焦げた餃子

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焦げた餃子

 玄関のベルが鳴った。真理子は走っていって、ドアを開いた。古くさい木のドアで、外側からだけでなく内側からも鍵を刺して回さないと開かない。まだ幼かった彼女を追いかけて、11歳ほど上の兄、雄一も玄関先に出てきた。  訪問者はなにかの営業マンだった。真理子は詳細を記憶してはいない。ただ雄一が営業マンに伝えた言葉が脳裏に焼きついた。 「親戚に不幸がありましたので、今はちょっと」  真理子と雄一の祖父は、前夜に死んだ。西日本から4時間かかる新幹線に乗って、東京へと向かう準備をしていたところだった。営業の相手をしている時間はない。  親戚に不幸がありましたので。  おじいちゃんが死ぬことは「不幸」なのか。大人の表現というものを、ぼんやりと頭に刻み込んだ。不幸ってなんだろうか。幸せではない、という意味になるはずだ。おじいちゃんが死ぬことは、幸せではないということなのか。小学5年生の夏休み、真理子は「死=不幸」の公式を覚えた。まだ「死」の意味もよくわかっていなかった。  祖父が死ぬ一週間ほど前に、母は看病のために東京へ向かった。折しも真夏で帰省していた雄一が、小学生の真理子の世話をした。兄のことが大好きだった真理子は、兄と長い時間を過ごすことに喜びを感じていた。そのとき母は自分自身の父親の臨終を間近に控えていて苦しかっただろうに、真理子には母のことや祖父のことよりも、兄と遊ぶことのほうが大事だった。  一緒に、テレビ放映していた映画を見て笑った。チャップリンの「モダンタイムス」の歯車のシーンで大笑いした。大人になってから、これが手放しで笑える映画ではないと理解したが、そのときはまだ子どもだった。チャップリンがどんな映画を作る人であったか、知らなくて当然だった。  母が不在であることで、真理子は心配や不安にかられて自家中毒を起こした。夜になると怖くて泣いていた。母に会いたかった。そんな真理子の手を、雄一は優しくなでてくれた。眠りにつくまで、そばにいてくれた。  食事も手分けして作った。銀行の支店長をしていた父は、とても忙しかった。朝早く出勤する父のために、前の夜のうちに、真理子が一生懸命に米を研いでご飯を炊いた。兄妹で過ごす日中は、雄一が昼食を作ってくれた。スーパーで餃子を買ってきて、フライパンで焼いてくれたことを、よく覚えている。真理子は横でじっと見ていた。みるみるうちに餃子は焦げて、三面がすべて黒くなってしまった。それでも焦げた餃子はとてもおいしく、真理子の舌の強い記憶となった。今では焦げた餃子の味をよく思い出せないが、あの日台所でフライパンの中を覗き込んだ熱さは、ふとした瞬間に思い起こす。  夏祭りの花火大会が近所であったので、それも雄一が連れて行ってくれた。石段に座り込んで眺める花火はとても美しく、忘れられない光景になった。真理子が生涯で見た花火大会の中で、最も美しいものだった。  花火は、美しい。そして、はかない。一瞬で華やかに打ち上がり、ほんの数秒で消滅する。今から数十年も前のこと、色とりどりの花火はまだ少なく、凝ったハート型や星型の花火もなかった。典型的な丸い形と、巨大な柳のような形のものが多かった。真っ暗な夜空に広がる銀河みたいな光を眺め、雄一と真理子は笑って過ごした。翌日、祖父が死んだと、母から電話があったのだ。  お兄ちゃんと、もっと遊びたいのに。  祖父の葬儀に駆けつける重要性は、幼心によく理解していた。生まれて初めて体験する身内の死。甘えん坊の真理子の心はぼんやりとしていて、雄一が横にいなければ、どうすればいいのかわからなかったろう。  東京へ向かう新幹線の中で、真理子は乗り物酔いを起こした。気持ちが悪くなり、吐きたくなり、ビニール袋を手にしたまま雄一の膝に頭を乗せていた。雄一は辛抱強く、落ち着くまで頭を撫でていてくれた。新幹線の他の乗客が、ほとんど降車してしまうまで。  真理子はスーパーで餃子を買った。一人暮らしのアパートで、フライパンに餃子を乗せて、わざと三面を焦がすほどに焼いた。焦がさずに焼ける程度の炊事はできるが、わざと焦がした。焦げた餃子は香ばしく、意外とおいしそうな匂いがする。 「おい、焦げてないか」  奥の部屋でテレビを眺めていた兄の雄一は、心配そうな声をかけてくる。元気のない真理子の様子を見に、アパートに立ち寄ってくれた。歓迎のしるしに、真理子は焦げた餃子を作っていたのだ。 「いいの。わざとだから」 「なんでわざと焦がすんだよ」 「思い出の味」  餃子はどんどん黒くなり、炭にまみれたような見かけになった。だが食べられないほどの状態ではない。焦げたものはガンになる、などと言われていた頃もあったが、今そのようなことを気にする必要もない。焦げたものを食べなくてもガンになる時代だ。  小さなテーブルに黒っぽい、しかし香ばしい餃子の皿をカタンと置いて、申し訳程度にサラダとみそ汁も並べる。 「思い出って、なんの思い出?」 「昔お兄ちゃんが作ってくれた餃子の思い出」 「そんなことあったっけ」 「いいのよ、忘れてても。お兄ちゃんすぐ忘れるし」  缶ビールをあけて、互いに乾杯する。なんの乾杯かは、二人とも語らない。雄一が美里と離婚するからか、真理子が暴力を振るう夫と別れたからか。父が死んだからか。母がぼけたからか。  黒焦げの餃子をかじると、豚肉の味やねぎの味、にんにくの味に混じって焦げた独特の味わいがある。白いご飯のおかずになるかと言われたら、少し苦しい。餃子のたれの味をあてにしながら、ご飯を口に運ぶ。 「おいしくない?」 「いや、焦げてても餃子の味がするから」 「お兄ちゃん、食べ物にこだわらないよね」  雄一はむっとした。 「別に味音痴ってわけじゃないぞ」 「音痴だとは言ってないよ」 「だいたい、これのどこが思い出なんだ?」  黙々と餃子を食しながら、真理子は言った。 「佐吉おじいちゃんが死んだときにさ、お兄ちゃんとお父さんと私の三人で過ごしたことあったでしょ。あのときにお兄ちゃんが作ってくれた餃子が、こんな感じに焦げてただけ」 首をかしげて、雄一はつぶやいた。 「覚えてない」 「お兄ちゃん、なんでも忘れちゃうよね」 「うん、忘れるな」 「わざと忘れるんだよね」 「多分な」  真理子は思っていた。雄一は昔のことをすぐ忘れたと言うが、本当に忘れたわけではないのではないか。忘れたと言いつつ心の奥底には記憶が沈殿していて、その記憶がじわじわと水漏れのように雄一の意識を傷つけるのではないかと。だから「忘れた」と笑って、自らの心を守っているのではないかと。 「美里さん、出て行ったの?」 「先週、実家に帰ったよ」 「離婚届は?」 「おととい出してきた」  二本目の缶ビールを兄に差し出して、真理子は微笑んだ。  別れは、不幸ではない。命が途切れる別れであっても、命ある別れであっても。焦げた餃子をはさんで、兄妹は薄れた記憶をぽつぽつと語り明かした。お兄ちゃんの餃子おいしかった、そうめんもおいしかった、花火大会もうれしかった、いつもそばにいてくれて安心だった。  離婚したばかりの雄一は、あまり言葉は出てこなかった。懐かしい話もしようと思えばできるが、今はとても疲れていた。ただ真理子が無事に暴力夫と別れられたことは、とてもよかったと感じていた。そういう雄一の気持ちは、真理子にはきちんと伝わった。  ありがとう、とは、うまく言えない。  ただ、濃い血のつながりが、互いになにかを伝えあっていたのだろう。 -----
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