーだ。サイダーが目の前にないと不安だったらしく、常にテーブルの上に数本のサイダーが陳列されていた。間違って冷蔵庫にでも入れようものなら、すぐにまとめて買ってこいと命ずる。母はそんな父の様子を見て苦笑し、介護士に「サイダーは冷蔵庫に入れないでください」と何度も言っていた。  父がサイダーにこだわったように、母もなにかにこだわるのかと思っていたら、意外にもこだわりがひとつもなかった。こだわっているとしたら、きっと埃くらいのものだろう。多くのことを忘れ去り、苦しみから解き放たれたろうか。こればかりは症状を体験してみないとわからない。 「飯でも食っていくか」  紙袋を持ち直した雄一が、ふとつぶやいた。 「ああ、ご飯ならうちにあるよ。お母さんの鶏料理、昨日作り過ぎたんだ」  鶏料理は母が得意だったメニューで、鶏もも肉を玉ねぎとホールトマト、トマトジュースで煮込んだものだ。本来のレシピは外国のもので、マッシュルームを入れるらしいが、母が勝手にアレンジしてしいたけを入れるのがならわしになっていた。タイムと月桂樹の葉を入れて数時間じっくり火を入れるので、作っている間は香りが楽しい。この赤いシチューに、ステーキ肉とレタスのサラダをつけるのが、来客があったときのメニューだった。 「一人暮らしなのに、豪勢だな」 「急に作りたくなって。あれ、おいしいでしょ」 「うん、あれはうまい」 「少しだけ作るのは無理なのよね。食べにきてよ」 「じゃあ、ご馳走になる」  雄一と真理子は、病院の前からタクシーに乗り込んだ。バスと電車を乗り継いで帰るには、少し疲れが過ぎていた。 「根津のほうまでお願いします」  真理子が言うと、マスクをかけた運転手は小さな声で了承し、車が走り出す。感染症予防のため、すべての窓は全開になっていた。 「次、いつお母さんに会えるかね」 「わかんないけど、今は仕方ないな」  黙ってタクシーに揺られていた。小洒落た商店街を通るとき、ワイン専門店の看板が目に入る。 「お兄ちゃんさあ」 「うん」 「子どもの頃、お母さんがぶどうジュース作ったの、覚えてる?」 「うん、なんとなく」 「普通に食べたら、すごくまずかったじゃん、あれ」 「そうだったな、忘れたけど」 「もしかしたらさ、ワイン作るためのぶどうだったんじゃないかな」 「ああ、なるほど、だからジュースにしたらおいしかったのか。急になんで?」 「いや別に。ワイン屋さんの看板が見えたから、思っただけ」  二人はまた黙った。それぞれにスマホを眺め、感染症のニュースをぼんやりと読んでいた。  車が信号で停止した。窓外の街路樹を見上げると、強い風が吹いているのか枝がゆさゆさと揺れており、葉裏の渋い色合いが見え隠れしていた。 【完】
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