第8話 記憶

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第8話 記憶

 スターツィのプシュト支部は大騒ぎだった。  いつのまにか、ピクニック計画のパンフレットがバラント湖周辺の広範囲にわたって配られていることが明らかになったからだった。 「おかしいですね。どこの情報をとってみても、次の決行日は七月二十九日の土曜日。そのために民主フォーラムでも準備が進められていた。それなのに、実際に配布がされたのは二十八日の金曜日……」  キアラは言って、唇を噛んだ。自分の盗聴に抜かりがあったのだろうか。仲間の諜報にミスがあったのか。いずれも考えにくいことだった。天下のスターツィが日にちを間違えるなんて、そんな阿呆な話は聞いたことがない。 「一体誰がやったんだ? パンフレットだって二十九日のためにちゃんと印刷されていたじゃないか。配布のための人員の確保だって……。関係者の誰もが、二十九日に向けて行動していた」  ハインツはイライラしている様子だった。 「関係者の誰もが……?」  キアラはふと思い当たったことがあった。 「ハインツ。アネット・ジグモンディは民主フォーラムで最近どんな活動をしていましたか? 私はなるべく接触を減らすために、家の盗聴しかしていなかったので、把握しきれていないのです」 「ジグモンディ?」  ハインツは何故か微妙な顔をした。 「報告によると、パンフレット制作に多少関わっていた程度だ。そもそもジグモンディは民主フォーラムの党員ではないはずだ。その程度でもおかしくはない」 「おかしいですね」 「何だと?」 「ちょっと、席を外して、盗聴機器を確認してきても?」  キアラは許可をもらって離席し、ある日のある時刻の録音を聞き直した。  それから会議に戻った。 「遅くなりました」 「何だ。何か分かったのか」 「はい。アネットさんは、二十六日の水曜日、以前家に招いていた客と同じ人物を再び家に招いていました。その時の会話の様子がこちらです」  キアラは録音していた音声を流した。  会議の参加者は神妙な顔でそれを聞いている。 「……何だ? 茶を飲みながらテレビを見ているだけじゃないか」 「そうです。ですが私の記憶によると、この客はピクニックの計画に関与しています。食べ物を持ち寄って参加するのだとか」 「ケーキの話をしていたぞ。報告と一致する」 「そうなんですけど……気になる点が……」 「何だ」  キアラはもどかしげに手を動かした。 「アネットさんは一度はパンフレット配布に関与していた人物です。それが、このタイミングで、ピクニックに持っていくケーキの話しかしないなんて、不自然だと思いませんか?」 「……不自然と言えば、そうかもしれないが……」 「アネットさんはこの客と何か話し合いをしていた可能性があると思うのです」 「可能性の話なら、いくらでもあるじゃないか。ジグモンディに限った話ではない」 「……」 「まあいい。キアラ・テニエス、お前が気になるというなら、引き続きその人物を調べるといい。仮にお前の説が正しいとしたら、その客とやらの正体が分かっていないのは欠陥だからな」 「はい」  その後も会議は続いたが、特に進展はなかった。  キアラは帰宅して、ポストを覗き込んだ。兄からの手紙が入っていたので、少し気分が上向いた。時間がかかったが、自分の元にちゃんと届いて良かった。おおかた、東ジェルマでの検閲がまごついていたのだろう。   うきうきしながら封を開いて中身を読む。途端に、キアラの表情は曇った。  文面は手書きではなくタイプライターで打たれていた。こんなことは初めてだ。 「キアラへ  元気そうでよかった。僕はちょっと調子が悪いから、手紙を代筆してもらっているんだ。手書きで送れなくてすまないね。  心配しなくても、じきによくなるから安心してくれ。キアラの仕事のお陰で治療は良好なんだ。  ……」  キアラは最後まで文面に目を通した。  それから立ち上がった。 「偽物だ」  呟く。  この手紙は兄ではない別の誰かが書いている。  兄は自分のためにキアラがスターツィに入ることを嫌がっていた。「キアラの仕事のお陰で」なんてこれまで書いて寄越したことなど一度も無い。  これは東ジェルマのスターツィによる偽装だ。これまでにも手紙を検閲してきたくせに、何という杜撰な仕事ぶりだろうか。だがお陰で兄の身に何かが起きたことを知れた。 「ハインツ……」  彼は兄に異変が起きていることを知っているのだろうか。彼にも知らされていないのか、それとも知っていてキアラを使い続けているのか。  ……慎重に行動した方が良い。  誰をも信用しない方が良い。  キアラは手短に荷物をまとめた。急いで東ジェルマの首都ベルリーノに飛行機で向かって、病院に確かめに行かなければ。  家を出てすぐに、キアラは視線を感じた。――見張られている。ハインツの気配がする。愛する人の気配を辿り間違うなんてことはキアラにはありえない。  キアラは駆け出した。  駅まで行って電車に乗ろうとしたところで、くるりと踵を返して改札に戻った。 「奇遇ですね、ハインツ」  キアラに続いて電車に乗ろうとしていたハインツは意表を突かれたようだった。 「こんな時間にどこに行くんですか?」 「……分かっているんだろう。俺はお前の監視を任されているんだよ。お前こそ何をしているんだ、キアラ。仕事を放りだす気か?」 「兄の無事という報酬を受け取れない限り仕事を継続できません」 「……」 「ハインツ、お願いです。兄の安否を教えてください。兄に何があったんですか」 「何もない。無事だ」 「手紙を代筆してもらわねばならないほどの体調だと伺いましたが、それを無事というのですか?」 「いや……」 「あなたらしくもないですね。杜撰な仕事ぶりです……」  アネットは駆け出そうとして、ハインツに手を掴まれた。  キアラは振り払おうとしたが、力の差がありすぎて動けない。 「行かないでくれないか。俺を愛しているのなら」 「私を愛しているのなら、行かせてください。それともこれはハニートラップだったのですか?」 「どういう意味だ?」 「私を恋人にしたのは嘘だったのですか?」 「嘘じゃない。俺は」  キアラとハインツのことを、人々が遠巻きに眺めながら歩いていく。  ……そこに、アネットとズザンナが通りかかったのは、奇跡という他ない。  アネットは目を丸くしてキアラを――エリカを見つめていた。  それからそそくさと通り過ぎようとした。 「待ってください、アネットさん!」  キアラは叫んだ。 「ハインツ、私の兄は、生きているのですか!?」 「生きている。安心しろ。取り乱すな、キアラ!」  アネットはハッとして左手を見た。  それから、その手をキアラに差し向けた。  指輪は、かすかに光っていた。 「うあああああああああ!!」  キアラは叫んで、ハインツの手を振りほどき、その場に膝をついた。  兄が死んだ。そんなことも忘れていたなんて。  そう、キアラは本来なら知っていた。兄が死んだことを。  何かの手違いでその報告がキアラの元に届いた。キアラは乱心して部屋をめちゃくちゃにし、その足でスターツィをやめるとハインツに申し出た。  そうしたら、記憶操作薬を打たれて――二つのことを忘れ去った。一つは自分自身のこと。もう一つは兄が死んだという事実。  後者は薬によって未だに封じ込められていた記憶だったのだ。  スターツィは記憶を失ったキアラも利用して、アネットのもとにわざわざ潜り込ませた。頭の怪我はもちろん偽装だった。  だが思い出した。医者の言う通りだった。何かきっかけがあれば思い出すと。――今、ハインツの口から真っ赤な嘘が出て、兄の死を確信するとともに、キアラの記憶は完全に戻った。  キアラは深呼吸した。 「……本当なんですね?」 「え?」 「兄は生きているのですね、ハインツ?」 「生きているとも」 「……ひとまずは信用します」  キアラはよろよろと立ち上がった。 「兄が無事である限り、私はスターツィに協力します。ご安心ください」 「……よ、よかった。納得してくれたんだな」 「はい。すみませんでした」 「もういい。家まで送って行こう」 「いえ、結構です。ちょっと……」  キアラは悲し気な顔で佇んでいるアネットと、心配そうに見つめて来るズザンナを見返した。 「あのお二人とお話してきても?」  ハインツは難しい顔をした。 「……俺は待っている。それでいいな?」 「はい。ありがとう、ハインツ」  キアラは言った。
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