第7話 再挑戦

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第7話 再挑戦

 あれはエリカだったのだろうか、とアネットは民主フォーラムの会議場でぼんやりと考えた。  髪の色も顔つきも違うし、目つきは眼鏡をかけていてよく認識できなかった。それでも――あのスターツィはアネットの指輪を見て言ったのだ。嘘を吐くな、と。  その時の声がちょっとだけ、エリカに似ていた。 「民主フォーラムにもスパイがいる可能性があるし、家の中が油断できないのはいつも通りだし……私が何とかするしかないのかしらねえ」 「アネット!」  ヤーノシュに声を掛けられたので、アネットは咄嗟に笑みを向けた。 「なあに?」 「なにもくそもあるか。昨日に限って、スターツィがバラント湖を張っていた。パンフレットはみんな没収された。これはどこかから情報が漏れているとしか思えない。一体全体どうしたら――」 「まあ、落ち着きなさいな」 「落ち着けるか! バラント湖の難民たちに招待状が届かなければ、ピクニック計画はパアだ! 何の意味も無くなる! どうにかして――」 「それじゃあ、次の土曜日にまたパンフレットを配り直しましょう」 「はあ? そんなことをしても昨日の二の舞だぞ!」 「大丈夫よ」  アネットは至極冷静だった。 「みんなには、先週と全く同じように準備を進めるように言ってちょうだい。パンフレット配布の再決行日は二十九日の土曜日。そう、みんなに広く知らせて欲しいわ」  ヤーノシュは眉をひそめた。 「……本気か?」 「本気でやらなきゃ意味が無いのよ」 「?」 「私には伝手があるから大丈夫」  そう言うとヤーノシュは黙った。 「危険じゃないのか?」 「ちっとも」 「そうか……」  ヤーノシュにはまだ迷いがあるようだった。 「もしその――『俺たちが本気で準備をする』としたら、アネットだけに負担がかかることになるんじゃないか? 俺だけでも何か手伝えることは……」 「私も本気なの」  アネットはあくまで穏やかに言った。 「使えるものは何でも使うわ。ここが正念場なのよ」 「だが」 「じゃあ」  アネットは立ち上がった。 「私は早速準備にかかるから。後のことはよろしく頼んだわ、ヤーノシュ」 「……」  困惑するヤーノシュを置いて、アネットは会場を出た。  それから家に直帰して、盗聴対策をしてある電話を手に取った。 「もしもし、ヴィレッテ? こちらアネットよ」 「なに? 今はちょっと忙しいのだけれど!」 「例の件について変更点があるの。悪いけれど明後日こちらに来られない?」 「……」  無茶は承知の上だ。だがヴィレッテはしばしののち、「分かったわ」と言ってくれた。 「あなたが我儘を言うなんて珍しいものね! いいわ、聞いてあげる!」 「ありがとう」  アネットは受話器を置いた。胸がどきどきしていた。  ***  ズザンナは大忙しで準備をしていた。またお菓子の準備を頼まれたのだ。今度は一人で用意しなくてはならない。 「今回は私の我儘だから、お客様にはせめていいものをお出ししたいの」  などとアネットが言うから、ズザンナは考えた挙句ドボシュトルタ(モカクリームを挟んだケーキにカラメルをかけたもの)を作ることにした。  スポンジを焼いて、横に薄く切る。これが緊張する作業だ。そこに丁寧にかつ素早くクリームを塗り、何段にもそれを重ねる。最後にカラメルで覆う工程も慎重にやらねばならない。  終わった頃には夕飯の支度を始める時間を過ぎていた。ズザンナは手際よくサンドイッチを作り始めた。 「一体何があるんですか、アネットさん」 「ピクニックの準備よ」 「ああ、例の……。国境を開放するって本当ですか。町じゅうで噂になってますが」 「私はお菓子を持っていくだけよ。でも色々と大変なの」  アネットはよく話をはぐらかす。今もまたはぐらかされたなと、ズザンナは思った。  だがここに置いてもらっている以上、余計な詮索はしないことにしている。だから今回もそれきり質問するのはやめた。  お客様が来る時間になって、ズザンナはまた外に出されてしまった。給仕はアネットがするそうだ。  聞かれたくないことがあるのだろうかとズザンナは思った。何か危険なことに取り組んでいないかだけが心配だった。国家保安庁の連中にでも目をつけられたら、大変だ。  先日エリカを引き取ったのだって危険なことではなかったか。  ……まさか東ジェルマのスターツィだったなんて。  恐ろしいこともあるものだ。  そういえばアネットは、「エリカが記憶喪失になっているのは本当だった」と言った。何故それをはっきりと確信できているのか、ズザンナは不思議だったが、それもこれもあの指輪のお陰だったのだろうか。  嘘を見抜く魔法の指輪。  エリカが記憶喪失の振りをしてアネットの家に忍び込もうとしていたのなら、アネットはそれを見抜くことができた。だが相手が嘘をついていないのなら、正体を見抜くことが出来ない。記憶を失っているなら、嘘をつくことはできない。  エリカが記憶喪失になったのは何故か、結局は分からないままだ。  頭に怪我をしていたが……まさか相手はアネットを納得させるために、わざとエリカの記憶を奪って、アネットのもとに送り込んだのか? あの非道で知られるスターツィならそれくらいやるかもしれない。だが殴ることで故意に記憶を奪うなんてことが可能なのだろうか?  考えることがたくさんだった。  ズザンナは気分転換に、温泉に行くことにした。  持ってきた水着に着替えて、立派な建築物に囲まれただだっ広い温泉に浸る。温泉には他にも大勢人が来ていた。楽しそうな友達同士。家族連れ。恋人同士。  ズザンナは遊びまわったりはせず、小さな体を伸ばして隅っこの方で体を温めた。  そういえばアネットには恋人がいる気配もない。いつも仕事ばかりしている気がする。ちょっと取材や政治活動に出かけても、ズザンナに言った通りの時間に帰ってくる。普段は柔和な雰囲気を醸し出しているが、なかなかにお堅い人だ。  ズザンナも、家を飛び出してからは、身の振り方を決めかねているのだが……。  そんなことを思った翌々日に、アネットがズザンナに「ちょっと出て来るわ」とだけ言って家を出たので、ズザンナはたまげた。  朝早く、取材とも活動とも何にも言わずに出かけるなんて。  しかも――夜になっても帰ってこないなんて! 「良い人でもできたのかな? いつの間にか」  ズザンナは執務室の掃除をしながら呟いた。ごみ箱の中身を袋に移す。今回はやたらと紙ごみの量が多いなと思った。執筆業をしている以上、紙ごみはいつもどっさり出るのだが、それにしても多い。そしてどれも念入りにクシャクシャに丸められている。恋文でも書いたのだろうか。  夜遅く、晩御飯の時間が過ぎてから、アネットは帰ってきた。何だか彼女はいつもよりにこにこしているように見えた。 「ありゃあ、何かいいことでもあったんですか?」  ズザンナは尋ねた。 「ええ、とっても」  アネットは珍しく頬を上気させていた。 「遅くなって心配させて、ごめんなさいね。でも──これで、ピクニックが上手くいきそうなの!」  ズザンナはずっこけそうになった。 「出かけたのは、ピクニックのためだったんですか?」 「そうよ」 「やれやれ」  ズザンナは頭を振った。 「何かと思いましたよ。まあ、お元気そうで良かったです。危険なことはしていないんですね?」 「ええ、していないわ」 「良かったです。それじゃあ晩御飯にしましょう」 「あら、待っていてくれたのね。ありがとう。今、荷物を置いてくるわ」  アネットは軽い足取りで家の中に入って行った。  そういえば今は手を後ろに隠していたな、とズザンナは気付いた。  つまり──危険なことをしていないというのは、嘘だったのだろうか。
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