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カレーライスの食べかた
カレーライスの食べかたに、くせがあった。先に具をすべて食べてしまってから、カレー汁とご飯を混ぜて食べる。雄一には、そんな習性があった。
具とご飯を一緒に食べればいいのに、なぜか具を先に腹におさめてしまう。他の人がどんな食べかたをしているのかは、まったくわからない。ただ自分はこれがくせなだけだと、雄一は感じている。
まだ幼い頃、勝手口のある台所の小さなテーブルで、母と二人でカレーライスを食べた。妹の真理子がいなかったのはなぜだろうか。まだ産まれていなかったのか、それとも赤ちゃんの状態で昼寝でもしていたのか。
雄一は当時から、カレーライスの具を先に食べてしまうくせがあった。いつからかはわからない。
「僕のはA定食、お母さんのはB定食だよ」
と意味のわからないことを喋りながら、カレーがおいしいという言葉を全身で表現していた。あの「定食」という単語は、どこから出てきたのだろうか。マンガにでも出てきたのかもしれない。その響きがおいしそうで、使いたかったのだろう。
雄一の家では、カレーライスに生卵をかけたり、ゆで卵を乗っけたりしていた。ソースや醤油をかけることはなかった。食べかたはしょせんは自由なので、どのように食べても責められることはない。ただ雄一は、なんとなく自分の「具から先に食べてしまう」くせが、本当になんとなく、貧乏くさいような気がして仕方なかった。
台所にいると、嫌でも勝手口が目に入った。日差しの差し込む大きな勝手口だった。他人が出入りするのはサイダーの配達くらいだったかと記憶している。母の居場所である台所には、たくさんの思い出が詰まっている。
カレーライスを食べたテーブルの近くに、母が若い頃によく眺めたであろう、歌の本が捨て置かれていた。世界各地の民謡が日本語歌詞と簡単な楽譜とともに記されている。表紙の色は水色で、中には小さなかわいい挿し絵もあり、雄一はよく手に取って歌を覚えようとしたものだった。
母が料理や皿洗いをするときによく歌っていたものに、『仕事の歌』というタイトルのロシア民謡があった。
うれしい歌 かなしい歌
たくさん聞いた中で
忘れられぬ ひとつの歌
それが “仕事の歌”
忘れられぬ ひとつの歌
それが “仕事の歌”
水色の歌集の中にも、この歌は入っていた。雄一はこの『仕事の歌』が不思議で仕方がなかった。
「この歌の中で指し示している“仕事の歌”とは、いったいどんな歌なのだろう?」
そんな複雑な疑問を抱いた。
母に向かって『仕事の歌』の中で歌われている“仕事の歌”についてたずねてみても、「この子はなにを言っているのかしら」という顔をされるだけで、答えは返ってこなかった。うれしい歌やかなしい歌とは比べものにならないほど印象に残る“仕事の歌”を、雄一は聴いたことがなかった。この歌集に掲載されて、母がよく歌った『仕事の歌』はよく知っている。しかし歌の中に隠れている“歌”は、誰に聞いてもわからない。おかしな「入れ子構造」になった歌の存在が、雄一を大人になるまで少しだけ苦しめた。カレーライスを食べるたびに、台所の風景が目に浮かび、『仕事の歌』が頭の中に流れた。
インターネットが普及し、多くの情報が簡単に入手できるようになってから、雄一は『仕事の歌』について何度も検索して調べた。この歌はロシアに昔から存在するありふれた民謡で、旧ソ連時代に共産主義を称える労働歌に書き換えられてしまった可能性があると考えられた。『仕事の歌』に隠された“歌”はタイトルのある歌ではなく、力仕事をする際の古いかけ声(例・母ちゃんのためならえーんやこーら)であったらしい。どうりで雄一にはぴんとこないわけだ。雄一が子どもの頃、そのようなかけ声は聞いたことがなかったし、よく見かける大工さんも道路工事のおじさんも鳶職のお兄さんも、そのようなかけ声はかけてはいなかった。
この『歌』の中の“歌”についてほぼ謎が解けたので、雄一にとってカレーライスの味と香りは、小さな苦しみのもとではなくなってきた。妻の美里がカレーライスの夕食を出してくれるたびに、頭に流れた母の歌声は少しずつ小さく細くなり、ふと気づくと雄一はカレーの具とご飯を一緒に食べるようになっていた。
一度だけ美里に『仕事の歌』の謎について話したことがあったが、「その歌のなにがおかしいのかわからない」と言われてしまい、多少の落胆を感じずにはいられなかったことを思い出す。同時に、カレーライスの具を先に食べてしまうくせについても、おかしくないかとたずねたことがあったが、美里はなにも言わなかった。なにも言わずに「おかわりは?」と聞いてきた。
最近、夕食にカレーライスの登場が増えた。カレーライスが好きでも嫌いでもない雄一は、特に気にすることなく食べていた。いただきます、ごちそうさまの繰り返しだ。美里は家のことをなんでもしてくれた。毎日のようにフルタイムの仕事をしているというのに、雄一が家事を手伝うことはまったくなかった。雄一も手伝おうとしたことはあったが、必要ないと言われて、それきり身を引いてしまった。
「このところ、カレーばかりでごめんね」
美里は麦茶を飲みながら、うつむく。なぜ謝るのかわからず、雄一は困った。
「いや、美里のカレー、おいしいよ」
「手抜きでしょ、カレーなんか」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「手抜きしてるのか?」
席を立って冷蔵庫へ向かい、麦茶のペットボトルを抱えてきた美里は、「そうだよ」と大きな声を出した。自分のコップに麦茶を注ごうとするが、ペットボトルが重いのか、手が震えていて麦茶が周囲にこぼれる。
「ああ、こぼれてる」
雄一はそばにあったティッシュを数枚出して、濡れたテーブルを拭いた。
「なんでカレーの具だけ、先に食べるの?」
美里は腰かけて、突然そんなことを口にした。
「え? それは」
「必ずお肉や野菜を食べちゃってから、汁とご飯を混ぜて食べるよね」
雄一のくせは、美里にじっと見られていたらしい。
「がきの頃からのくせだよ」
「どうして具とご飯を一緒に食べないの?」
「食べることもあるよ」
「あるけど、ほとんどはないよね」
美里は、ひどく怒っているように見えた。
「あのさ、美里ちゃん、なにか怒ってる?」
「怒ってない」
「なにか気に入らないのか?」
「気に入らない」
「カレーの食べかたが気に入らないのか」
美里は黙って、カレーライスを食べ終えた皿を、二人ぶん台所へ運んでいった。ざっ、と水が流れ始める音がする。そのまま皿洗いをしているようだ。テーブルに残されたのは、麦茶のコップがふたつ、麦茶のペットボトルが一本、そして雄一がひとりきり。
席を立ち、雄一は自室へ向かった。美里の部屋はないが、雄一の部屋はある。パソコンを起動させて、ぼんやりと画面を眺めた。デスクの上に、サイダーのペットボトルが置かれている。いつ買ったものだったか。昨日か、今日か、おとといか。実家の台所の勝手口からまぶしい西日が差し込んだ瞬間を、雄一の脳内が再生した。
検索エンジンで「カレーの食べかた」と入力すると、検索ワードの候補に「カレーの食べ方 心理テスト」とあった。なにかがわかるかと思って開こうかと思ったが、やる気がなくてそのままにした。SNSを開いてみたり、ブログをサーフィンしてみたり、面白くもない時間を過ごす。
気づけば雄一は、自室から出ることに恐怖を感じていた。
美里に対するのが、驚くほどに怖かった。
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