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2 あの日から、今まで
麻衣子にはあこがれの後輩がいる。
後輩にあこがれるというと変な感じだが、麻衣子が彼女に抱く感情はまぎれもなくあこがれだと思う。
「麻衣子さん、明日は楽しみに待ってますね」
モニターごしにほほえむ彼女は、三橋璃子という。
「あんまり期待しないで。私、人当たりが悪い自覚はあるもの」
「そんなことないですよ」
璃子は二十五歳で、麻衣子とはほぼ一回りの年の差がある。キャリアだってまだまだで、どちらかというと地味だ。
「私、恋愛もあんまりしたことないですけど。彼は気に入ってもらえると思います」
でも柔らかく笑う表情があたたかくて、きっと密かに彼女を思う人は多いだろうなと思う。
彼女を庇うようで、気が付いたら彼女に背中を押されている。そういう関係が心地よくて、麻衣子と璃子はもう五年来の友達だった。
「璃子には敵わないわね。じゃ、明日夕方七時に」
璃子は、麻衣子の心からの笑顔を見せられる数少ない相手だった。
麻衣子は通信を切ると、簡単に荷物の確認をして部屋を出た。
明日、夕方七時にいつもの洋食レストラン。麻衣子は璃子の紹介で、ある男性と会う約束になっていた。
麻衣子に隠れた男性ファンは多いが、「氷の美女」はガードが固い。特に仕事のつながりがある男性が言い寄ろうとすると、きつく跳ね返される。
だから璃子がぜひある男性を紹介したいと言ったときも、最初は断った。
璃子が「一度だけでもお願いします」と一生懸命食い下がっても、優しい性格の璃子を利用して近づこうとする男なんてと冷ややかだった。
けど、折しも明日のクリスマスイブに控えた勝算の低い再レクのせいで、麻衣子は璃子の勧めを受けることに決めた。
どうしてクリスマスイブに好きな人と真向対決しなければいけないのか。ちょっとくらい逃げさせて。そう思うくらいには、麻衣子は自分が弱いと知っている。
車で空港に着くと、ラウンジでコーヒーを飲みながらレクの資料を読み通して、飛行機に乗り込む。
フライトの間も、読書用ランプをつけて資料を見ていた。
少しだけ眠っていたらしい。気が付いたら朝食を知らせるアナウンスがかかっていて、麻衣子は硬い座席から身を起こした。
窓のシェードを下げて外をのぞきみると、眼下に陸が見えていた。
まだ着陸時間ではないから、日本列島ではない。でも麻衣子はその地面さえ懐かしくて、つかのまぼんやりと見下ろした。
帰国するたび、これが最後かもしれないと思う。
麻衣子が出世コースから外れて海外支社ばかり回るようにしたのは、それが気楽だったからだ。次々と人と土地を移って、あの日に戻ろうとする自分を引き留めていた。
――仕事、がんばろうな。
入社した日の歓迎会、晃と隣り合ってぎこちなく約束したはじまりの日に、麻衣子の心は何度となく帰っていこうとする。
がんばるよ、当たり前でしょ。麻衣子はぶすっとして言った。
実際は対立することの方が多かったけど、それでも一緒の会社にいると思うだけで毎日がわくわくした。
でも、晃はどんどん出世して遠い人になった。まだ結婚はしていないけど……それも時間の問題だろう。
あの日から今まで、晃以外を好きになったことなんてないのは、ずっと黙っておくつもりだ。
なんだか本当に、最後の帰国のような気がしてきた。麻衣子は苦笑して、背もたれに背を預けた。
「まもなく着陸します。お手荷物の確認を……」
さあ、何はともあれ仕事をしなくちゃ。
麻衣子は朝食を食べ逃して空っぽになった胃にミネラルウォーターを流し込んで、今度こそ見え始めた日本列島に目を細めた。
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