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判(わか)っていたことではあった。何時(いつ)しかその時は来るであろうと判っていたことではあった。それでもどうして、理解が及ばないとばかりにお花(はな)は実義(さねよし)の手を握るのだった。常に金槌を振り下ろしていたその腕は太く、手は大きく、肉厚で、お花の手をすぽりと覆ってしまう。けれどその時ばかりは実義の手がお花の手を握り返すことはなかった。
「お花」
と実義がお花を呼ぶ。夜の雨がその顔を打つ。水滴が滴るたび、実義の頬から生気という名のあたたかさが失せていく。嫌よとお花は叫んだ。何が嫌なのかは判らない。けれどお花は嫌よと叫ぶ。
鍛冶場の実義の元へ見知らぬ女が訪れたのは数刻前のことであった。その後、雨降る中二人は街へと降りていった。聞けば、女は実義のお得意先の娘なのだという。娘と呼ぶには年の超えたその女は夜が更けた後、商店と商店の間の小道に誘い込み、待ち望んでいたかのように実義を簪(かんざし)で刺して逃げた。不思議なことにその簪は髪を飾るにしては鋭利で、実義の腹をつっぷりと突いたのだった。
「あれはおれのさいごなのだよ」
と帰りの遅い実義を探しに慌てて街へ来ていたお花へ、実義は再会するや否や笑った。
「お花、少しばかり話を聞いてくれるかい。医者は要らぬよ、ただおれの話を聞いておくれ」
嫌よとお花は首を振る。けれどその手は気付いたかのように実義の手を握り続けるのだった。
***
お花、お前は陽炎(かげろう)というものを知っているか。春、陽射しの良い時に地から立ち昇る揺らぎのことだ。陽光が与える仄かな炎(ほむら)のことだ。おれはそれに女を見た。鍛冶屋となって日が浅い、春の昼間のことだった。
女は美しかった。だがおれにはその美しさが判らなかった。女を知らなかったのだ。おれにとっての女は母ただ一人であり、母は少なくとも美人ではなかった。染みのある頬を隠しもせず、おれに汁をよそった椀を嬉しそうに渡してくるような、そんな人だった。ある人はそれを美しいと評するらしいが、おれには母の美しさすら判らぬままだった。
おれが唯一判る美しさが鋼だった。鋼は美しい。間違いなく美しい。光を見事なまでに完全に跳ね返してみせるその艶やかな表面が、絵筆で塗るでもなく澄んだその色味が、浮き出る紋が、おれの心を取り込み引きつけ食い上げ、咀嚼し呑み込み二度と離れられぬとばかりにおれを閉じ込めた。だからおれは鍛冶屋となった。鋼に携われるのならば彫師でも鞘師でも卸し屋でも何でも良かったのだが、家の近くの鍛冶屋の爺が後継を探しているというので後継になった。幸いなことに父は早くに死んで、母は地元の田畑を手伝うだけで、我が家には継がねばならぬものは何一つなかった。
だがおれは鍛冶屋を継げなかった。爺はおれを破門した。鋼に魅入られているというのがその理由だった。目付きが良くない、それでは見るべきものが見えぬだろう、と。
「鋼に惚れるな。お前は鋼に尽くしすぎる。人があっての鋼じゃ、人が見えぬでは鋼に触れさせられぬ」
「何のことやらさっぱりだ」
「判らぬならそれまでよ」
おれはそばにあった金槌で爺を殴った。爺は死んだ。槌の先に散った赤い血や肉がまるで花弁のようだったが、おれには疎ましいものに見えた。
金槌を洗い、鍛冶場を掃除し、爺は死んだと皆に伝えた。誤って金槌で己の頭を打っていた、己の光る禿頭と手元の光る鋼を見間違ったのだと。皆笑った。驚くほど誰もおれを役場へ突き出さなかった。後で知ったことだが、爺は寡黙と偏屈が原因でかなり嫌われていて、それで後継がいなかったのだという。鍛冶場はおれが継ぐことになった。
鍛冶場を手に入れた数日後に女は現れた。陽炎のような女だった。事実、あれは陽炎だった。揺らいでいたのだ。ゆらゆらと。女は陽炎の如く、炎の如く、己を中心に周囲の景色を揺らがせていた。あまりに全てが歪むので、おれには女の姿しか認識できなくなっていた。結い上げぬ髪は腰よりも長く、ゆるゆると刃紋のような曲線を象り、隠れて城下へ遊びに来た城の姫様のようであった。
「この鍛冶場の主はいずこですか」
女が言う。
「おれだよ」
おれは答えた。嘘ではなかった。けれど女は白粉を塗った顔を歪ませて「この鍛冶場の主はいずこですか」と再び言った。おれは再び「おれだよ」と答えた。
「爺なら死んだ。今はおれがこの鍛冶場の後継ぎだ」
女はそれ以上何も言わなかった。言わぬまま、着物の裾を揺らめかせながら背を向けて、陽炎のようにすぐにいなくなった。
あの女を見たのはこの時だけだった。
あれが陽炎だったのか夢だったのか、はたまた現実だったのか、おれには未だに判らない。どうでも良かった。俺には鋼があれば十分だった。
おれは鍛冶屋となった。鉄を叩き鋼を作った。けれど大きな問題に直面した。爺はおれにろくなことを教えてくれなかったのだ。おれが作った鋼はどれも醜かった。頑丈ではあったが醜かった。澄んだ色味もない、刃紋も歪な、おれの嫌いな鋼だった。人々はおれの鋼で作った包丁や刀や爪切りや何やを好んで買っていったが、おれにとってはどうでも良かった。
「この鍛冶屋の鋼は良いですねえ」
と皆言う。その褒め言葉はおれを更に苛立たせた。
おれは鍛冶場に籠った。人々がおれの質の悪い鋼を買っていこうとも、そのお礼やら何やらを言いに来ようとも、おれは笑み一つなく追い払った。そんなものがおれの何になるというのか。おれが望むのは己の鋼の美しさだった。それだけだった。それのためならば何だってしてやろうと思っていた。いっそおれの鋼を頑丈だ使いやすいと言う奴ら全員の頭を殴ってしまえば残った人間達はおれの鋼の美しさに言及してくれるかとも思ったが、そんなことをしたところで俺の求める美しさが俺の手の中の鋼に宿るわけでもなかった。
お花が俺の元に現れたのはその頃だった。
「私の父も鍛冶屋でございました」
お花はおれへと鋼の打ち方を教えてくれた。驚くことにその助言はどれも的確で理にかなっていた。鍛冶場に入ることさえ許されぬ女という生き物だというのに、お花はおれよりも鋼の美しさを作り出す才があった。果たして、おれの鋼はようやくおれの求める美しさを宿していった。おれの鋼が元来の美しさを取り戻すごとに、おれの名も巷に広がり、おれの鋼はより高値で取り引きされるようになった。否、そんなことはどうでも良い。おれは、やっと恋焦がれた美しさを手に入れたのだ。火に向かい、金槌を振り下ろし、やっと手に入れたのだ。
おれが作った鋼は見飽きぬほどにおれの心を絡め取り閉じ込めた。金に目もくれぬおれを皆笑ったが、おれは満足だった。
***
お花の手の中で、実義の手は既に力を失っていた。それでもお花はその手を握る。雨にぬめる手のひらで、落ちゆく何かを必死に掴み上げ続けるかの如く、お花は実義の手を握っていた。
「あの女はきっとおれのさいごだったのだ」
実義は言う。その白い頬は笑んでいた。
「爺を殺したおれの、遅すぎたさいごだったのだ。本来ならばもっと早く来るべき死だったのだ。だからこれで良いのだ」
「なりませぬ」
「良いのだ」
「なりませぬ」
お花は実義の上へと伏せた。雨に濡れ血の臭いがけぶる胸元へと顔を伏せた。そうしてそろそろと顔を這い、実義の顔へと顔を近付け、耳元に口を寄せた。
「なりませぬ。あなたは簪などで死んではならぬのです」
耳打ちの後お花は顔を上げた。実義の手を握りしめていた手と逆の手で、懐から小刀を取り出した。
見間違うわけもない、美しい鋼だった。
「それは随分と前におれが作った小刀か」
「あなたが作った小刀にございます。礼にとあなたが私にくださった、美しく頑丈な小刀にございます」
「おれの後でも追う気か」
「いいえ」
お花は毅然と唇を引き結んでいた。何時の間にか雨は止み、けれど翳された小刀の刃先に雫が溜まっては実義の胸元へと落ちていた。
雲のない雨のように雫が落ちていた。
「父が授け私が授けた技によりあなたが作した鋼、あなたから心を奪い父から命と鍛冶場を奪った鋼、これこそがあなたにふさわしいのです。あの女はあなたのさいごではありませぬ。この鋼こそあなたのさいごにふさわしい。あなたはあの女の簪などで死んではならぬのです」
お花に手を握られ小刀を向けられながら、実義は唖然と目と口とを開き、そうして「ああ」と呟いた。
「ああ、そうか。そうか、お前は、お前こそが陽炎の女だったのか」
「いいえ、確かにあの日鍛冶場へ向かったのは私でしたが、私は見ての通りのつまらぬ女、あなたがおっしゃるような陽炎の女ではありませぬ」
「いいや、お前、お前だったのだ。今わかった。おれはあの時確かにお前と陽炎を見ていたのだ。お前を城の姫君と見間違うような陽炎を見ていたのだ。今なら判る、炎の中の鋼に見るような陽炎を、おれはあの時のお前に見ていたのだ」
実義の目に映るお花の顔は水面に映るかのように歪んでいた。お花の背後から迫る曙光も微かに映り、お花の輪郭をその水面に描いていた。それを見つめ、そうしてお花はさらに強く唇を噛み締めた。
判っていたことではあった。何時しかその時は来るであろうと判っていたことではあった。だから今更、ためらうわけもなかったのだ。実義が見知らぬ女に己より先に簪で刺されるとは思いもしなかったものの、実義はくたりとしたままお花のそばに横たわっているのだから。
「お花」
「はい」
「なぜ、今なのだ」
実義は朝日に照る刃先を前に笑っていた。
「その小刀をあげてから随分になる。なぜ、今までこうしなかった」
「機会を窺っておりましたゆえ」
「お前の横で昼寝など幾度したか判らぬ」
なあお花、と実義がようやく握り返してきたその手を、お花はそのまま握り、そうしてもう片方の腕を大きく振り上げた。
刃先から雨とも違う雫が落ちた。
「お前、美しかったのだなあ」
振り下ろした鋼はやはり、血肉の花弁に汚れてもなお、美しかった。
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