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葉裏のそよぎ
玄関のドアから三歩出て右手を見上げると、目の前にはいつも山景色が広がっていた。朝日山と呼ばれていて、学校の校歌にもうたわれている。春夏秋冬、さまざまな色合いを見せてくれる山で、真理子は特に秋が好きだった。赤や黄色や褐色に染まった山の色は美しく、青空に映えて目を奪われた。
秋は台風の季節でもある。その年も、激しい嵐に見舞われた。古い家屋はガタピシと音を立てながら揺れて、夜の闇の中を強い風が吹き荒んだ。縁側の広い窓を守る雨戸は壊れていて使ったことはなく、母は「ガラスが割れないかしら」と心配そうにしていた。不器用な父はなにも手伝わず、テレビと新聞に集中するばかりだ。真理子もまだ小学生だったから、母を不安から解放してあげられる力はなかった。ただ風の音を聞いて、家が揺れるのを感じるだけであった。
冷夏が終わった秋の台風は厳しく、夜の間ずっと家を揺らし続けた。真理子の感受性は鋭くも鈍くもなかったので、家が壊れそうな不安を感じつつ、母の心配を気づかいつつ、それでものんきに一夜を過ごした。
台風一過というが、翌朝は文字通り美しい青空だった。暑くはなかったが、まだ強風が残る朝だ。赤いランドセルを背負って運動靴をはき、玄関を出て右手の山を見上げて、真理子は心底驚いた。
山の色が、褪せたベージュのような色に変わっていたからだ。
玄関先で見送ってくれた母を呼び寄せて、真理子は叫んだ。
「お母さん、山の色が違う!」
母はつっかけばきで外へ出てきて、真理子が指差す方角を見上げると、冷静な声で答えた。
「ハウラね」
「ハウラ?」
聞いたことのない言葉に、真理子は奇妙な気分になった。
「葉っぱの裏ね。風が強いから、お山の葉っぱがみんな裏返しになってるのよ」
「ああ、葉っぱの裏でハウラって言うのかあ」
「普段の葉っぱの色とは違う色が見えるから、よく見ておきなさい」
よく見ておきなさいという言葉の説教くささで、真理子の感動は少しだけ薄れた。それでも心を奪う美しさと意外さで、山の姿から目が離せなかった。そろそろ登校しなければならないが、通学路は山を背にした方角だったので、ひどく残念な気がした。
葉裏の色を知った数年後、真理子は音楽の授業で『追憶』という歌を習い、歌詞の中に“葉裏のそよぎ”という言葉があることに気づいた。
真理子は、母以外には誰にも、葉裏だけの山の感動を伝えたことはなかった。大人になっても誰にも言わなかった。特に理由があるわけではなく、伝えたいと思う相手がいなかっただけだ。
東京に出てきて就職し、たくさんの新しい知人や友人ができた。誰とでも難なく距離を近づけられる真理子にとって、なぜか葉裏の色の感動を分かち合える人はいなかった。都会の人だけではなく、多くの地域から集まっている職場なのに、葉裏のそよぎを知らない人がいないわけがないだろうに、どうしても話したいと思える人は存在しなかった。
同じ部署の男性社員である植田から食事に誘われたのは、台風が過ぎた秋のことだった。昼食後に化粧室で歯を磨き、化粧直しをしてから廊下へ出ると、通りがかった植田から小さく声をかけられた。
「清水さん、今夜、空いてない?」
「今夜? なにかありましたっけ?」
「いや、空いてれば、二人で食事でも」
心の奥で、二人で食事をする意味を考えなかったかと問われれば、嘘になる。だが、華やかでもなく、浮いた話もない真理子にとっては、それは錯覚だろうと思い至り、安請け合いするかのごとく承諾した。
18時前にタイムカードを押し、駐車場へ向かう。車通勤をしていた彼は、濃紺の車の前で待っていた。「行こうか」と声をかけられたので、助手席に乗り込む。車にまったく無頓着な真理子から見ても、彼の運転は上手かった。
職場から車で15分ほどのレストランへ向かい、二人でディナーコースを楽しんだ。さほど高級な店でもないので、気楽な雰囲気でお喋りに花を咲かせる。新しいプロジェクトに参加することになった真理子の深い悩みを、植田はよく聴いてくれた。正直なところ、真理子はプロジェクトの重圧に負けて、無謀な退職を考えていたのだった。
デザートのケーキを食べ終わり、コーヒーを飲みながら、植田は口を開く。
「清水さん、俺とつきあってくれませんか」
頭の中に、突如として『寿退社』の文字が浮かび上がった。飛躍しすぎだと、真理子は慌てて脳内の文字をかき消す。しかし一度思い浮かんだ三文字は、なかなか消えてはくれなかった。
「プ、プロポーズですか?」
口をついて出てきたのは、とんでもない台詞だった。
「いや、プロポーズの、あの、前段階だよ」
「あ、ごめんなさい、つい、慣れなくて」
植田はにこりと笑って、「前段階で、段階を踏めたら嬉しいかな」と言った。
「光栄です。わ、私でよろしければ」
男性とつきあったことがほとんどない真理子には、青天の霹靂だった。
つきあいを始めてみて、ふと真理子は思った。植田に、葉裏の色の感動を伝えてみようかと。
「実家、関西でしたよね」
「うん、奈良の奥のほう」
「近くに山はあった?」
「あったよ」
運転席の横顔を眺めて、真理子はつぶやいた。
「山じゅうの木の葉っぱが、強い風であおられて、みんな裏返しになってる様子、見たことある?」
植田は首を傾げて言った。
「うーん、あるかなあ。あったかも」
真理子はそこで、葉裏の話題をやめた。
あの色合いの感動を共有できる人は、どこにいるのだろうか。こちらから話題を持ち出さないと、なかなか葉裏の話題など出てくることはない。だからといって、葉裏のことで盛り上がることのできる人とだけつきあいたいわけでもなく、真理子はほんの少しだけ植田とつきあい、結婚することを決めた。
葉裏の感動など、わからなくてもいい。ただ、今の仕事を辞めさせてくれて、専業主婦にさせてくれることが条件だった。それほどに真理子は、現在のプロジェクトの重圧に苦しみ、病んでいた。無能扱いされ、嫌がらせを受け、なぜこのような仕打ちを受けねばならないのかと頭を抱えていた。植田はそんな真理子を、優しくすくい上げてくれた。
よくつきあうこともなく、考えることもなく、結婚した。華やかな結婚式を開き、多くの人に祝福された。それなのに、心のどこかの歯車が軋んでいたのを感じている。葉裏の感動を分かち合える人でなかったからだろうか。そんな小さなことを気にするよりも、目の前の家事を回すことで精一杯だった。
なぜか心が重い。なぜか夫が怖い。なぜか生活が苦い。なぜか身体が動かない。
真理子の精神は軋み続け、ある日大粒の涙となり溢れ出た。心は歪み、葉裏の感動を忘れ去った。
私は、なにがしたかったのだろう。
頬を打たれた。背中を蹴られた。髪をつかんで引きずられた。どうして愛したはずの夫から、叩かれなくてはならないのか。私が悪かったのか。仕事を辞めたことで、負い目があるからこんなことになったのか。
閉じられた家庭の中で、暴力は継続された。
嫌がらせなら、何度でも受けた。セクシャルハラスメントも受け続けた。どんな苦しみも、必死で隠して受け止め続けた。そこから逃げてきた夫の傘の下。「つきあってくれませんか」と微笑んだ植田は、もうどこにもいなかった。
離婚の文字が、頭の中を駆け巡る。誰も助けてくれない。このままでは、死んでしまう。真理子はある日、植田との家庭を捨てた。自分だけでアパートを借りて、離婚届を送りつけた。意外にも夫は、あっさりと判をついて返送してきた。真理子は、救われた。
葉裏の色の感動を、もう二度と誰にも語るまいと、真理子は決めた。もう二度と、誰にも心を許すまいと、決めるしかなかった。心を許すことができるのは、兄の雄一だけだった。父は死に、母は認知症の診断を受けている。心の通じる家族は、雄一しかいなくなったのだ。だが、雄一が葉裏の感動を分かち合えるとは、真理子は思っていない。分かち合えなくても構わない。
小学生の頃に習った『追憶』という歌。スペイン民謡に日本語の歌詞をつけたものだ。真理子は歌を口ずさむことが増えた。
葉裏のそよぎは、思い出を誘うものだから。
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