8 三年という地獄

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8 三年という地獄

 三年前のあの朝に時間を戻したい。晃は何度それを狂うように願ったかわからない。  麻衣子が好きな誰かの代わりに、酔いに任せて自分と寝たのはわかっていた。だからずるい自分が、麻衣子を引き留めようとなおあがいた。  社長に電話して、麻衣子が持参したプロジェクトの再レクを申し入れた。自分では判断に迷う。三日後、社長にも話を聞いてもらいたいと。  枕営業は麻衣子のもっとも嫌うところ。彼女に知られたらまちがいなく晃を許さない。  けれど今は片時も麻衣子を離したくなかった。いつも気丈で、晃に目もくれない麻衣子でも、弱っている今なら自分の腕の中で話を聞いてくれるかもしれない。  長い話を、するつもりで来た。出会ったときから心にしまっていた気持ちを、伝えようと思っていた。  でも麻衣子に聞かれないようにと部屋を出たのが、そんな晃に罰を与えたのだろう。  ホテルの部屋に戻って晃が見たのは、空っぽのベッドだった。  そんな短い間に荷造りをする時間などなかった。トランクは開けっ放しで、麻衣子はほとんど身一つで部屋を出て行ったらしかった。  何度かけてもつながらない携帯電話。一昼夜経ってもその状態で、晃は何かがおかしいことに気づいた。  交差点で見上げたモニターに異常な光景をみつけて、そして麻衣子が危険にさらされていたことを知る。  何百人と死者が出た異国の空港で、麻衣子は行方不明になっていた。一刻も早く助け出したくて、寝る間も惜しんで支社との交渉の陣頭に立った。  けれど三か月後ようやく帰国が叶った社員の中に、麻衣子はいなかった。  その代わりにメールで送られてきたのは、麻衣子の筆跡で書かれた退職願だった。  そこから晃の地獄は始まる。  誰かに脅されて退職願を書かされたのではないか。反外国人のデモで大勢死者も出ていて、性的な被害も聞こえていた。  日本にいた晃でも、麻衣子に言い寄る男の噂をたびたび聞いていた。麻衣子の冷たい美貌にそそられると、結婚を申し入れた男もいたと聞く。  あの国は、女性は外出もできない状況になっている。麻衣子を閉じ込めて、自分のものにしている男がいるのではないか?  ……麻衣子が望んで誰かと結ばれたなどと思ったなら、今度こそ気が狂うと思った。  社員の安全を確かめなければいけない。頑なに本社の代表として陣頭に立ち続ける晃は鬼気迫っていて、親友の出海さえ止めることはできなかった。  晃はほとんど機械的に食事と睡眠を取って仕事をするだけで、笑うこともなくなった。  本人すら生きている実感を持たずに過ごして、三年が経った。  父の後を継いで社長となった出海が、晃の地獄に一筋の光を差した。 「大使館から連絡があった。晃、来週からあの国の入国禁止が解かれるそうだ」 「……本当か!」  晃は思わずデスクから立ち上がって、食い入るように出海を見た。 「頼む! 行かせてくれ!」  晃の声は、ほとんど泣いているようだった。 「何でもする! 今日からクビになったってかまわない!」  出海はすがるように言う晃を、哀しい目でみつめる。  この三年間、晃がどんな思いでこの一報を待っていたか見ていた。助けてやれるなら、自分だって何でもしてやりたいとも言った。  でも親友として、もう一つの情報も口にしなければいけなかった。 「支社の元社員が、ミス・アイハラを見たらしい」  晃の目に宿った希望を、出海は曇らせたくはなかった。 「小さな男の子の手を引いているところを、男が迎えに来たと。それでも行くか?」  晃は目を見張って、一瞬の沈黙の後に言った。 「ああ。できるだけ早く」  出海はうなずいて、そう言うと思ったよと苦笑した。
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