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プロローグ1
体育館が異様な熱に包まれている。八月も下旬、まだ午前中なのに外はすでに四十度近いらしい。風通しの悪い体育館はどうしても熱がこもりやすく、応援席に座っているだけで全身から汗が噴き出す。
熱の原因は夏の暑さだけではない。中学女子バレーボール全国大会一回戦、その中でも私たちのチームが会場全体の熱に拍車をかけている。
体育館にはコートが三面設置されていて、どのコートでも試合が行われているが、私たちのチームの試合以外を見ている応援席の人はほとんどいない。私たちのチームの相手は全国二連覇中で、私たちは全国大会には初出場。会場のだれもが結果は目に見えていると言わんばかりだった。
だがその評価は今や覆っていた。第一セット23対23で互角に戦っている。ずっとシーソーゲームが続いている。点数が二桁になったあたりから少しずつ注目度が上り、二十点台に突入する頃には会場全体の目が私たちのチームのコートに引きつけられていた。
「これはいけるんじゃないか」
私の横で静かにしていた幼馴染の右原莉菜がぼそりと呟いた。
私は静かに頷いた。私も莉菜も試合どころかベンチ入りすらしておらず、応援しかしていない。それでも自分のことのように緊張するし、手が小刻みに震えてくる。
だが私たち全員の願い空しく、相手が粘りを見せ、23対25で第一セットを落とした。
私を含めベンチ入りしていない応援要員全員の緊張が一気に解け、弛緩した空気が漂った。
「あるぞ、番狂わせ」
莉菜がまただれに同意を求めるでもなく独りごちた。
私もそう思うが、なかなか甘くない。全国二連覇中の実力は確かで、土壇場になっても慌てることなく自分たちのプレーを貫き二点を連取した。本当に同じ中学生なのかと思ってしまう。とはいえ、相手はほとんど三年生だろうし、私はまだ一年生なのだが。
笛が響き、それぞれのコートに六人が入った。それと同時に再び会場の注目が一つのコートに集まる。だれもが期待している。超強豪相手を初出場のチームが喰うのかを。
甘くない。現実は、試合は、甘くない。
第二セットは第一セットとは打って変わって、一方的な展開だった。5対15。あっという間に10点差。初戦で相手がまだ実力を出し切れていなかったのか。私たちのチームが実力以上の実力を出していたのだろうか。おそらく両方だろう。これが本当の実力差なのだ。片や四国の田舎の公立中学、片や東京の私立中学。競技人口の差は実力差に直結しやすい。人が多ければ多いほど、才能や力のある人がいる確率は高い。
会場の熱気も心なしか落ち着いたようだ。一人また一人とこの試合に注目する人が減っていく。私たちがいる応援席も水を打ったように静まりかえっている。
「ふざけんな! 気合い出せ! 第一セットで満足したのかよ! 今からでも私を出せ!」
唯一隣の莉菜を除いては。
「右原さんうるさい。水上さん、黙らせて」
一つ前の席に座っていた二年生の先輩にキッと睨まれた。
「こうなるとちょっと無理です」
口答えとも取れるような私の反応に先輩はわざとらしく溜息をつき、前に向き直った。
なおも莉菜は眉間に皺を寄せ、どこ吹く風で怒号を飛ばしている。
莉菜も私も先輩が怖いとは思ったことはない。私も莉菜もバレーボールを十年近くやっていて実力はすでにどの二年生よりも上だ。加えて身長もどの二年生よりも大きいから多少すごまれても何とも思わない。私も莉菜も身長は一六〇センチ以上と、中学一年生としては大きいほうだ。
相手がさらに点を取り11点差となったところで私たちのチームの顧問が選手交代を行った。
サイドラインに背番号14の見慣れた背中が立っていた。ベンチ入りできる最大人数は一四人。ベンチ入りメンバーの中では一番下だが、ベンチ入りした唯一の一年生。
「真希! 逆転だ! ぶっ飛ばせ!」
真希がコートに立ったことで、隣の莉菜はさらにヒートアップしていく。応援席にいる二年生全員の視線が集まるが文句を言う人は特にいない。
王木真希。私と莉菜のもう一人の幼馴染だ。真希も私や莉菜と同じでバレーボールを十年近くやっていて、実力は私たち三人の中でほんの少しだけ抜けている。そして、このチームで三年生を差し置いて一番かもしれない。
真希は腰まである長い髪をまとめポニーテールにしている。バレーをやるときはいつもそのスタイルだ。
審判のチェックが終わり、真希がコートに立った。場所は前衛レフトからスタート。
真希の身長は中学一年生ですでに一六五センチとかなり大きい。それでも相手の平均身長一七〇センチに比べると少し劣っている。
「諦めてないよな、真希!」
莉菜の声に真希がちらりと私たちのいる応援席を見た。それから小さく頷いた。
審判の笛が吹かれ、相手のサーブが鋭くコートに飛んでくる。
この期に及んで莉菜も真希も諦めていないのだろうか。この場面で真希に交代したのは、有望株の真希に少しでも全国の空気を感じてもらうためのものだろう。つまり今後のための投資みたいなものだ。この試合を見ている人全員がそう思っているはずだ。言い方は悪いが、試合に出ていない莉菜は好き勝手言える。でも実際に試合に出ている真希は……。
笛の音で我に返った。コートでは真希を三年生が取り囲みハイタッチをしている。
「いいぞ、真希!」
どうやら真希が一点決めたらしい。全国二連覇中の相手から一点を取ったのに、真希が喜んでいる様子はない。
私たちのチームがサーブを打ち、相手のアタックは真希がブロックで威力を弱める。真希がブロックから着地するとすかさずレフト側まで移動しアタックを決める。
これが三度繰り返され、真希が四連続得点とする。
それでも真希の顔に笑顔はない。でも、長い付き合いだから分かる。喜んでいるが、それを表に出していないだけ。真希は今、怖いくらい真剣で集中していて、残り七点をひっくり返すことだけを考えている。真希は本気だ。真希は本気で勝つ気でいる。相手がどんなチームであろうと点差がどうであろうと、「負け」の二文字は真希の中に存在しない。
三年のセッターが真希に立て続けにトスを上げ、相手ブロッカーも必然的に真希を警戒している。それでも真希はさらに二点を追加する。
コート上の、会場の空気が変わるのが肌で感じられる。圧倒的点差をつけられ興醒めしていく空気と真逆、再び私たちのチームに、いや、王木真希一人に熱が注がれる。
「莉菜?」
さっきまで威勢のいい声を響かせていたが、気がついたら大人しくなっていた。
「すごいな」
莉菜も食い入るように真希を見つめていた。第二セットに入ってからの不甲斐なかった三年生はもう眼中にないようだ。
真希がさらにアタックを決めたところで相手がタイムアウトを要求し、真希が引き寄せたいい流れが一度切れた。
ベンチに戻った選手と、応援席にいる私たち全員の雰囲気が一気に明るくなった。それと反比例するように莉菜は大人しいままだ。
主審の笛で短いタイムが終わりコートに再び一二人が集まる。物理的に試合の流れが切れたが、真希の集中力は切れていない。次々と得点を重ね、真希を警戒する相手の意識の隙を縫うように三年生が何点か決め、同点とする。
私はもう試合そのものに注目していなかった。いや、できなくなっていた。真希しか、私の幼馴染で十年以上の付き合いの真希しか目に入らない。こんなに堂々としていただろうか。こんなにしなやかに動けたのだろうか。何より、こんなに美しく強かったのだろうか。
真希のアタックで同点に追いついた瞬間、会場全体が湧いた。観客席にいるおそらく両チームとも無関係の人たちの感嘆の声が、叫びが空気を震わし、私の肌に突き刺さる。
再び相手がタイムアウトを取り、立て直しをはかる。
勢いは完全にこっちにあった。25対23で第二セットを奪い、最終第三セットにもつれ込んだ。
明るい雰囲気の中、莉菜は静かに座っていた。
23対25。大番狂わせとはならなかった。これがドラマや漫画なら勝つのだろうが、やはり非情だ。それでもコートにいる三年生たちや応援席に悲壮感は漂っていない。最後の最後でいい勝負をした、大げさに言えば夢を見られた、そんな空気が漂っている。
「真希を労いにいくか」
莉菜がそう言うなり立ち上がりそそくさと歩きだした。私は慌てて後を追った。
階段を降りるとちょうど、廊下に選手全員が集まっていた。ただその中に見慣れない大人が何人かいる。カメラを構えていたり、ノートを片手に熱心にメモをしている人もいる。
そしてその中心にいるのは真希だ。
「雑誌の取材みたいだな」
莉菜がそう言って指を差した人は腕章をしており、そこにバレーボール誌の名前が書いてあった。
「まだ中学一年生っていうのは本当ですか?」
「バレーはいつからやっているんですか」
「絶望的な状況での選手交代でしたが、緊張はしましたか」
「10点差を覆せると思っていましたか」
記者が目を輝かせ、早口に捲し立てる。真希は相手のペースに呑まれることなく淡々と受け答えしていく。
「いい試合でした。今後が楽しみですね」
記者がそう締めくくると、それまで淡々としていた真希が眉をひそめた。
「いい試合? 負けたのにですか」
真希のたった一言で、さっきまで興奮気味だった記者たちは静かになり、どこか浮ついた空気だった三年生たちも目を丸くしている。
「過程がどうであれ、結果は負けです。……それだけです」
しんと静まりかえり、体育館のコートからボールを打つ音や掛け声が壁越しながらいやに響く。
真希が「すみません」と小さく謝ることで重苦しい空気を破った。それを皮切りに少しずつほっとしたような空気が流れた。
「奈緒」
莉菜がぽつりと呟いた。
「うん」
「すごいな」
「うん」
「ついこの間まで小学生だったんだよな」
「うん」
莉菜の気持ちは手に取るように分かる。幼馴染だから。いや、違う。私も同じだからだ。私の中からふつふつと何かが湧き上がってくる。
「私たち三人とも、バレーは十年近くやってきてるんだよな」
「うん」
「いつの間にこんなに差がついてたんだろうな」
「……分かんない」
身長も実力もほとんど横一列だと思っていた。全然違った、私は自惚れていたのか。真希と同じはずがない。
「負けたくないよね」
私は一言一言、強くはっきりと言葉にした。
「そうだな」
「来年一緒に、三人で日本一になろう」
私の言葉に莉菜が強く頷いた。
こんな試合を見せられて、それでも納得していない真希を見て、大人しくしている私と莉菜じゃない。戦いはもう始まっている。来年こそ絶対に。
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