彼の時刻を止めて

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第 2 話       4  達也に、佐世保で飲むのにどこかいい店はないかときいたら、ここを教えてくれた。  佐世保中央駅に近い、米兵相手のバー街の裏通りを入ったところに、” NO NAME “というバーがあった。  地下に降りると、うす暗い通路の奥にドアがある。  中は意外と広くて、若いカップルや学生が多かった。  カウンター席で、達也を待つことにする。  照明はブルーで、壁も床もコンクリートの打ちっぱなし。  少し冷え冷えとする雰囲気が、広さの割に落ち着いたイメージを作り出していたが、隠れ家のようなバーを想像してきた千郷は、なんとなく居心地の悪さを味わった。  千郷は、自分が水槽に入れられた観賞魚のような気がしてきた。  カクテル中心の、女の子が喜びそうなバーで、カウンターで男ひとり、バーボンのロックなんか飲んだら、完全に浮いてしまう。 ——どうせ、いつもは居酒屋でしか飲まないくせに。達也のヤツ、僕に見栄はったってしょう がないだろうに——  アルバイトらしいウェイターは、自分で思っているほどには、その仕事に向いていないようだった。  トレイにのせたカクテルや、気取った名前の料理を運ぶ手つきが、危なっかしい。  流れるようにリズムをつけて、カウンターから、丸テーブルと脚の長いスツールの置かれたフロアを、泳ぎ回る魚のように優美に動こうとして、失敗していた。 「ハイ、こちらバーボンロック 」  答えるより早く、ウェイターの長い指が、千郷の目の前にグラスを置いた。  カウンター越しに、中にいるバーテンダーが直接、おかわりをよこすような、無粋なことはしない店だとでも言いたそうだ。 「ええと、こちらは、水割り? 」  一席分空けて座っている隣の席の男にも声をかけて、ウェイターがグラスを置こうとしたのと、その男がウェイターの方に体をひねったのとが同時だった。 「あの、すみませんが、火を・・」 「あっ! 」  次の瞬間、ウェイターの持ったグラスは、男の肩にぶつかって、派手な音を立てて床に落ちた。  彼の水割りは、隣りに座っていた千郷のジャケットにもかかった。  グリーンの麻のジャケットに、見る間にシミが広がっていく。 「あ! すまない・・」 「いいえ、申し訳ございません 」  ウェイターはまず男に頭を下げ、一瞬の間があってから、千郷のジャケットをおしぼりで拭いた。 「お客様、申し訳ございません。クリーニング代は、当方で 」 「あ、もう大丈夫。自分でやりますから・・」  千郷は、おしぼりを受け取って、簡単にジャケットを拭いた。 「あの・・僕が悪い・・すまない・・」  隣の男は、スツールを下りて千郷の横に立った。 「いえ、大丈夫です。ホントに 」  そう言いながら、千郷は男の顔を初めて正面から見た。  少しかげりのある目と、意志的な唇、繊細な顎の線が印象的な男だった。  ウェイターも恐縮しながら、視線だけは男に吸いついている。  多分、常連客ではないのだろう、と千郷は思った。  「気にしないでください 」  千郷はおしぼりをウェイターに返し、両方に向かってそう言った。 「すぐ、おかわりをお持ちします 」  割れたグラスを片付けていたウェイターは、はっと気がついたように、離れて行った。  サービスは、彼のプライドに関わることらしい。 「あの、火ですか? マッチここにありますよ 」  千郷は男に、店のマッチを渡した。  男は、礼を言って煙草を咥えた。  何気なく見ていた千郷は、伏し目がちに火をつける男の横顔と、その手のぎこちなさに目を引かれた。  彼から、目が離せなくなった。  マッチを渡した時に触れた、手の冷たさも。  煙草だけじゃなく、そもそも彼は、この場にふさわしくない。  千郷が、この店の中で浮いている、というのとは違うが、もっと場違いな感じがした。  何がとははっきりと言えないが、千郷はますます落ち着かない気分になった。 ——強いて言えば、顔が綺麗すぎる。男にキレイなんておかしいけど・・——  ウェイターも、思わず見惚れていた。  東京あたりなら、モデルやタレントで、ハンサムな男たちは多い。  男には、不思議な透明感があった。  ブルーの照明のせいだろうか? 蒼い色の中に消えてしまいそうで、目がそらせない。  彼は、10代のようにも30代のようにも見えた。  年齢不詳、国籍も。 「申し訳ない、一杯奢ります 」  男に急に声をかけられて、千郷は驚いた。  密かに観察していたところだったからだ。 「ホントに大丈夫ですから、気にしないでください 」  それでも、バーボンを一杯おごられた。  「どうも 」千郷は礼を言い、一言つけ加えた。 「ひとり、ですか? 」 「ええ 」  男は答え、それきりで話は終わり、会話は続かなかった。  多分、彼はひとりで飲みたいのだろうと千郷は思った。 淋しげな二枚目を気取りたいのかも。 「遅くなってゴメン! 悪い悪い! 」  達也の大きな声が聞こえ、男と千郷の間の、一つだけ空いていたスツールに割り込んで来た。 「待ったか? 千郷 」 「ちょっとね 」 達也は、カウンターの中にいるマスターらしき男と、顔見知りのようだった。 「あれ? お知り合いですか? 」  さっき、千郷に水割りをかけたウェイターが近づいてきた。 「うん? こいつ、オレのいとこ。東京から春休みで遊びに来てる。 大学生で千郷っていうんだ。 女みたいな名前だろ? 今ウチに泊めてやってんの 」 ——どんだけ常連だよ? ——  達也に紹介され、しかたなく千郷は頭を下げた。 「さっき、いとこクンの服に水割りこぼしちゃって。 ごめんね 」 ——何が、クンだよ? 急に馴れ馴れしいじゃん? ——  達也の大きな背中の向こうで、さっきの男が立ち上がったのが見えた。  目だけで千郷に挨拶して、出て行く。 「どうした? 千郷 」 何か夢中で話していた達也が、急にそう言った。  ふっと我に返った千郷の目をのぞき込んで、 「何だよ? 聞いてなかったのか? 」と、達也が言った。  ——聞こえなかった・・達也は何の話をしてたっけ? ——  千郷はあいまいに笑い、男がおごってくれた、氷の溶けたバーボンのグラスを持ち上げた。       5  達也が教えてくれた資料館は、佐世保の海上自衛隊の敷地内にあった。  平日の館内は、人の気配もなく、静まりかえっていた。  観光客が訪れることも少ないのか、春の観光シーズンで賑わう街中とは正反対に、千郷が中へ足を踏み入れると、靴音が響くほど閑散としている。  旧佐世保海兵団の宿舎だったという古い建物は、妙に冷んやりしてうす暗い。  各展示室を見て回ったが、特別に千郷の興味を引くものはなかった。  わざわざやって来たことを後悔し始めた頃。  旧日本海軍の最近の戦史についての、資料を集めたあたりで、海軍兵学校針尾分校のものを見つけた。  たくさんの展示写真の中に、入校した日の生徒たちの並んだ写真があった。  第七十八期生。  於 昭和二十年四月七日 入校式。 「ずいぶん、たくさんいるなぁ 」  写真を見ても、みんな同じような顔に見えた。 「芳賀・・芳賀・・と・・ 」  初めは何の気なしに見ていたのだが、そのうち千郷は夢中になって、写真の中に若い祖父の姿を探していた。 「あった! 芳賀郷太! これだ。 ホントにあった! 」  写真の中の祖父は、何だか父の若い頃の顔に似ていた。  芳賀郷太。  祖父は自分の名前の一字を、千郷にくれたのだ。  そのことに改めて思い至った。  千郷は祖父の周りの少年たちの顔を、順繰りに見ていった。  みんな神妙な顔をして並んでいる。  幼いような、妙に大人びたような複雑な表情。  時代が、彼らを無理矢理、大人にしようとしているようだった。  写真の中の、ひとりの少年に千郷は目を奪われた。  その少年だけが、少し斜め横を見ていたからだ。  多分、ちょっとよそ見をした時にシャッターが切られたのだろう。  千郷はその少年を、どこかで見たことがあると思った。  少し哀しげな目と、滑らかな線を持つ横顔。 ——そんなはずないよな? ・・——  戦争中の時代の少年たちを扱った、TVのドキュメンタリー番組の中だったろうか?  もちろん、気のせいにすぎないだろう。  千郷は何気なく、少年の名前を記憶した。    加納敬吾。 ——おじいちゃんの学友・・いや、戦友かな。でも戦争には行かなかったっていうから、やっぱり学友かな ——  「説明しましょうか? 」  まだ写真をのぞき込んでいた千郷は、後ろからそう声をかけられて振り向いた。 「何かわからないことがあったら、気軽に聞いてください 」  長身の男が立っていた。  グレーのズボンに、白いワイシャツ。  地味なネクタイ。  ワイシャツの胸に、ネームプレートを付けていた。  加納。  その名前は、その時点ではまだ、千郷にとって何の意味も持っていなかった。  ただ、心もち首をかしげた端正な男の顔が、千郷にひとつの場面を思い出させた。    水割りのグラスが床に、音もなく落ちるシーン。 「あれ? あなたは・・ 」  あのバー “ NO NAME “ で、隣合わせに座っていた男だった。   一つ目の偶然。 「どこかでお会いしましたか? 」  男は覚えていないようだった。 「ホラ、” NO NAME “ って店で、水割りをこぼして・・ 」  千郷は、おとといの夜のことを説明した。 「ああ、あの時の・・すみませんでした 」 「いいえ。ここにお勤めなんですか? 」 「勤めているというわけでもないんですが。 資料の整理を頼まれているので・・時々こうして館内を歩いて回るんです 」  加納は、どう見ても自衛隊関係者には見えなかった。  一昔前の小学校の先生のように見えた。 「観光ですか? それとも何か調べもので? 」  加納がきいた。 「ええ、まあ、観光といえばそうかな。 従兄弟が佐世保にいるんで、春休みに遊びに来たんです。 5つ年上だけど気があって 」  冷たい感じがした加納は、微笑むと急に幼い顔になる。  加納が視線を合わせ、濁りなく澄んだ真っ黒の瞳が、千郷をとらえた。 —— 絵に描いたような美しい顔なんて、今まで少女マンガの世界にしかないと思っていたのに ——  デッサン用のスケッチブックを持ってきていたら、すぐにこの場で描きとめたろう。 「僕の祖父ですよ、これ 」  動揺した心をさとられないように、千郷は話を変え、一枚の写真を示した。 二つ目の偶然。   いくつかの偶然が重なり合うようにして、千郷をここへ呼び寄せ、ふたりを逢わせたのだと いうことに、彼はまだ気づいていなかった。  別々の時間の流れが、この建物の中で確かな接点を持って、交わったかのように。  ふいに、千郷は思い出した。  さっき、目を止めた写真の中の少年。  誰かに似ていると思ったのは、加納というこの男だった。 “ NO NAME “ という店で見た、驚くほど端正な顔。  あの夜の男に似ていたから、心に引っかかったのだ。 「加納って・・じゃあ、こっちのこの写真の人、加納さんのおじいさんじゃないですか? ねえ、この人・・ここの・・ちょっと横を向きかけてる人・・ 」  千郷は、加納敬吾という名前のある写真の方へ戻って、一人の少年を指さした。 「似てますよ、すごく。 おじいさん? 」 「違います 」  加納ははっきりそう言った。 「え、そうですか? でも親戚じゃないんですか? そっくりだけどな・・ 」  写真から顔を上げた千郷に、加納は言った。 「その写真の少年は、僕です 」 「え? 」  次の瞬間、からかわれたのに気づいた千郷は、少し気分を害して黙り込んだ。 「では、ごゆっくり。 僕は奥の資料室にいますから・・何かあったら、呼んでください 」  加納はそう言って、千郷のそばを離れて行った。 「え? 何だ、あれ 」  気取ったイヤな奴じゃないかと思いながら、 やっぱり気にかかるのは何故だろう。  千郷は、もう一度、加納敬吾の写真に見入った。 「やっぱり似てる・・そっくり・・ 」  つぶやきながら歩き出した。  館外に出るところで、思い出したように中へ戻り、祖父の顔をもう一度、じっくり眺めてきた。  出る時に奥を覗いたが、加納の姿は見えなかった。 第 3 話に続く・・・
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