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1 副社長氏
ミス・アイハラには好きな人がいるらしい。
相原麻衣子に振られた男は、そう言いながら苦笑するのが常だった。
麻衣子は新城商事という食品輸入会社で、コーディネーターとして働いている。世界中に十数店ある支店を回って、現地と日本の本社との調整役をしていた。
もういつでも役職を任せられるほど有能なのに、本社から睨まれてでも強い主張を口にするのが欠点だった。
潔癖で融通が利かない。あまり出世はできないだろうと言われたが、現地には熱烈なファンがたくさんいた。
あの冷たい目で見られると、ぞくっとして興奮する。抜け駆けして麻衣子と付き合おうとする現地の男性社員も多かった。
「マイコ、ついにジャイコブとも破局?」
「何、ジャイコブともって。元々付き合ってないけど」
「はいはい。モテる女はつらいわね」
外国でももちろん女性社員たちは耳が早い。麻衣子が朝出社したときには昨日の告白騒動は知れ渡っていた。
「仕事と私情をごっちゃにする男は論外よ。じゃ、私農場に行ってくる」
更衣室でダークグレーのタイを締めなおすと、麻衣子は上から作業着を羽織って出ていった。
車に乗ってミラーを合わせながら、ふと手を止めた。
アイスビューティと男性社員たちに呼ばれるまなざしとみつめあって、麻衣子は小さくため息をつく。
「そうよ。私って冷たいから」
好きな人にだってこの調子だから、きっと恋人なんてできない。
いつもの癖でタイをきつくしめると、麻衣子はアクセルを踏んだ。
麻衣子が農場で生産者と商談を終えて帰社すると、右往左往していた若手社員につかまった。
「マイコさん、よかった! すぐ本社に折り返し連絡してください!」
「どうしたの?」
「ミスター・ヴァイスが……」
その名前を聞いて、麻衣子は眉を寄せる。
副社長氏と社員たちが恐れるのは一人だ。
またあいつ。唇をかみながら報告を聞き終わると、麻衣子はモニターの前に座って呼び出しをかける。
「コーディネーターの相原です。反田氏は在席されてますか」
麻衣子が本社の渉外担当に口早に問いかけると、画面が切り替わって一人の男性が映った。
ナイフのような空気をまとう男だった。いつ見ても目つきが悪いが、見上げるほどの長身と甘さを取り払ったその雰囲気が禁欲的で、同性の友達は多いし、実は女子社員にも隠れたファンがいるのだった。
「来たか」
彼のうなるような低い声だけで怯んでしまう社員もいるが、麻衣子は正面から見返して言った。
「反田氏、海路輸送の計画を白紙に戻すとは本当ですか」
それは今日麻衣子が仕事をした支社の新規プロジェクトで、今年のはじめから支社を挙げて進めてきていた。
今更止められるプロジェクトではない。麻衣子は断じて受け入れない気でいた。
「担当に説明したとおりだ。採算が合わないと判断した」
「社長にレク済の計画です。原油価格も再三検討したはずです」
「輸送ルートの政情不安は?」
一瞬麻衣子の目が細められたのを、彼は見逃さなかったらしい。
「向こう三年程度は、黒海経由はリスクが大きい。先週まで東欧で仕事をしていた君は当然理解しているだろうが」
麻衣子は内心の不安を言い当てられたのを悟られないよう、目を逸らさずに首を横に振った。
彼の言う通り、麻衣子は当然知っている。だが、だからこそ通したかったのだ。
麻衣子は顎を引いて言い返す。
「リスクを克服できる利益があります。だから私たち支社の社員が現地で検証を続けているのではないですか?」
「社員の安全を害する仕事を任せるわけにはいかない。本社の決定だ」
彼の言葉は誇張ではないところが、麻衣子に重くのしかかる。
副社長氏というのは通称で、彼は本社の部長職だ。
けれど実質、引退間近の社長の右腕のような役目をしている。本社の決定を動かせてしまえるのだった。
「再レクを求めます」
麻衣子は何もかも見透かしたようなその目に苛立ちを感じながら言った。
「リスクを考慮しても利益を出せる計画だと確信しています。一週間後、支社にいらっしゃるご予定ですね? 三十分で結構です。時間をいただきたい」
彼は顎に手を当てて思案した。
短く調整をした後、ひとまず保留ということに決まった。
「マイコさん、助かります!」
通信を切ると、傍らで固唾を飲んで見守っていた若手社員は半泣きで喜んだ。
「安心するのはまだ早いわ。レクの準備に取り掛からないと」
「もちろんです! すぐ資料作ります」
麻衣子は何気なく彼を見上げて、気づかれないように息をついた。
目の下にクマがある。ここのところプロジェクトに追い立てられて彼の仕事が詰まっているのは知っていた。
「今日は帰りなさい。私が要点を整理して明日渡すわ」
「で、でもマイコさんだって自分の仕事があって」
「仕事はチームのものよ。調整が私の仕事」
ぷいと目をそらして、麻衣子はそっけなく言う。
「私の仕事の邪魔をしないで」
彼はうつむいて、わかりましたとつぶやいた。
暖房が緩くかかる夜のオフィスで、麻衣子は一人資料を作る。眠気覚ましのブラックコーヒーの匂いが漂う。
最近は農場とオフィスを往復してばかりで実感がわかないが、もうじきクリスマスだ。
僕と結婚して、こっちに住まないか。ジャイコブの言葉に魅力を感じてしまった自分が嫌だった。
三十五歳という年齢に、多少の焦りを感じている。仕事は好きで、同僚にも恵まれているけど、今日も一人の家で眠ると思うとちょっとだけ憂鬱になる。
でもと、麻衣子はパソコンから手を離す。
タイを緩めて、下から小さな瑠璃石のペンダントを取り出す。
「もう忘れたよね」
タイを解かれてこれを見られたくなくて、誰とも一緒に眠れない。
ふいにパソコンに通信があって、麻衣子は慌てて瑠璃石をタイの下に隠す。
「相原、まだいたのか」
モニターに映った顔が今一番会いたい顔で、麻衣子はつい頬をゆるめていた。
「反田君のおかげでね」
麻衣子の笑顔はどう見ても不機嫌そうな苦笑だっただろうが、彼は少しだけばつが悪そうな顔をした。
反田晃と麻衣子は、同期だ。出世コースを歩む晃と、出世コースに背を向ける麻衣子は正反対のように思えるが、実は仕事のやり方はよく似ていた。
「冗談よ。甘い計画だった。反田君が言ったことは、私が言うべきことだったわ」
二人ともクールに仕事をするが、案外情に厚い。そっけなく同僚を追い払っておいてその分遅くまで仕事をするところなど、まさにそうだった。
晃にノーを突き付けられるたび、またあいつと舌打ちしながら、やっぱりそうきたかと思う。麻衣子が心の中にくすぶる情で言えなかったノーを、晃はためらいなく口にするのだった。
「誰への連絡? 伝えておくわ」
「いや、業務連絡じゃない」
迷うそぶりがあったが、彼は麻衣子を見返して切り出す。
「来週末、時間はあるか?」
「私?」
来週末はまさにクリスマスイブで、麻衣子は一瞬不謹慎にも喜んだ。
「嫌よ。そういうやり方で計画を通したなんて言われたくないわ」
期待しちゃうからやめてよ。麻衣子はこういう可愛くない自分は嫌いと思いながら、不機嫌に返すことしかできなかった。
「そうか」
晃は一拍黙ったが、元のように隙の無い副社長氏の顔に戻っていた。
「相原の言う通りだ。では、正々堂々と本社に乗り込んでくるのを待っている」
通信を終えて、麻衣子は大きく息をつく。
タイの上から瑠璃石をお守りのように押さえて、目を閉じる。
「……嘘ばっか」
特別扱いしてほしいと、彼がこれをくれたときから思い続けているくせに。
でもそれが叶わないなら、せめて仕事をきちんとしないと。大丈夫、もう十年も続けてきたことでしょう?
麻衣子は自分に言い聞かせて目を開くと、彼が映らないモニターと共に仕事を再開した。
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