第4話 集会

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第4話 集会

「今日は私はお呼ばれで民主フォーラムに行くわ。いつも通り家事をお願いね」  アネットはそう言って車に乗り込んだ。 「行ってらっしゃいませー」 「はあい、行ってきます」  民主フォーラムの集会場はプシュトの中心部にある。この国が今年の頭に共産党一党独裁を放棄して他党の結成を認めてからは、地下活動グループだったマージャ民主フォーラムも晴れて立派な政党になった。以前から活動に参加していたアネットは、しかし、党員には加わらなかった。あくまで協力者というていで手を貸している。 「今日は文筆家のジグモンディ・アネットさんが来てくださっている。ご存じの通り、ピクニック計画の協力者だ」  民主フォーラムを仕切るシャイベルネ・ヤーノシュに紹介されて、アネットは優雅にお辞儀をした。 「では、各々打ち合わせに入るように」  アネットはヤーノシュのいる机に招かれる。 「では、軽く役割を確認するぞ。東ジェルマ難民へのパンフレット配布。西側との連携。以上がアネットだ」 「そうよ」  アネットはにこにこしながら話を聞いていた。 「少し荷が重くないか? 少しは俺が……」 「いいのよ。ヤーノシュたちは食事と楽隊の準備をお願いね。それからパンフレットの印刷。開催地までのバスの手配。他党との連携。首相との密談。ね、あなたたちもやることがいっぱいよ」 「いや、でも……パンフレット配布はアネットでなくてもできるだろう。俺たちも手伝うっていうことでどうだ。人員の確保も大変だろうし」 「ん-、そうね。じゃあ、そこは一緒にやりましょう」  それからは主にパンフレットの話で盛り上がった。 「言うまでもなく、東ジェルマ難民にピクニックの開催を知らせるのは、この計画の最大の肝だ。折角開催しても、難民がほとんど逃げられないとなっては、計画の意味が無いからな」 「配布の日程を決めましょう。計画の実行日は八月十九日の土曜日。一か月前くらいには知らせたいところね」 「みんな仕事があるからな。うーん、準備の時間も考えて、七月二十二日の土曜日にしようか」 「分かったわ」 「場所はバラント湖の難民キャンプで問題ないな?」 「ええ」  バラント湖はマージャの観光名所の一つであり、例年多くの東ジェルマ人が観光に訪れる。そして西ジェルマ人はマージャに入ることができる。だからバラント湖は東西に分かれてしまったジェルマ人たちの再会の場として重要な名所なのだ。  今年は、五月にハンガリー・ウスタリヒ間の鉄条網撤去を聞きつけた多くの東ジェルマ人がバラント湖まで旅行に出かけたきり、ぐずぐずと帰ろうとしない。在留資格がなくなっても滞在し続けている。マージャ国内で最大の東ジェルマ人難民キャンプが、バラント湖なのだ。 「じゃあ、そういうことで。アネット、大変だろうがよろしく頼む」 「任せてね」  アネットはフォーラムを去ろうとした。 「アネット」  ヤーノシュに呼び止められて、振り返る。 「なあに?」 「いや……気を付けて帰れよ」 「ありがとう」  アネットは微笑んで、会場を後にした。  帰ると家の中は無人だった。ズザンナとエリカは散歩に出ていると聞いていた。エリカが何かを思い出してくれるといいのだが……。  アネットは執務室に張り出してあるマージャの地図を見た。  ウスタリヒとの国境線は複雑だった。ピクニックの開催場所はシロンといって、何もない野原だった。だがここは、ウスタリヒに向かって大きく突き出した地形をしている。つまり、難民がウスタリヒへ亡命しやすい。  バラント湖からシロンまでは車で三時間ほど。  やがて、ズザンナとエリカが帰ってきた。二人は楽しそうに談笑していた。  仲良くなってくれたようで何よりだ。 「二人とも、ちょっと聞いて」  アネットは声をかけた。 「今後の予定を伝えるわ。明後日は夜にまたお客様が来るから、ケーキをお願い。それから出版社の方から連絡が来るのが来週で……」  二人はふむふむと話を聞いている。 「……それから、七月二十二日に、バラント湖に行くわ」 「バラント湖に? そりゃまた、どうして?」 「取材よ。次の本は東ジェルマ難民のルポルタージュを書こうと思っているの」 「そうなんですか」 「出版社の人と行くから同行は不要よ。留守を頼んだわ」 「承知しました」  ズザンナは言った。 「それで」とアネットは続ける。 「散歩中に何か異変はあったかしら?」 「いえ、何もなかったです。ねえ?」 「はい……」 「記憶が飛んだりはしたかしら?」 「いいえ、しませんでした」  アネットはトゥルルの指輪に軽く触れた。 「そう。ひとまず現状維持という感じなのね。……エリカ、ちょっとこっちへ来て。ズザンナは下がっていいわよ」 「はい」  アネットはエリカと向かい合って座る。 「この前、大切にしている家族がいたって言ったわよね」 「はい」 「今もその方はいらっしゃるのかしら」 「え……います。いますよ」 「どんな方だったの?」 「そうですね……」  エリカは眉間に皺を寄せて考え込んだ。 「いつもベッドの上にいた……と思います。多分、病気で……」 「まあ」 「私は……私はあの人のことを……生きていて欲しいと思って……」  エリカの息が荒くなってきた。 「落ち着いて。無理をしなくていいのよ。……でも、少しは思い出せていたのかしら」 「そう、みたいです」 「その方のためにも、早く記憶を取り戻さなければね」 「本当に、早くしなければならないんです。もし、あの人に何かあったら、私……」 「焦ってはいけないわ。きっと思い出せるから、無理してストレスを抱えるようなことはしないでね」 「はい。ありがとうございます」 「エリカは優しい人なのね。家族のためにこんなに必死になれるなんて。……本当に、優しい」 「……」 「さあ、もう休んだ方が良いわ。下がっていいわよ」 「……ありがとうございます……」  エリカはふらふらと退室した。 「あの人……ね。家族。旦那さんかしら。御兄弟かしら。親御さんかしら」  アネットは独り言ちた。  その夜、アネットは両親の夢を見た。  マージャから逃げることができずに、投獄されていた両親。それが、1956年、当時の首相ナディ率いるマージャ動乱の時に、どさくさに紛れて釈放されて、運よくマージャ国内に留まることを許された。そうしてアネットが生まれた。  両親は厳しかった。アネットにいろんな学問を、特に言語を教え込んだ。マージャ語、ジェルマ語、ブリトゥン語、ソヴェティア語……。  ソヴェティア。  東側諸国、およびその軍事機構であるマスクヴァル条約機構を率いる、北方の大国。東側諸国はソヴェティアの意志に逆らうことは許されない。マージャ動乱もそうやって鎮圧されて、マージャ人には多数の死者が出た。  それなのに、今ソヴェティアを率いている最高指導者であるゴルドバという男は、「建て直し政策」とやらを実施している。東側諸国はソヴェティアに従う必要がないと言い始めたのだ。  これのお陰でマージャはずいぶんと住みよくなった。アネットの仕事もはかどるようになったし、両親は地位を回復したし、共産党一党独裁を放棄することもできたし、ソヴェティア当局に殺されたナディを改葬し英雄として讃えることもできた。  あともう少しなのだ。  あともう少し、何かきっかけがあれば、東側諸国を縛っていたくびきが外れる。そうして東西の冷戦は終わる。  夢の中の両親は、西側で楽しく旅をしていた。  アネットは西側の景色を知らない。  伝え聞くことしかできていない。  東西を隔てる「鋼のカーテン」が外れたら、見に行ってみたいものだ。  新しい世界を。  その小さな一歩として、ピクニックがある。  目的は東ジェルマ難民を逃がす、ただそれだけのこと。  誰もこれが、冷戦を揺るがすような大事件になるなんて、露ほども思っていない。  ただ、小さな希望が寄り集まれば、夢が実現できるかもしれない。  アネットには予感がしていた。  このピクニックが成功すれば……歴史に名を残す事件となるだろう。
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