お釈迦様の気まぐれ 第二話

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 そんなある日。  帰りのバスは、通勤通学の客でビッシリ混んでいた。僕は一番後ろの真ん中辺りに座っていたが、目の前に、おばあさんが小さな女の子の手を引いて乗って来たので席を譲った。すると僕の隣に座っていた女子高生も立ち上がり席を譲った。おばあさんと幼児は並んで席に腰かけることができた。  それが弘子との出会いだった。一瞬、目が合っただけの出会い。  高校2年になった時、僕は弘子と同じクラスになった。2年3年と同じクラスだったが、この間に、特別、弘子と話した記憶はない。  僕は、弘子に限らず、高校時代はクラスで誰かと仲良く会話を交わした記憶がない。  その頃の僕が、話していて一番楽しい相手は、放課後に直行する塾の講師たちだった。  国際基督教大学を卒業し、数年、U.S.A.のプロテスタント系のキリスト教会で慈善活動に明け暮れていたという英語科の桐野先生は26才。  東京理科大学を卒業し、数年、某大手自動車会社の工場で設計の仕事をしていたという数学科の片岡先生は29才。  なぜ塾の講師をしているのか、その理由はよくわからなかったが、彼らの幅広く奥深い知識と鋭敏な才能は、刺激の少ない田舎で育った純朴な僕の好奇心を大いに刺激した。  この二人の知識と精神力は、僕の中で目覚めようともしていない青いツボミだった多くの神経や脳細胞を力ずくでガシガシ耕してくれた。物理も化学も、彼らの説明は高校の授業の何倍も面白く分かりやすかった。僕は、塾の授業が始まる前と、授業が終わった後の数時間を、彼らと共に過ごした。  塾の授業がない休みの日さえ、僕は、桐野先生と教会へ行き英語圏の人々と会話して文化を学んだり、片岡先生と難しい数式を解いて遊んだりする程、彼らに夢中だった。  僕がストレートで某国立大学の医学部に合格した時、彼らは本当に喜んでくれた。  それが・・・数か月後、片岡先生も桐野先生も、塾の講師を辞めた。  今にして思えば、彼ら自身もまた、僕と共依存していたのかもしれなかった。  
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