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第 6 話
1
昭和二十年。
加納敬吾の母方のいとこ、岩崎優一郎が、母艦の佐世保帰港のために、実家のある長崎にもどってきているという。
優一郎は、敬吾とは六歳違いの二十二歳。
男兄弟のいなかった敬吾が、小さい時から、後ろ姿を追うようにして育った幼なじみの、
いとこである。
朝、稲佐山を出た敬吾は、昼前には浦上の優一郎の家に着いた。
古い石畳の急な階段を昇りきったところに、壮麗な岩崎家はあった。
子供の頃、よくこの石段を駆け上がって転び、顔にひどい傷を作ったりしたことを、敬吾は思い出した。
いつも、そばに優一郎がいた。
格子戸を開けて、中に声をかけた。
「ごめんください! あの、敬吾です 」
「はーい 」
女の声が応えたが、磨き込まれた廊下の
奥から現れたのは、優一郎その人だった。
「よお! 」
敬吾の目の前に、スラリとした長身の優一郎が立っていた。
白いワイシャツに、紺のズボンという、くつろいだ服装。
顔の中で一番印象的なのは、切れ長の涼しげな目だ。
笑うと、それは思わぬ優しさを見せ、真っ白な歯がまぶしい。
「お久しぶりです 」
「元気だったか? まあ、上がれ 」
優一郎に促されて、靴を脱ぎかけた敬吾に、
「あら、やっぱり敬ちゃんだったのね 」と、優一郎の母の恭子が声をかけてきた。
海軍大佐だった優一郎の父は、遠い南方の海戦で亡くなり、優一郎は母ひとり、子ひとりだった。
今は、その優一郎も船に乗っている。
「ご報告があって来ました 」
洋風の卓をはさんで向かい合い、改って敬吾は切り出した。
「ん? 」
「針尾に、行くことになりました 」
敬吾の言葉に、優一郎も居ずまいを正した。
「そうか、合格したのか・・ 」
「はい 」
当時、本校を広島県呉の江田島に置いていた海軍兵学校の分校として、佐世保市郊外の針尾島に針尾分校が開校された。
昭和二十年三月、第七十八期生の合格発表が行われた。
「敬吾もいよいよ、海軍予科生徒だな 」
少年たちの十人に九人までが、大きくなったら、” 海軍さん “ になりたい、と答える時代だった。
まして、敬吾にとっては、優一郎という人生の指針になるべき人がいたのだから。
合格は、一生の名誉ともいうべき出来事だったのだ。
2
敬吾の海軍兵学校入校を、岩崎家で祝ってくれることになり、再び長崎に優一郎を訪ねた。
午後から、優一郎の母、恭子がこころを込めた手料理で祝いの膳が始まった。
「うまそうですね 」
敬吾は、思わず声を上げた。
「よく、これだけ材料が集まりましたね 」
優一郎も感嘆した。
三人きりの祝宴だったが、少しも寂しくはなかった。
「ごめんください 」
細い声が、玄関の戸が開く音のあとに聞こえてきた。
「はい 」
優一郎が立って行った。
「おじゃまします 」
小さな声が、優一郎の身体の後ろからした。
「敬吾、日野史子さんだ 」
畳に手をついていたそのおんなが顔を上げた。
線の細い色白の美人だった。
「いとこの敬吾です 」
優一郎に紹介され、あわてて頭を下げた。
「加納敬吾です 」
それ以上、優一郎は詳しく彼女について語らなかった。
—— 優一郎さんの恋人・・だろうか? ——
「この度は、おめでとうございます。あの、何もなくて、とりあえずつまらないものを持って来てしまいました 」
史子という人は、脇に置いた包みをほどいて、小さな箱を敬吾の前に置いた。
もう長い間見ていない、カステラの箱だということが、敬吾にはすぐわかった。
菓子類は統制品になっていたし、カステラなどは敬吾たちの口には入らない高価な品になってしまっていた。
それを持参したことで、史子という人の家の豊かさが想像できた。
「よく、こんなものが、今どき・・ 」
恭子は、その箱を推しいただくようにして受け取った。
「すぐに切りましょうか? それとも敬吾さん、持ってかえる? 」
「いえ、あとで、みんなでいただきましょう 」
敬吾は言った。
史子も交えて、四人で食事をした。
せっかくの料理だったが、史子が気になって、敬吾は落ち着かなかった。
年頃の若い女性と、一緒に食事をしたことなどなかった。
それも、優一郎の恋人ともなれば、緊張して、料理も喉を下りて行かない。
優一郎と史子が並んでいる姿は、まるで
揃いの雛人形を見ているようだった。
「敬吾、何をぼんやり見ている? 」
急に優一郎が言った。
「え? いえ・・何でもありません 」
「史子さんに見惚れていたのか? 」
「違います! 」
敬吾は、顔が紅くなるのがわかった。
優一郎とも思えぬ冗談が、少し不快だった。
史子と優一郎が、目を見合わせたのも気に入らない。
ふいに、敬吾は腹が立ってきた。
「ごちそうさまでした。 僕はもう帰ります 」
失礼なのを承知でそう言い、立ち上がった。
「何だ? まだいいだろう。ゆっくりしていきなさい 」
優一郎は優しく引き止めたが、敬吾は首を振った。
「ごちそうさまでした。 美味しかったです。 今日はありがとうございました 」
大人げない態度だとわかっていた敬吾は、恭子に頭を下げ、玄関へ向かった。
「送って行くよ 」
「いいです 」
敬吾は、追って出てきた優一郎の申し出を断った。
「何を怒っているんだ? 」
優一郎はその名の通りの優しい目で、敬吾の顔をのぞき込んだ。
「怒ってなんかいません 」
子供じみた態度だと思いながら、優一郎に対してはいつも、こんな風に甘えてしまう。
「とにかく、一緒に行くから、待ちなさい 」
優一郎はそう敬吾に言ってから、部屋に戻った。
「史子さん、すみませんが、あいつを送って行きます。用事もあるので、今日はこれで 」
優一郎の声を、敬吾は玄関で聞いていた。
しばらくして出て来た時は、海軍士官の軍服に着替えていた。
「お元気でね、敬吾さん 」
史子が玄関に顔を見せ、声をかけてきた。
「はい 」
敬吾は素直に頭を下げた。
岩崎家を出て、歩き出してからも、敬吾はすねているようだった。
「まだ怒っているのか? 」
「もう怒っていません 」
敬吾は心を解いた。
見慣れた石畳の坂道を歩く間、今度は優一郎が無口になった。
いつもと同じように、敬吾は優一郎より一歩退がって歩いた。
長身の優一郎の後ろ姿を、敬吾はずっと見つめて歩くのが好きだった。
長い脚を規則正しく運ぶ、凛々しい優一郎の軍服姿に憧れていた。
敬吾の知る軍人の中で、最も士官にふさわしい優一郎だが、クリスチャン である彼は、軍人らしいと言われることをうとましく思っているようだった。
軍人でありながら、軍隊と戦争に批判的である優一郎は、クリスチャンであることであらゆる嫌がらせを受けながら、更に隊内では異端として孤立していた。
そんな優一郎に対して、強い非難と羨望がない混ぜにになったような激しい想いを、敬吾は時々押さえられなくなるのだ。
決して、人と争うことをしない穏やかな優一郎だった。
まして、誰かの命を奪うことなど、できるはずもない。
何のために戦うのか?
誰のために戦おうとするのか?
その問いは、いつか自分自身の問いになりそうで怖かった。
優一郎のようになりたい、といつも思ってきた敬吾だった。
「敬吾 」
「はい? 」
「好きな女性はいるか? 」
突然、優一郎が足を止めそう言ったので、敬吾は彼の背にぶつかりそうになって立ち止まった。
「いません! 」
異性を意識させるような女性は、敬吾の周りにはまだいなかった。
何より、幼い頃から、敬吾の憧れと思慕のすべては、優一郎へのものだった。
「優一郎さんの好きな人はあの女ですか? 」
優一郎はかすかに笑っただけだった。
市電に乗らずに、省線の駅まで歩くことにした。
駅まで歩こうと言ったのは、優一郎の方なのに、大波止桟橋の方に向かっている。
「どこへ行くの? 」
「船を見に行こう 」
「客船でしょ? つまらないよ 」
「そうか、敬吾は客船は嫌いか? 」
「やっぱり軍艦がいいな。優一郎さんの
乗る駆逐艦や、 “ 飛龍 “ のような・・ 」
言ってから、そうだ “ 飛龍 “ は、
ミッドウェイ開戦で既に失われたのだ、と思い出して敬吾は黙った。
港が近づくにつれて、人通りが多くなっている。
トラックが敬吾の脇をすり抜けようとして、かん高いクラクションの音を響かせた。
優一郎の腕が、さりげなく敬吾をかばうように引き寄せた。
船客待合室に、優一郎は先に立って入って行った。
「これから福江に行かなければならない 」
「福江って・・五島の? 」
「そうだ。一緒に行くか? 」
優一郎の誘いは思いがけなかった。
敬吾は五島はおろか、大村湾内や、長崎の近くの島へも渡ったことがない。
今までで一番の遠出は母と、佐世保の海兵団へ優一郎の乗る駆逐艦 “ 朝霜 “ を見に行った時だ。
「公務じゃないんですか? 」
「公務だよ 」
優一郎は、子供っぽい笑顔を見せた。
「それじゃあ、僕は・・ 」
「すぐに終わるよ。そのあとは少しゆっくりできる 」
優一郎の穏やかな表情の中で、その涼しい目もとだけは、妙に真っすぐに敬吾の心をとらえて、身動きできなくさせた。
—— 優一郎さんは、僕に何かを言いたがっているんだ ——
ふいに、敬吾はそのことに気がついた。
大切な話があるから、とは優一郎は言わないが、ただの船旅というわけではなさそうだった。
—— 断れない・・ ——
それより何より、初めて見る五島福江島に、優一郎と共に渡るということの魅力に、勝てるものはなかった。
「でも・・優一郎さんの家にちょっと行って来ると言って出ただけだし・・心配します 」
「僕があとで謝っておくよ。少し・・ゆっくり、おまえと話もしたいし・・ 」
それでもまだ、形だけの戸惑いを見せる敬吾の心を見抜いたように、彼らしくない強引さで、優一郎は五島行きを誘った、
優一郎と遠出をしたことはなかった。
公務とはいえ、優一郎とふたりで船に乗り、
何処かへ行くということは、敬吾にとっては たまらない魅力だ。
「どうした? まだ迷っているのか? 」
「邪魔になりませんか? 」
「邪魔なら誘いはしない 」
きっぱりと優一郎は言った。
公務と優一郎は言ったが、一般乗客の列に並んだ。
戦局が深刻化するにつれて、離島航路はことごとく閉鎖され、かろうじて残った五島航路は、人であふれかえっていた。
都市部よりもまだ田舎の方が食糧が有るという、無責任な噂につられた買い出しの人波の中に、軍服姿も多かった。
海軍士官の第一種軍装の凛々しい優一郎の姿は、人目を引くようで、兵隊たちは立ち止まって敬礼した。
その度に、優一郎は返礼したが、どこか人目を避けている風でもあった。
それでも、凛々しく美しい優一郎と肩を並べていることで、敬吾は誇らしかった。
とりたてて軍国少年というわけでもなかったが、優一郎は、敬吾の誇りだった。
乗船開始の合図があり、ふたりは人々の群れに押されるように、船に乗り込んだ。
船内は、人々がひしめき合っていた。
どの顔も憂鬱そうで、疲れて見えた。
ふたりは、混雑を避けてデッキへ出た。
満載した人々を乗せて、船は大波止桟橋を出港した。
春はまだ浅く、海の風は身をさすようにつめたかった。
ゆっくり話したいと言った優一郎は何も話さなかった。
湾内を出て左手に伊王島が見えるあたりまで来ると、小さな客船は波にもまれ、揺れ始めた。
「寒くないか? 」
「いいえ、大丈夫です 」
風に帽子を飛ばされないように、優一郎は手に持っていた。
「中へ入ろうか? 風邪をひかせては大変だ 」
優一郎は言ったが、敬吾は中の人混みに戻るのは気が進まなかった。
—— もう少し、こうして優一郎さんと、海を見ていたい・・——
ふりむくと、長崎の街が広がって見える。
米軍による本土への爆撃も本格化していて、去年の八月に、長崎に初めて空襲があった。
戦いの行き先は、誰にも見えていないようだった。
敬吾はただせきたてられるような気持ちで、海軍兵学校への入校を望んでいた。
優一郎のように。
—— 僕は、この美しい国を守るために戦おう ——
敬吾の目の前には、深い群青の海があるばかりだったが、遥か後方には、愛する人たちの住む街があった。
—— そして、この人のために。そのためなら、この命は惜しくない・・ ——
敬吾は長いこと、優一郎の端正な横顔を見ていた。
昭和二十年四月四日。
春はまだ浅く、肌寒い風の中で、敬吾は自分の運命に何ひとつ希望を見つけられなかった。
たったひとつ、この優一郎を除いては。
第 7 話 に続く・・・
◎注釈
初出、角川文庫では、岩崎優一郎が乗船した戦艦を “ 飛龍 “ としましたが、” 飛龍 “ は、
昭和17年、ミッドウェイ海戦で撃沈されており、今作では “ 朝霜 “ に変更して記載しております。
原田千尋
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