彼の時刻を止めて

4/33
前へ
/33ページ
次へ
第 1 話        1  羽田から乗った、長崎行きの新型の飛行機は、満席の状態だった。  芳賀千郷(はがちさと)は、狭いシートにゆったり座ることもなく、ずっと身体を乗り出して、小さな窓から見える風景に見惚れていた。  千郷は、空から見る地上の景色が好きだった。  山々の連なりの微妙な起伏。  海と陸地の絶妙の境界。  小さな箱のような家が並ぶ街と、蟻のような速さで走り回っている車たち。  そして、時々、銀色に輝く翼。  それらの光景は、見飽きることがなかった。  羽田をたって、 1時間50分。  飛行機は、長崎大村空港の上空に達した。  海上空港のせいで、気流が悪く、機体は少し揺れたが、無事に着陸し、満席の客が降り立った。  長崎は、思っていたほどは暖かくなくて、海からの風が肌を刺した。  路線バスに乗り換え、佐世保に向かう。  佐世保には、小沢達也がいる。  達也は、父の妹の子、つまり、千郷にとっては、父方の従兄弟にあたるわけだ。  大学を卒業して、佐世保市内の薬品関係の会社に勤めていた。  その達也のワンルームマンションを、当てにしてきたのだ。    千郷を乗せたバスは、オープンしたばかりのオランダ村ハウステンボスへ行く車で、混雑している国道を、佐世保へ向かっていた。  観光バスも多く、長崎県内はすでに観光シーズンに入っていた。  それでも、2泊3日のツアー客と比べたら、時間の自由になる大学生の千郷は、ずっとゆっくりできる。  今回も大学が始まる、4月9日頃までに、東京へ戻ればいい。      千郷はまだ、何も知らないに等しかった。  自由気ままで、気楽で、男のくせに少し感情のもろい、ただの大学生にすぎない。  自分を取り巻く社会の状況が、見方を変えれば、どんなに危うい均衡の上に成り立っているか。  時代は、いつでも最も弱い普通の人々を押しつぶしてしまうこと。  歴史は、複雑にからみあって、解きほぐす術もないまま現在に至っていることも。    彼は、何ひとつ知らなかった。  知る術も、知る必要もなく。  最も一般的な、最大公約数的な若者であるだけだった。  むろん、そのことは罪ではない。  だが、この春、千郷は知ることになる。  自分が、長い歴史の中の一瞬、無数の人々の思いを負って、生かされているのだということを。  平成四年三月三十一日。  それでも、今はまだ、ただ、気まぐれにこの地を訪れた、観光客のひとりにすぎなかった。       2  あのとき、なぜ “長崎“ という地名が浮かんだのだろう。  長い春休みの計画は、いく通りもたてられたはずなのに。  どうして、長崎だったのだろう。  あとから千郷は何度も自分の心に問うてみた。  大学の建築学科には入ったものの、どの講義にも興味を持てずにいた、千郷の心をとらえたのが、唯一 “日本の教会建築 “ だったこと。  だから、長崎や天草の各地に点在する教会を、その目で見たかったことが、理由といえないこともない。  自分はもちろん、家族の中にだって、クリスチャンがいるわけではなかった。  テレビの、旅行番組で見た程度にすぎない。  そういえば、去年のクリスマス、ガールフレンドの本村佳乃に、無理矢理引っ張って行かれた、クリスマスミサの時に、のぞいたことかあるくらいだった。  それなのに、何故か教会を見たくなった。 ——案外、佳乃なんかより、僕の方がロマンチストなのかもしれない ——  長崎行きを話すと佳乃は、 「私、ハウステンボスに行きたい 」と、言った。  言い出したらきかない佳乃に押し切られるように、千郷は承知した。  ただし、現地集合。  初めから、彼女を連れてくれば、結局ディズニーランドのデートと変わらなくなってしまう。  そう思って、千郷は一足先に長崎へやってきた。  佐世保に泊まることにしたのは、達也がいたからだ。  4年ぶりに会った達也は、すっかり社会人が板について、5歳という年齢差よりも、もっと大人を感じさせた。  案外、こぎれいなマンションの部屋で、それぞれの近況を報告し合って、一段落すると達也が切り出しにくそうにたずねてきた。 「おじいちゃん、元気? 」 「うん、元気、みたいだよ。あんまり話さないけど 」  3年前、父が祖父を東京へ引き取った時、 達也の両親である、小沢家と一騒動あったのは知っていた。  受験で頭がいっぱいだった千郷の耳にも、佐世保の芳賀家や祖父のこれからについて、繰り返される会話がとびこんできた。  長男である父は、佐世保へ戻るつもりはまるでないようだった。  祖父の意思は無視された形で、東京の家で同居することになったのだ。 ——犬や猫じゃあるまいし、そんなに簡単に決めていいのかよ ——  その時、千郷は心の中で反発したものだ。  達也も、もめごとを嫌って家を出て、一人暮らしを始めていた。 「少しは、東京にも慣れたみたいだよ 」  千郷は、手渡された2本目の缶ビールを空けた。 「そうか、ならいいんだ 」  あの一件では、両親らの対応に腹を立てた千郷だったが、家にやってきた祖父に対しては、どう接していいのか戸惑うことばかりだった。  妙に口うるさく厳格で、プライドばかり高く、誰も聞きたがらない遠い昔の話をしたがった。  結局、千郷はうしろめたさを感じながらも、祖父との距離は広がる一方だった。    春休みに長崎へ、佐世保へ行く。  そう思った時、浮かんだのは “ 教会 “ ではなく、本当のところは、祖父の顔だったかもしれない。  それも、東京で気むずかしい顔をして、けむたがられている祖父ではなく、千郷がかすかに覚えている、遠い日のいなかの家にいた頃の祖父の笑顔だ。  長崎に、佐世保に行きたい。  だんだん強くなってきた、その想い。  父が捨てた故郷。  そして、祖父が捨てざるを得なかった故郷。  長崎佐世保は、多分、千郷にとっても特別な土地なのだ。       3 「どこか、見たいところある? 」  達也がたずねた。 「うん、教会かな。 見たくて来たんだよ。 天草か、長崎市内かな、やっぱり・・ 」  千郷は、東京から持ってきたガイドブックを見ながら言った。  佐世保にいなかがあるといっても、ずいぶん小さい時の記憶しか、千郷にはない。  その家も今は形もないのだ。  観光の街、長崎というイメージは、千郷の中から “ 父の故郷である長崎 “ が一掃されたあとだった。 「教会なら、ここにだってある。 駅前にあったろ? 三浦町教会 」  達也は、ガイドブックの地図を指さした。 「聖心天守堂っていうんだよね、本当は。 戦争中はスパイの疑いをかけられたり、空襲の標的にならないようにって、真っ黒に塗られたりしたって、どこかに書いてあったよ 」 「地元の俺より、おまえの方がくわしいなんて 」 「車、借りていい? 」 「いいよ。 どうせ、そのつもりで来てるんだろ? 」  気のいい達也は快く承知した。  長崎は、車がないと不便だ。  長崎市内と佐世保、大村湾に突き出した、海上空港の長崎空港、佳乃が行きたがっているハウステンボスと、ポイントは点在している。  更に、熊本県の天草にいくつかある教会を訪れるつもりなら、長崎市郊外の茂木港からフェリーで、富岡港まで渡らなければならない。  どちらにしても、車が必要だ。 「休みないの? 行こうよ、一緒に、天草 」  ひとりっ子の千郷は、子供の頃、5歳年上の達也によくなついていた。 「ダメ、今は忙しい。 ヒマな大学生の観光案内なんかしてられない 」  達也は、言葉に反した優しい笑顔でビールを飲んでいる。 「彼女、来るんだろ? いいじゃないか? 」  からかわれて、千郷はムッとした。 「せっかく佐世保に来たんだから、資料館に行ってごらん 」 「資料館? 」 「旧海軍関係の資料が集められてる 」 「戦争の? 」 「うん。日清、日露、太平洋戦争、いろいろだよ 」  千郷は、気乗りしない顔をした。 「やっぱり一度、見た方がいい。せっかく佐世保に来たんだから。 資料館と針尾の無線塔ぐらいは 」  千郷の手からガイドブックを取り上げ、達也は、3本の尖塔がそびえる写真を示した。  それは、観光名所の西海橋の向こうに見える、旧海軍の送信塔だった。 「不気味だよね、これ。 でも見てみたいな 」  千郷の目に、その写真が灼きついた。 「やっぱり、一度見なきゃ。 何てったって、 じいさんの歴史があるんだから、海軍には・・ 」 「そうか、おじいちゃん、海軍だったよね 」  東京の家で、居心地悪いくせに、決してそれを認めないというように、主人の顔でいばっている祖父。  気むずかしそうな顔の祖父を思い浮かべた。 「戦地には行かなかったらしいけどね 」 「ふーん 」 「じいさんの写真もあるんじゃないかな 」 「え? ホント? 」 「海軍兵学校の生徒の写真とか、貼ってあるんじゃないか? 一番最後の生徒だって、母さん、言ってたよ。 もう戦争も終わり頃。 確か、終戦の年に入ったんだ 」  終戦の年。 昭和ニ十年。 「今から、四十七年前か ・・何だか、夢みたいに遠いよね 」  千郷はつぶやいた。  実感がなかった。 「長崎県内には、たくさん戦争のあとが残ってる。佐世保の街もそうだ。それにここには、基地があるしね 」  達也の住むマンションは、佐世保市の山側の高台にあった。  瞬き始めた港の灯りが、ここからはよく見える。  佐世保基地に停泊中の、船の灯りだろうか。  眼下に広がる街のネオンは、驚くほど美しかった。 「夜景がきれいだね 」  千郷は、ベランダの手すりにもたれて、その輝きに目を奪われた。 「でも基地の街だよ 」達也は言った。 「だけど今は、観光の街か。 ハウステンボスがあるもんね 」  千郷は言いながら、資料館に行ってみようと思い始めていた。  祖父の遠い過去を見に行く。  教会建築よりも、心惹かれるものが、そこにはあった。 第 2 話に続く・・・
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加