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第 10 話
2
「もう帰ろう。 遅くなってしまって申し訳ない 」
唐突に加納はそう言って立ち上がった。
千郷はその腕をつかんで引き止めた。
「どこへ・・どこへ帰るんですか? 」
軽い酔いが、千郷の心まで無防備にしている。
「どこって・・君は今、いとこの家にいるんでしょう? 」
「僕じゃなくて、あなたです! 」
問いつめるような口調になった。
「酔ったのですか? このくらいの酒で・・ 」
「酔ってません! 」
千郷の大声に、斜め向かいにいるふたり連れの若い女の片方が振り向いた。
「酔っている 」
加納は困ったように微笑んで、さりげなく千郷の手をはずした。
「電話番号、教えてください 」
千郷の言葉に、加納よりも先ほどの女の方が先に反応した。
多分、千郷の言い方が街で女の子をナンパした時と同じように聞こえたからだろう。
「電話はありません 」
加納は酒の残っているグラスを、手の中で揺らしているだけで、飲もうとはしなかった。
「嘘だ 」
女ふたりは、遂に千郷の方を見ながら内緒話を始めた。
加納の顔の美しさも、彼女たちの興味を引いているのだろう。
「ほんとだよ 」
急にうちとけたような言葉で言い、加納は笑った。
「わかりました。じゃあ、僕のを教えます 」
「いとこの? 」
「そうです 」
千郷はコースターに、達也の電話番号を書いた。
そして、加納のグラスの横に並べて置いた。
コースターから目を上げて、千郷を見つめた
加納の目が、壁の淡いブルーの照明を映していた。
その瞳に吸い寄せられるような気がして、千郷は戸惑った。
胸の奥の、どこかわからない深い所が痛い。
—— この感情は何だろう?・・——
千郷が今まで感じたこともない想い。
—— 多分、僕はさっきの話で、少しセンチメンタルな気持ちになっているんだ・・だから、
こんなに胸が・・苦しいくらいに、せつなくなる・・——
「すみません! 僕はどうかしている・・ 」
思わず千郷は、両手で顔をおおった。
「酔っているだけだよ 」
目を閉じている千郷の耳に、優しい声が聞こえる。
「そうじゃない・・ 」
肩に加納の手が置かれたのがわかった。
「あなたを見ていると、こっちまでおかしくなる! 」
「ひどい言われようだな 」
手のひらで触れると、自分の頬が燃えるように熱いことに千郷は驚いた。
「どうにかなりそうだ・・ 」
指の間から、千郷は呻くような声を出した。
「大丈夫か? 」
ためらいがちに加納の腕が、肩を抱き寄せると、無意識のうちに千郷は身体をよじって避けた。
「どうしたいんだ? 」
加納の言葉には答えず、千郷は首を横に振った。
—— わからないんだ・・僕はいったい・・——
加納の深い色の瞳に見つめられて、このままここで、酔いつぶれてしまいたいのかもしれない。
「酔っている。こっちを見てごらん。僕の方を見なさい 」
ふいに千郷は、加納のたしなめる言葉が、まるで祖父のようだと思い当たった。
礼儀正しく、ばか丁寧でよそよそしい。
そんなに年も変わらないのに。
「あなたは僕に、催眠術か何かをかけようとしている・・ 」
千郷は笑い出したくなった。
「僕にあの途方もない作り話を、信じ込ませようとして・・ 」
振り向いて、挑むような目つきで加納を見つめた。
「作り話? 」
「あの写真の中の少年は自分だと、僕に思い込ませようとしてる・・そうじゃない・・何故だかわからないけど・・あなたは自分でそう思い込もうとしてるんだ・・ 」
千郷は、酔いが回るのを感じた。
遠い過去の、加納敬吾というあの少年の物語が、更に千郷を酔わせているようだった。
「出よう! 少し歩いて酔いをさまそう 」
加納が腕を取って立たせると、今度は逆らわずに、千郷もカウンターから離れた。
わすがに千郷の脚がもつれた。
アーケード街は、もうほとんどの店がシャッターを降ろしていた。
人通りもなく寂しいアーケード街を抜けて、国道へ出た。
駅に面して、壁に斜めにつけられた階段を登り切った高台に、その教会はあった。
三浦町教会と呼ばれている聖心天主堂は、
昭和5年に移築されたが、戦時中は軍部の弾圧を受け、
空襲の標的になるからと真っ黒に塗られたこともあったという。
それがガイドブックの受け売りの知識だったが、
目の前のそれは何もなかったかのように、
今は美しく街を守っているように見える。
古城のような石造りの教会の入口に、両手を広げた白いキリスト像が建っていた。
加納は、千郷の肩を支えるようにして、何も言わずに教会を見上げていた。
「あなたは・・誰ですか・・ 」
その横顔に向かって、思わず千郷はつぶやいた。
加納は答えなかった。
黙って、キリスト像を見つめていた。
酔いを口実に、千郷は加納の肩にほてった頬を押しつけた。
千郷はふいにあふれてきた涙に驚いていた。
—— 何故、こんなに悲しいんだろう・・——
涙は次から次へと流れていった。
「どうして君が泣くんだ? 」
「わからない・・わからないけど・・涙が勝手に出て来るんです・・ 」
加納は、千郷の背中をそっと子供をあやすように撫でた。
国道を照らす灯りが、千郷の涙の中でにじんでいた。
加納の横顔は、目を逸らせば、失われてしまう人のように儚く、そして限りなく美しいのだった。
第 11 話 に続く・・・
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