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第 9 話
1
加納の話は終わった。
「岩崎中尉は・・亡くなったんですか? 」
千郷は、息苦しくなって口を
切った。
「・・戦死したという知らせがあった・・ 」
「どこで? 」
加納敬吾は、遠い過去を思うような哀しい目をしていた。
「沖縄へ向かった艦隊の中に・・ 大和の護衛艦に乗船していて・・艦は全滅した・・ 」
千郷は言葉を失った。
「昭和二十年・・四月七日・・大和を含め六艦が撃沈され・・四千名以上が・・亡くなった・・」
—— 岩崎優一郎さんは・・その中にいたんだ・・ ——
「家族は、どうなったんですか? 」
「八月九日の・・長崎の原爆でね・・みんな死んでしまった・・ 」
淡々と加納は答えた。
物語の続きだと言うように。
「悲しすぎますよね 」
千郷は思ったままを口にした。
「そういう時代だったんだ。同じような悲劇は無数にあった・・同じようでいて、それぞれに少しずつ異なっている・・悲しみがそこかしこにあふれていた・・ 」
加納はまるで、自分の過去のように話していた。
目の前の加納が、昭和二十年に生きていたように、千郷はふと錯覚しそうになる。
「彼女は? 日野史子さんは? 」
千郷がそう聞いた時だけ、加納はかすかな感情の乱れを見せた。
「亡くなったんですか? ・・やっぱり・・ 」
—— 岩崎中尉の愛したその女を、
加納敬吾は守れなかったのだろうか ——
「加納敬吾の家族も、あの女の家族も、岩崎家につながる人々はみんな死んでしまった。
佐世保にいた彼とあの女だけが生き残った。
何もかもが破壊され、焼き尽くされて、そこから立ち直れるものがあるとは、誰にも思えなかった。
それでも人々は長かった悪夢から立ち上がり、次々と自分たちの新しい生き方を見つけて行った。
加納敬吾だけが取り残された。
立ち直るために必要なものが、何ひとつ無いように思えた。
ただ、史子をのぞいては・・・
混乱は続いていた。
戦後のあの混乱のさ中で、加納敬吾があの女を守ることができたのが不思議なくらいだった。
この先、百年は草も生えないだろうと言われていた長崎に戻ったが、何も残っていなかった。
爆心地となった浦上の岩崎家はもちろん、稲佐山の辺りも。
一週間かけて探し続けたが、両親の行方も
優一郎の母の消息もわからなかった。
そんな中で、日野史子を見つけることが出来たのは、ほんの偶然に過ぎない。
近所の生き残りの人からの話を聞いた。
「岩崎家の嫁さんだけが助かった 」と。
救護所で再会した日野史子は、奇跡的に大した怪我もなかったが、ただショックのためか話すことが出来なかった。
その史子の姿を見た時の衝撃を、敬吾はずっと忘れることができなかった。
史子は首から、名前を書いた紙をぶら下げていた。
そこには、血のような文字で、
“ 海軍中尉 岩崎優一郎
妻 史子 “ と書かれていたのだ。
史子はかた時も、それを外すことなく眠る時も抱いていたと。
敬吾は史子を連れて、佐世保までたどり着き、海の近くで優一郎からの知らせを待った。
優一郎の生死はまだ定かではなかった。
両親を探し回り、史子と再会するまでの間に、信じ難いことに、日本は敗戦を迎えた。
ふたりは同じように、岩崎優一郎を待ち続けた。
加納敬吾は闇市で食べ物を売りながら、あの女を気丈に支えてはいたが、心の中は、もっと激しく優一郎を待っていた。
爆撃の無い日が続いて、やっと人々は少しずつ戦争が終わったことを実感し始めたようだ。
敬吾の中には、消せない怒りがあって、敗戦を悲しむことも、平和に期待することもできなかったのだ。
—— 何故?・・何故だ?・・何のために・・?みんな死んだのだろう・・——
そして、知らせは来た。
優一郎がもう戻って来ないことを知った。
その日からあの女は、少しずつ狂って行ったようだ。
少しずつ少しずつ。
毎日、ほんの少しだけ。
気づかずにいれば、見過ごしてしまえるほどに、ゆっくりと。
優一郎の死で、精神のバランスをくずしてしまえるあの女に、加納敬吾は嫉妬した。
優一郎を失くしたことで、心までどこかに
置き忘れてしまったあの女に。
彼もできることなら、そうしたかった。
嫉妬して、嫉妬しながらあの女を守って生きていくことに疲れ果て、
彼はある夜、あの女を力ずくで抱いてしまったのだ。
あの女は、その夜を境に一気に心を閉ざし、もう誰をも見ようとしなくなった。
彼は、優一郎が佐世保で慕っていた神父に、
彼女を託した。
加納敬吾は、過ちを犯した姿のまま、時間を止めてしまったのだ。
多分、罰を受けたのだろう。
世の中がやっと少し落ち着いた頃。
加納敬吾は、あの女の消息を知った。
佐世保近くの “ マリア真珠苑 “ という療養所に居るという。
彼は佐世保に移り住み、遠くからあの女を見守った。
何度かの見舞いの時。
彼女は、加納を見つけてしまった。
姿を隠す間もなかった。
優一郎さん、とその女は呼んだ。
戻ってきてくれたのね、と。
あの女には、加納敬吾が優一郎に見えたんだ。
彼が訪ねると、少女のように無邪気に喜び、
彼は、加納敬吾だと知られることを怖れながら、あの女をだまし続け、
見守り続けた。
加納敬吾があの女の希望になり、優一郎のあとを追う機会を、彼は永遠に逸してしまったのだ。
彼は佐世保を離れることができなくなった。
それは何より、優一郎のいた海軍の歴史や資料が残る佐世保は、加納敬吾にとって特別の場所だったからだ。
そうして、驚くほど長い月日が流れ、あの女は、彼の母のような歳になり、いつしか祖母と言ってもいい歳になってしまった。
穏やかに年を重ね、髪に白いものが混じっても、心だけは無邪気な少女のままだった。
このまま、いつかあの女を送るまで、こんな日が続くと思っていた頃。
あの女が、彼に向かって、敬吾さんなの?ときいた。
彼女は年をとらずに、昔、一度会ったきりの
加納敬吾を、何の抵抗もなく受け入れているようだった。
彼の犯した罪のことだけは、忘れてしまったというように、優しく微笑んでいた。
役目は終わった。
彼はそのことを知った・・ 」
加納は小さく息を吐き、話を終えた。
第 9 話 に続く・・・
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