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第 1 話
1
羽田から乗った、長崎行きの新型の飛行機は、満席の状態だった。
芳賀千郷は、狭いシートにゆったり座ることもなく、ずっと身体を乗り出して、小さな窓から見える風景に見惚れていた。
千郷は、空から見る地上の景色が好きだった。
山々の連なりの微妙な起伏。
海と陸地の絶妙の境界。
小さな箱のような家が並ぶ街と、蟻のような速さで走り回っている車たち。
そして、時々、銀色に輝く翼。
それらの光景は、見飽きることがなかった。
羽田をたって、 1時間50分。
飛行機は、長崎大村空港の上空に達した。
海上空港のせいで、気流が悪く、機体は少し揺れたが、無事に着陸し、満席の客が降り立った。
長崎は、思っていたほどは暖かくなくて、海からの風が肌を刺した。
路線バスに乗り換え、佐世保に向かう。
佐世保には、小沢達也がいる。
達也は、父の妹の子、つまり、千郷にとっては、父方の従兄弟にあたるわけだ。
大学を卒業して、佐世保市内の薬品関係の会社に勤めていた。
その達也のワンルームマンションを、当てにしてきたのだ。
千郷を乗せたバスは、オープンしたばかりのオランダ村ハウステンボスへ行く車で、混雑している国道を、佐世保へ向かっていた。
観光バスも多く、長崎県内はすでに観光シーズンに入っていた。
それでも、2泊3日のツアー客と比べたら、時間の自由になる大学生の千郷は、ずっとゆっくりできる。
今回も大学が始まる、4月9日頃までに、東京へ戻ればいい。
千郷はまだ、何も知らないに等しかった。
自由気ままで、気楽で、男のくせに少し感情のもろい、ただの大学生にすぎない。
自分を取り巻く社会の状況が、見方を変えれば、どんなに危うい均衡の上に成り立っているか。
時代は、いつでも最も弱い普通の人々を押しつぶしてしまうこと。
歴史は、複雑にからみあって、解きほぐす術もないまま現在に至っていることも。
彼は、何ひとつ知らなかった。
知る術も、知る必要もなく。
最も一般的な、最大公約数的な若者であるだけだった。
むろん、そのことは罪ではない。
だが、この春、千郷は知ることになる。
自分が、長い歴史の中の一瞬、無数の人々の思いを負って、生かされているのだということを。
平成四年三月三十一日。
それでも、今はまだ、ただ、気まぐれにこの地を訪れた、観光客のひとりにすぎなかった。
2
あのとき、なぜ “長崎“ という地名が浮かんだのだろう。
長い春休みの計画は、いく通りもたてられたはずなのに。
どうして、長崎だったのだろう。
あとから千郷は何度も自分の心に問うてみた。
大学の建築学科には入ったものの、どの講義にも興味を持てずにいた、千郷の心をとらえたのが、唯一 “日本の教会建築 “ だったこと。
だから、長崎や天草の各地に点在する教会を、その目で見たかったことが、理由といえないこともない。
自分はもちろん、家族の中にだって、クリスチャンがいるわけではなかった。
テレビの、旅行番組で見た程度にすぎない。
そういえば、去年のクリスマス、ガールフレンドの本村佳乃に、無理矢理引っ張って行かれた、クリスマスミサの時に、のぞいたことかあるくらいだった。
それなのに、何故か教会を見たくなった。
——案外、佳乃なんかより、僕の方がロマンチストなのかもしれない ——
長崎行きを話すと佳乃は、
「私、ハウステンボスに行きたい 」と、言った。
言い出したらきかない佳乃に押し切られるように、千郷は承知した。
ただし、現地集合。
初めから、彼女を連れてくれば、結局ディズニーランドのデートと変わらなくなってしまう。
そう思って、千郷は一足先に長崎へやってきた。
佐世保に泊まることにしたのは、達也がいたからだ。
4年ぶりに会った達也は、すっかり社会人が板について、5歳という年齢差よりも、もっと大人を感じさせた。
案外、こぎれいなマンションの部屋で、それぞれの近況を報告し合って、一段落すると達也が切り出しにくそうにたずねてきた。
「おじいちゃん、元気? 」
「うん、元気、みたいだよ。あんまり話さないけど 」
3年前、父が祖父を東京へ引き取った時、
達也の両親である、小沢家と一騒動あったのは知っていた。
受験で頭がいっぱいだった千郷の耳にも、佐世保の芳賀家や祖父のこれからについて、繰り返される会話がとびこんできた。
長男である父は、佐世保へ戻るつもりはまるでないようだった。
祖父の意思は無視された形で、東京の家で同居することになったのだ。
——犬や猫じゃあるまいし、そんなに簡単に決めていいのかよ ——
その時、千郷は心の中で反発したものだ。
達也も、もめごとを嫌って家を出て、一人暮らしを始めていた。
「少しは、東京にも慣れたみたいだよ 」
千郷は、手渡された2本目の缶ビールを空けた。
「そうか、ならいいんだ 」
あの一件では、両親らの対応に腹を立てた千郷だったが、家にやってきた祖父に対しては、どう接していいのか戸惑うことばかりだった。
妙に口うるさく厳格で、プライドばかり高く、誰も聞きたがらない遠い昔の話をしたがった。
結局、千郷はうしろめたさを感じながらも、祖父との距離は広がる一方だった。
春休みに長崎へ、佐世保へ行く。
そう思った時、浮かんだのは “ 教会 “ ではなく、本当のところは、祖父の顔だったかもしれない。
それも、東京で気むずかしい顔をして、けむたがられている祖父ではなく、千郷がかすかに覚えている、遠い日のいなかの家にいた頃の祖父の笑顔だ。
長崎に、佐世保に行きたい。
だんだん強くなってきた、その想い。
父が捨てた故郷。
そして、祖父が捨てざるを得なかった故郷。
長崎佐世保は、多分、千郷にとっても特別な土地なのだ。
3
「どこか、見たいところある? 」
達也がたずねた。
「うん、教会かな。 見たくて来たんだよ。
天草か、長崎市内かな、やっぱり・・ 」
千郷は、東京から持ってきたガイドブックを見ながら言った。
佐世保にいなかがあるといっても、ずいぶん小さい時の記憶しか、千郷にはない。
その家も今は形もないのだ。
観光の街、長崎というイメージは、千郷の中から “ 父の故郷である長崎 “ が一掃されたあとだった。
「教会なら、ここにだってある。 駅前にあったろ? 三浦町教会 」
達也は、ガイドブックの地図を指さした。
「聖心天守堂っていうんだよね、本当は。 戦争中はスパイの疑いをかけられたり、空襲の標的にならないようにって、真っ黒に塗られたりしたって、どこかに書いてあったよ 」
「地元の俺より、おまえの方がくわしいなんて 」
「車、借りていい? 」
「いいよ。 どうせ、そのつもりで来てるんだろ? 」
気のいい達也は快く承知した。
長崎は、車がないと不便だ。
長崎市内と佐世保、大村湾に突き出した、海上空港の長崎空港、佳乃が行きたがっているハウステンボスと、ポイントは点在している。
更に、熊本県の天草にいくつかある教会を訪れるつもりなら、長崎市郊外の茂木港からフェリーで、富岡港まで渡らなければならない。
どちらにしても、車が必要だ。
「休みないの? 行こうよ、一緒に、天草 」
ひとりっ子の千郷は、子供の頃、5歳年上の達也によくなついていた。
「ダメ、今は忙しい。 ヒマな大学生の観光案内なんかしてられない 」
達也は、言葉に反した優しい笑顔でビールを飲んでいる。
「彼女、来るんだろ? いいじゃないか? 」
からかわれて、千郷はムッとした。
「せっかく佐世保に来たんだから、資料館に行ってごらん 」
「資料館? 」
「旧海軍関係の資料が集められてる 」
「戦争の? 」
「うん。日清、日露、太平洋戦争、いろいろだよ 」
千郷は、気乗りしない顔をした。
「やっぱり一度、見た方がいい。せっかく佐世保に来たんだから。 資料館と針尾の無線塔ぐらいは 」
千郷の手からガイドブックを取り上げ、達也は、3本の尖塔がそびえる写真を示した。
それは、観光名所の西海橋の向こうに見える、旧海軍の送信塔だった。
「不気味だよね、これ。 でも見てみたいな 」
千郷の目に、その写真が灼きついた。
「やっぱり、一度見なきゃ。 何てったって、 じいさんの歴史があるんだから、海軍には・・ 」
「そうか、おじいちゃん、海軍だったよね 」
東京の家で、居心地悪いくせに、決してそれを認めないというように、主人の顔でいばっている祖父。
気むずかしそうな顔の祖父を思い浮かべた。
「戦地には行かなかったらしいけどね 」
「ふーん 」
「じいさんの写真もあるんじゃないかな 」
「え? ホント? 」
「海軍兵学校の生徒の写真とか、貼ってあるんじゃないか? 一番最後の生徒だって、母さん、言ってたよ。 もう戦争も終わり頃。 確か、終戦の年に入ったんだ 」
終戦の年。 昭和ニ十年。
「今から、四十七年前か ・・何だか、夢みたいに遠いよね 」
千郷はつぶやいた。
実感がなかった。
「長崎県内には、たくさん戦争のあとが残ってる。佐世保の街もそうだ。それにここには、基地があるしね 」
達也の住むマンションは、佐世保市の山側の高台にあった。
瞬き始めた港の灯りが、ここからはよく見える。
佐世保基地に停泊中の、船の灯りだろうか。
眼下に広がる街のネオンは、驚くほど美しかった。
「夜景がきれいだね 」
千郷は、ベランダの手すりにもたれて、その輝きに目を奪われた。
「でも基地の街だよ 」達也は言った。
「だけど今は、観光の街か。 ハウステンボスがあるもんね 」
千郷は言いながら、資料館に行ってみようと思い始めていた。
祖父の遠い過去を見に行く。
教会建築よりも、心惹かれるものが、そこにはあった。
第 2 話に続く・・・
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