彼の時刻を止めて

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第 8 話       5 「今夜、部屋は空いていますか? 」  優一郎は、応待に出てきた女将にたずねた。  「海軍さんに泊まってもらうような上等の部屋はありませんけど 」  この島では、たとえ海軍といえど軍人は嫌われているようだった。  軍人がどこでも幅をきかせている時代にあって、この島の人々は強い意志で、それをはねのけようとしている。  軍の教会に対する圧力への反発だろう。  漠然とは敬吾にもわかる気がした。 「どんな部屋でも結構です。自分とこいつのふたりだけですから・・ 」  敬吾は、優一郎のうしろからペコリと頭を下げた。 「お料理も、何もできませんけど、それでよろしければ・・ 」  女将の言葉に、優一郎はうなずいた。  何もないと言いながら、食卓には海と山の幸を使った料理が並んだ。 「お口に合いますかどうか 」  銚子をさし出しながら、女将は言った。 「いえ、こんな豪勢な料理は初めてです。なあ、敬吾 」  優一郎は敬吾の方を振り向いた。 「はい 」 「弟さんですか? 」 「いとこです 」  答えながら、聞かれたのは今日これで二度目だと思った。 「明後日、自分が外地へ()つことになりまして・・今日はゆっくり別れをしようと・・ 」  優一郎はかくさずに話した。 「それは、どうもおめでとうございます 」  女将は頭を下げて、また銚子を取り上げる。 —— めでたくなんかない。そのことをみんな知っているくせに・・こうして芝居を続けている・・—— 「敬吾。約束してくれ 」 「はい 」 「決して、無駄に死んではいけない。死に急がないと約束してくれ 」  敬吾は、優一郎の杯を受けた。  酔いが回るのを感じた。  こんなに一度に酒を飲んだことはなかった。  どうにもならない思いが、敬吾をますます酔わせていくようだった。  頼りない足取りで立ち上がり、敬吾は部屋の隅にたたんで置いてある優一郎の軍服のところへ行った。 「どうした? 敬吾、大丈夫か? 」  優一郎は声をかけた。  うつむいて、優一郎が着けてくれた左手首のロンジンをはずし、そっと軍服の上に置いた。  代わりに、上に置かれていた懐剣を敬吾はつかんだ。 「敬吾! 何してる! 」  驚いて近づいて来た優一郎の目をじっと見すえながら、敬吾は刀の(さや)を払った。 「やめなさい! 」  左の手首に、刃先を当てた。 「敬吾・・ 」  優一郎は息をのみ、他の部屋に知られないように、低い声で制止した。  少し力を入れて引いただけで、驚くほど赤い血があふれてきた。 「なんてことを・・ 」  優一郎は敬吾の腕をつかんで、ハンカチでしばって止血しようとした。 「ダメです・・ 」  優一郎の手を振り払い、敬吾は盃の中にその血の滴を落とした。 「敬吾・・ 」 「優一郎さんの番です 」  刀を差し出した。 「馬鹿なことを・・そんなこと、どこで覚えた?・・ 」  同じようなことが、戦地へ旅立つ友を送る儀式として、高等学校の寮などで行われていることを、優一郎も知ってはいた。  優一郎は、刀を受け取ってシャツで血をぬぐった。 「いいから、やってください! 」 「何の意味がある? 」 「意味などありません! この戦争と同じです・・ 」  低く言い放った敬吾を、優一郎は目を(みは)るようにして見た。  自分の知らぬ間に、敬吾はおとなになっている。  敬吾のその言葉で、優一郎は心を決めたようだった。  左手首に刃先を当てて、ためらわずに切った。  流れ出た血を、同じ盃に落とした。 「飲んでください 」 「・・・・・・ 」  驚いている優一郎の目の前から、赤い酒で満たされている盃を取って、敬吾は唇に近づけた。  一口飲み、優一郎の目の高さに揚げた。 「敬吾・・何だ、これは・・ 」 「聖体拝領だと思ってくれてもいいです 」 「馬鹿を言うな! 」 「これは・・私の血です・・ 」  敬吾がつぶやき、優一郎に迫った。 「悪魔のすることだ・・こんな不遜な・・ 」  優一郎は呻いた。 「悪魔になってください・・悪魔になって・・あなただけ生き残って・・必ず帰ってきてください! 」  敬吾の目に涙が浮かんでいた。 「神の名のもとに・・犬死にしたりしないでください・・悪魔になって生き抜いてください・・僕もそうしますから・・ 」  敬吾の頬に涙がひとすじ流れた時、優一郎は盃を受け取って、一気に飲み干した。  悪魔になれと。  敬吾に駆け寄って、茶碗にかけてあった布を半分に引き裂いてきつく止血した。 「約束してください 」 「わかった、約束する・・ 」  敬吾は涙をぬぐい、優一郎の手首に残った布を巻いた。       6  夕べ、あの後、敬吾は酔いに負けて寝てしまったが、自分がしたことははっきり覚えていて、 優一郎の顔をまともに見ることができないのだった。  一方、優一郎は何ごともなく顔を洗い、出発の準備も終えていた。 —— 怒っていないの? 優一郎さん・・—— 「敬吾はどうする? 私は佐世保に戻らなくてはならない 」  優一郎にそう聞かれるまでは、敬吾も一緒に戻るつもりだった。  佐世保の海兵団に戻る前に、優一郎は実家に寄ると言った。 「僕は午後の便で帰ります。優一郎さんは先に長崎へ帰ってください 」 「あまり遅くならないように。明後日は入校式なんだから 」  四月七日、敬吾は針尾分校に入校する。  そして、優一郎も南方へ出港して行く。  二度と戻らないだろう最期の航海へ。  別々の運命へ船出して行く。 「これを使えばいい 」  優一郎がくれたのは、軍発行の特別乗船票だった。 「こんなもの、僕が使ってもいいんですか? 」 「大丈夫だよ。港の担当者にも言っておく 」  敬吾は、波之家の玄関先で優一郎を見送った。 「行ってらっしゃい 」  いつもと同じ言葉しか出て来なかった。 「港まで送ってくれないのか? 」  優一郎は、軍帽を被りながら言った。 「行きません 」  きっぱりと敬吾は答えた。  これ以上は、未練になる。  女々しい奴だと、優一郎に思われたくはなかった。 「元気で 」 「ご無事で 」  敬吾のその言葉に、優一郎は爽やかな笑顔を返した。 「ご武運をお祈りします 」  波之家の女将が、小上がりに手をついて送ってくれた。  優一郎は敬礼を残して、玄関を開けた。  もう一度ふり向いて敬礼し、港の方へ向かって歩き出した。  敬吾はその時になって、急に自分を押さえられなくなった。 「優にいさん! 」  ずっと昔、幼い頃。  優一郎のことをそう呼んでいた。  実の兄だったらどんなに良かっただろうという思いをこめて、そう呼んでいたのだ。  裸足のまま玄関から飛び出して、優一郎の背中にぶつかるように、後ろから手を広げて抱きしめた。 「敬吾・・ 」  身体の向きを変え、優一郎は敬吾の両肩に手を置いた。 「いつかまた逢おう。必ず逢えると信じよう。 たとえ生きて逢うことはなくても・・ 」  囁くような優一郎の言葉が、敬吾の胸にしみ通って行く。 「僕はひと足先に逝く・・おまえは残って欲しい・・残って・・母とあの(ひと)を頼む・・ 」  敬吾はうなずくしかなかった。 「夕べの約束は・・ 」  言葉をさえぎって、ふいに優一郎は両手で力いっぱい敬吾の身体を抱きしめた。 「もう一度、僕を呼んでくれ・・ 」 「え? 」 「昔みたいに・・ 」 「優・・にいさん・・ 」  敬吾は呼んだ。  想いは涙と一緒にあふれてきた。 「もし生まれ変わったら、今度はおまえと本当の兄弟かもしれないよ・・あちらで・・待っている・・ 」  強い力で引きはがすように、敬吾の身体を放した。  そして、もうふり返ることもなく、優一郎は足早に去って行った。 —— こんな風に引き裂かれるように・・みんなが大切な何かを失くして行く・・こんなことが許されてはならない・・できることなら・・ あの人の時を止めたい・・——  敬吾は左手首を見た。  血のにじんだ布の上にはめたロンジンを指でそっと押さえた。  微かな微かな針の音が、敬吾の胸の奥の押さえがたい想いのように伝わってきた。       7  昨日、優一郎と行った入り江の教会に行くには、歩いて行くしかなかった。  軍用トラックでも、港から三十分以上かかったのだから、徒歩ではどれほどの時間がかかるかわからない。  一時間近くも歩くと、すっかり山の中に入ってしまったらしい。  途方に暮れた敬吾は、道端の大きな石に腰をおろした。  昨日の寒さは嘘のようだったが、汗をかいた身体には風がひんやりする。  左手首にはめた優一郎の腕時計を耳に当てて音を聴いた。  ロンジンは、今にも止まりそうな微かな音を立てている。  ポケットの中に手を入れて、優一郎が帰る間際に持たせてくれた、軍用の特別乗船票が入っているのを確かめた。  もう少し島に残って、午後の便で帰ると言った敬吾に優一郎はただ、 「ゆっくりしておいで。でも、入校式の前に、ご両親ときちんと話をするんだよ 」 と言っただけだった。 「あれ? あんた、夕べ泊まったお客さんじゃないかね? 」  疲れて、膝を抱えて目を閉じていた敬吾の頭の上で、突然大きな声がした。 顔を上げると、見慣れない男がオート三輪の窓から乗り出すようにしていた。 「波之家のもんだけど、夕べお泊まりになった、海軍さんの弟さんでしょ? 」  男は陽に灼けた顔をくずして、そう言った。 「弟・・ 」  弟という言葉が、敬吾の胸に迫った。 「どこまで行かれるのかいな 」 「堂崎の天主堂へ・・ 」 「堂崎まで歩いて? 」  男は心底びっくりしたという顔で大声を出した。 「あとどのくらいかかりますか? 」 「さあ、どのくらいか・・歩いていけないことはないが、今夜もお泊まりで? 」  明日は、針尾に行っていなくてはならない。  遅くとも今日の夕方には、家に戻らなくては。  優一郎が家に電話してくれたが、既に外泊しているのだ。  間違いなく母は心配しているだろうし、怒ってもいるだろう。 「とにかく、乗んなさい 」  男は助手席の錆びたドアを苦労して開けた。 「堂崎天主堂の方へ行くんですか? 」 「いいや、その先の岐宿(きすき)の港まで行くんだが、いいよ、回って行ってあげよ 」  初老の男は親切だった。 「すみません 」  敬吾は小さな車に乗り込み、頭を下げた。  三輪トラックは、石ころだらけのガタガタ道を揺られて、やっと走っているように思えたが、やはり徒歩よりは早く、二十分も経った頃には、奥浦湾の入り江に建つ堂崎天主堂が見えてきた。 「ほら、あれだ 」  昨日、優一郎と一緒に来たことが、まるで夢のように遠いことに思える。  今朝からの暖かさで、一気に咲きそろった桜の花びらが、風で花吹雪のように舞い散っていた。  人気(ひとけ)のない静かな入り江は、微かな波も立ててはいない。  優一郎が、南方の海の色と同じだと言った、不思議な色。  青と緑が複雑に入り交じっている。  車を降りた敬吾は、花吹雪の中に立ち尽くしていた。 「港で荷を積んだらまたここを通るから、フェリー乗り場まで乗って行ったらいい 」  親切な男はそう声をかけて来た。 「一時間もかからないから。午後の便に乗るかね? 」 「はい。長崎行きの船に 」 「歩いていたら間に合わないよ。乗って行けばいいよ 」  窓からそう怒鳴り、車は入り江に沿って遠ざかって行った。  軍部の圧力で、閉じられたままの聖堂の木の扉にもたれて、敬吾は桜の花に見とれていた。  思い出したように、ポケットから、青色のガラス瓶を取り出した。  今朝、出がけに、波之家の女将に頼んでもらって来た薬瓶だ。  広口の青いガラス瓶を振ると、カラカラと音をたてる。  優一郎がくれた、マリアのメダイが入っていた。  一本の桜の樹を選び、敬吾はその下に立って満開の枝を見上げた。  根元に(ひざまず)き、瓶を土の上にそっと置いた。  落ちていた小枝で、地面に穴を掘った。  三十センチほども掘るのに案外、時間がかかり、敬吾は額の汗をぬぐった。  瓶の蓋をはずし、中のメダイを出して手のひらにのせた。  聖母マリアが優しく微笑んでいた。  胸ポケットから、折りたたんだ紙を出し、広げてみた。  波之家で優一郎が行ってしまった後、敬吾はしばらくひとりで正座して、目を閉じていた。  波之家の部屋は、急に広く感じられた。  ただじっと、船上の人となった優一郎のことを思った。  優一郎の残した言葉の、ひとつひとつを噛みしめていた。  その時、突然、敬吾は思いたったのだ。  もう一度、堂崎天主堂に行ってみたいと思った。  優一郎に対する自分の想いは、今日を限りに葬ってしまわなければならない。  彼を見送った今となっては、こんなせつない想いを抱いたまま、針尾に行くことはできない。  それならば、一番ふさわしいのはこの島だ。  そして、この堂崎天主堂を思い浮かべた。  波之家でもらった便箋に、敬吾は想いをしたためた。  借り物の筆の墨書きの文字が鮮やかに、敬吾の想いを紙の上に表していた。  “ 逝く春に 願わくば()の人の時刻(とき)を止めて “  こんな未練を残したまま、この(いくさ)を戦えはしない。 —— 悪魔になっても、生き残らなくては・・——  敬吾は想いを封じ込めるように紙を折りたたんで、メダイといっしょにガラス瓶の中に入れた。  蓋をして、土の中に置いた。  桜の花びらが、ひっきりなしに降りかかっている。  もうすぐ、先ほどのトラックが戻って来る頃だろう。  何気なく、腕にはめたロンジンに目をやった。  ベルトをはずし、しばらく見つめていた。  もう一度、瓶を手に取り、中にロンジンも入れた。  せっかく優一郎がくれたのにという思いはあった。  でも、ふっ切るために、 限られた生を迷いなく生きるためにならば、 優一郎もきっと許してくれるだろう。  そして、優一郎と過ごした日々を、この場所に時計を埋めることで、永久に止めてしまいたいと敬吾は願った。  土をかけ、踏みかためてしまうと、その場所はわからなくなった。  桜の花びらがすぐに吹きだまって、うす桃色の絨毯を敷きつめた、墓標のように見えた。  敬吾は悲しみが少し、癒されるような気がした。  入り江を回る細い道を、小さなトラックが走って来るのが見えた。  もう一度、天主堂を見上げ、桜の樹をふり返ってから、敬吾はトラックの方に向かって歩き出した。 第 9 話 に続く・・・
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