彼の時刻を止めて

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第 7 話       3  港に着くと、国民服の若い男と平服のいかにも役人のような中年の男がいた。 「お疲れでしょう? 岩崎中尉殿 」  役場から言われて迎えに来た男だった。  軍人と見れば愛想をふりまく、この手の男は、優一郎の一番苦手な部類の人間だ。  それがわかっているだけに、敬吾は心配そうにやり取りを見ていた。 「こちらは、弟さまで? 」 「いえ、従兄弟です 」  敬吾は、黙って頭を下げた。 「本日は、ご公務と伺っておりましたが 」  男の目が意地悪そうに光ったのを、敬吾は見逃さなかった。 「これは、海軍兵学校に行くことが決まり、自分としては、その前に軍人の心得を話しておきたいと思いまして 」  優一郎はすらすらと答えた。 「それはそれは、ご苦労さまなことで」  男はもみ手せんばかりだった。 「トラックを借りて、島内を回ります 」  優一郎が言うと若い男は敬礼して、停めてある車の方へ走って行った。 「どこからご案内しましょう? 」  男の言葉をさえぎって、 「それにはおよびません 」ときっぱり断った。 「は? 」 「あの者だけで充分です 」  口をあんぐり開けた男を置いて、優一郎はさっさと車へ向かって歩き出した。  敬吾は男に頭を下げてから、あわてて優一郎のあとを追って、トラックに乗り込んだ。  3人座ると、ぎっしりで狭苦しい上に、古いトラックは揺れ通しだった。  先ほどの役人のような小太りの男がいなくなってからは、若い男は緊張を解いたようだった。  従兄弟を連れて来ているということで、公務というのはどうせ口実で、観光気分でやって来たのだろうと思って、少しホッとしたのかもしれない。 「今年は、冬が長くてね・・桜の花が遅いんです 」  それでも、五分咲きといった桜の樹が、島のあちこちに匂い立つように咲いていた。 「どちらへ? 」  小さな市街地を抜け、分岐にさしかかった時に、運転していた男がきいた。 「堂崎の天主堂、わかりますか? 」  優一郎が言うと、けげんそうな顔になった。 「堂崎って・・あの教会ですか? 」  男の心の戸惑いが出ていた。  多分、優一郎のことを、特高か何かだと思ったのだろう。  男は急に無口になった。  軍の人間を乗せて案内する不運を嘆いているようだった。  クリスチャンの多いこの福江島はすでに、軍の弾圧を受けている。  これ以上、何を探りに来たのだろう、という腹立たしさが、押さえても男の目に現れていた。 「僕はクリスチャン です 」  優一郎は、男を安心させるように言った。  “ 自分 “ から “ 僕 “ に変わっている。 「え? 」  男があわててブレーキを踏んだのか、トラックはガクンと止まってしまった。 「すみません 」  男は、トラックのエンジンをかけ直した。  やっぱり特高に違いない。  海軍士官でクリスチャン のわけがない。  男の心の動きが、敬吾にもわかった。 「軍人で、洗礼を受けているのは、おかしいですか? 」 「い・・いいえ・・ 」 「僕の母も、クリスチャン です。父は戦死しましたが、亡くなるまでクリスチャン でした 」  優一郎は穏やかにそう言った。  男はびっくりしたように優一郎の横顔を盗み見て、またあわてて前方を見るという落ち着きのなさだ。 「僕は、好んでこうしているわけではありません。今の僕は、仮の姿だと思ってください 」  優一郎の言葉に、男も敬吾も驚いた。  敬吾は、優一郎の上着の裾を引っ張った。 —— もしも、この男が、密告者だったら? ・・——  あまりに無防備な優一郎が、敬吾を不安にさせた。 「着きました、あれです 」  波の音だけが聞こえる静かな入江に、海に向かうように赤レンガの教会が、建っていた。 「堂崎天主堂です 」  優一郎を見る男の目には、さっきとはうって変わって、深い畏敬の念がこめられているようだった。  優一郎と敬吾はトラックを降りて、天主堂の方へ歩いて行った。  男は、車の中に残った。  入江は静かで、空気が張りつめている。 「美しい教会ですね。長崎のものより古そうだけど 」  敬吾は自分の声が、水に共鳴して響くような気がした。  波うち際に近づき、敬吾は海の中に手を入れてみた。 「何だか不思議な色だ・・見たこともない・・緑とも青とも言えない・・ 」  雲が風に流され陽をさえぎる度に、海は目の前で複雑に色を変えて行く。 「南方の海の色だよ。珊瑚礁の海は、たいていこんな色をしている 」  優一郎の言葉は敬吾に、見たこともない熱帯のジャングルや、 極彩色の魚が泳ぐ透明な海を思い描かせた。       4 「入校式はいつだ? 」 「四月七日です 」  二十人にひとりの難関を突破して、海軍兵学校に合格した時、 まず最初に思い浮かべたのは、父母よりも優一郎の顔だった。 —— 優一郎さんは、自分のことを誇りに思ってくれるだろうか・・ —— 省線を乗り継いで岩崎家を訪ねたのも、帰還している優一郎に喜んでもらいたかったからだった。 「桜の花・・満開になっているといいな・・ 」  今年は、さっきトラックの男が言ったように、いつもの年よりいつまでも肌寒く、桜の開花が遅れていた。  この時期、暖かい長崎や福江でも、まだ五分咲きというのは珍しいことだった。 「私も見たかったな・・ 敬吾の晴れ姿を・・ 」  優一郎が、つぶやいて、桜の樹の幹を軽く叩くと、敬吾の髪に薄い桃色の花びらが落ちた。 「見に来てください。僕も鼻が高いです 」  優一郎が士官用の第一種軍装で、父兄席に並んだ姿を思った。 「これでやっと、敬吾のお守り役から解放されるんだ。行かない方がいいだろう 」  優一郎は、白いきれいな歯並びを見せて笑っていた。  まぶしかった。 「乗艦ですか? 」 「不思議だな。私も同じ日だ。四月七日、出港する・・ 」   優一郎はまた行ってしまう。 —— そして自分は、優一郎さんのあとをたどるように、海軍兵学校に入校するのだ・・—— 「今度は、どっち方面に行かれるのですか? やっぱり、また南方ですか? 」  優一郎が朝霜の甲板で、白い手袋をはめた手を振るところを見たいと思う。 「特秘・・ 」  そんな言葉は優一郎にふさわしくない。  いつでも彼は、軍人らしくない。  彼はいつも、岩崎優一郎というただひとりの人間であろうとしていた。  幼い頃から、敬吾はそのことに気づいていた。  気づいて、幼いながらも、優一郎の理解者であろうと努めてきた。 「今度はいつ戻ってくるのですか? 」 「さあ・・ 」  優一郎は、敬吾から目をそらさずに言った。 「多分、もう戻ることはないだろう 」  冗談だ、とは言えない時代だった。  敬吾の周りでも、くしの歯が欠けるように 男たちの姿は消えて、出征の赤紙と戦死公報が交互に届けられていた。  言葉を失った敬吾を見つめながら、優一郎の顔は微笑を消していなかった。 「これが最期の航海になるはずだ 」 「嫌です! 」  思わず声が出ていた。  敬吾自身が驚いた。 「敬吾・・ 」  優一郎の手が、敬吾の肩に置かれた。  静かでありながら、断固とした強さを持った手の重み。  優一郎の意思、そのもののように。 「死ぬんですか? 優一郎さんは・・あなたがずっと否定してきた、軍人らしく、立派に・・ お国のために死ぬんですか?・・ 」  あたりはばからない敬吾の声も、教会のあるこの入江では、ただ目の前の海に吸い込まれていくようだった。 「武運を祈ってはくれないのか? 」  敬吾は答えなかった。 「元気で・・ 」  さし出された優一郎の右手を、敬吾はじっと見つめていた。 「母とあの人を頼む 」 —— 史子さんのことを?・・ —— 「できません! 」 「敬吾! 」  敬吾は首を振りながら叫んだ。  身体が震え出しそうだった。 「そんな冷たいことを言うな。おまえしか頼める奴はいないんだ 」  なだめるように優一郎は言った。 「だめです。何故なら、僕もすぐに行くからです。あなたのあとから・・ 訓練が終わったら、すぐに・・ 」 「敬吾・・この戦争はもうじき終わる・・ 」  少しだけ、声を落として優一郎はつぶやいた。  優一郎の表情は一転して厳しかった。 —— 優一郎さんが話しておきたかったのは、このことだったのか・・ —— 「嘘です 」 「嘘じゃない。もうすぐ・・きっと。おまえにもわかっているはずだ。だから、おまえは生き延びるんだ、絶対に! 」  一度にいろいろなことを聞かされて、敬吾は混乱していた。 「それじゃあ、優一郎さんは・・何故? 」  優一郎は、無駄死にするつもりなのか。 「私は行かなければならない。それが私の役目だから・・ 」 「役目? 」 「おまえは、生きて・・この戦争の最期を見届け、生き延びて・・  生き残った人たちを助けて、この国を建て直せ。それがおまえたちの役目だと思えばいい・・ 」  優一郎の目に再び、穏やかな優しさが戻っている。 「僕に、卑怯者になれと言うのですか? 」  敬吾は怒りを抑えて、静かに言った。 「そうじゃない。生き残って、誰かが伝える。そのことも大切だ 」  優一郎の言葉には納得できなかったが、敬吾はそのことよりも、優一郎が死ぬかもしれないという恐怖で、身動きできなくなってしまっていた。 「そうだ、おまえにこれをやろう 」 優一郎は、左手首からロンジンの腕時計をはずした。 「ほら・・ 」 優一郎の手のひらに、それがのっていた。 「え? 」 「おまえにやる。いつも欲しがっていたじゃないか? 」  高等学校の入学祝いに、優一郎がもらったその時計がうらやましかった。  黒い本革ベルトの銀時計をはめた優一郎が、急に大人になってしまったように思えたものだ。  あの時の、置いてきぼりにされたような心細ささえ、敬吾ははっきり覚えていた。 「これを僕に? 」 「質になんか入れるなよ 」  敬吾は、優一郎が左手に時計をはめてくれるのを、ぼんやり見ていた。  形見、という言葉が何度も浮かんで来て、息が苦しくなるのだった。 「一度、分解掃除した方がいいな。少し遅れるみたいだから・・ 」  敬吾は時計をはめた手を、陽にかざして眺めた。 「これも・・おまえにやろう・・ 」  次に優一郎がポケットから出したものは、 小さな銀色のメダイだった。  楕円形のそのメダイには、小さなマリア像が浮き彫りにされている。  両手を広げ、微笑んでいるマリアのメダイを、敬吾は受け取り握りしめた。  敬吾も確か、教会の日曜学校でもらった覚えがある。  クリスチャンでもないくせに、敬虔なクリスチャンだった優一郎一家にくっついて、毎週日曜日には教会のミサに通っていた。  その時にもらったものは、敬吾はすぐに失くしてしまった。 「私の代わりに、きっと敬吾を守ってくれるだろう 」  敬吾は、この時初めて、クリスチャン でなかったことを後悔した。  何日か後には死地に(おもむ)くというのに、あとを託す者たちに、 これほど穏やかな広い気持ちを持てる優一郎の心が自分には理解できないと思ったからだ。  クリスチャンであるために、士官学校の時も軍隊内部でも、孤立していたという話をきいていたのに。  優一郎のその姿にさえ、敬吾は憧れた。 「そろそろ行かないと、船が出てしまうな 」  優一郎はそう言いながら、動かなかった。 陽が山の向こうに落ちかかっている。  目の前の入江はまた不思議に色を変えた。 「きれいだ 」  敬吾は思わずつぶやいていた。  緑からブルー。  ブルーからもっと複雑な青へ。  青から藍へ。  そして更に深い群青へと色を変えていく。 「この国は美しい 」  優一郎の低いつぶやきに、敬吾は目を閉じた。  閉じたまぶたが震え、涙がとめどなく流れた。  優一郎は泣いてはいなかった。  ただ、その名の通りに優しく、穏やかに微笑むばかりだった。 「もう一度、おまえとここへ来たかったな。 もっとゆっくりと・・話したいことがまだたくさんあるような気がするのに・・ 」   敬吾の髪に散った桜の花びらを取ってやり、そのふたひらを胸のポケットから出した真っ白なハンカチを開いて、大切そうにしまったのを、敬吾は見てしまった。 —— まるで、形見だと言うように? ・・——  敬吾に気づかれたと知り、少し照れくさそうに微笑んで、  優一郎は振り向かずに歩き出した。 「きっと! 帰ってきてください! 」  拳で涙をぬぐい、敬吾は優一郎の背中に向かって叫んだ。 「無理を言うな・・おまえは、いつも・・ 」  優一郎の言葉が、敬吾の胸の奥深くまで浸みてくる。  時代という理不尽な大きな力が、優一郎と敬吾を押し流そうとしていた。 —— この人を失くしてはならない。何があっても、この人だけは失ってはならない・・——  憧れも、後悔も、そして哀しみも、全てが 優一郎へ向かっている。  激しい想いが渦巻いて、その感情の波が敬吾をも呑み込んでしまいそうだった。 「さあ、行こう。船が出てしまう 」  優一郎のもの静かな声に、まるで拒絶されているように感じて敬吾は淋しかった。  見慣れた優一郎の背中の広さと暖かさは、確かに敬吾の知っているものなのに、 それは既に、失われた人のもののように、 厳しく、毅然としていて、つかまえる術もないように見えた。  五分咲きの桜の花びらを、無情にも散らす春の風に、敬吾は思わず肩をすくめ、ただ一歩も足を踏み出すことができないのだった。 「敬吾、おいで 」  優一郎は呼んだが、敬吾は入江に寄せる波の音を聴いていた。 「敬吾・・? 」 「帰らない・・ 」 「え? 」 「もう少し、ここに居てください・・ 」  教会の前に停めたトラックの運転手の方を、優一郎はちらりと見た。  ずっと同じ場所に石のように動かずにいる。  こちらの様子をうかがうわけでもなく、なるべく見ないようにしていた。  軍人の命令は絶対だというように。  入江の村の人々は、天主堂の前にトラックが停まって軍人が来たと、息をひそめるようにし ているに違いない。 「わかった。今夜は、この島に泊まろう 」  優一郎は、意を決したように言った。 「優一郎さん? 」 「風邪をひく。早く車に乗りなさい。そろそろ町まで戻らないと、彼が困るだろう 」  敬吾もトラックの方を見た。 「はい 」    優一郎は、天主堂を振り返り、初めてクリスチャンの姿で、長い指を組み目を閉じた。  声をかける間もない一瞬だった。 —— 優一郎さんが、何かを願い、主に祈ったのなら、その祈りだけは聴き届けられるように・・ どうか・・僕の願いはただ・・それだけです・・ ——  敬吾は、自分なりのやり方で、祈りというものを捧げた。  そして、ポケットの中で、マリアのメダイをそっと握りしめた。  ふたりを乗せたトラックは市街地へ戻り、 港の近くの “ 波之家 “ という旅館の前に下ろした。 「明日朝早く、直接、港へ行きます。今日はもう結構です。ご苦労さまでした 」  軍人にしては丁寧な口調が珍しいのか、男はいつまでも優一郎の顔を見ているのだった。 第 8 話 に続く・・・
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