20人が本棚に入れています
本棚に追加
第 2 話
4
達也に、佐世保で飲むのにどこかいい店はないかときいたら、ここを教えてくれた。
佐世保中央駅に近い、米兵相手のバー街の裏通りを入ったところに、” NO NAME “というバーがあった。
地下に降りると、うす暗い通路の奥にドアがある。
中は意外と広くて、若いカップルや学生が多かった。
カウンター席で、達也を待つことにする。
照明はブルーで、壁も床もコンクリートの打ちっぱなし。
少し冷え冷えとする雰囲気が、広さの割に落ち着いたイメージを作り出していたが、隠れ家のようなバーを想像してきた千郷は、なんとなく居心地の悪さを味わった。
千郷は、自分が水槽に入れられた観賞魚のような気がしてきた。
カクテル中心の、女の子が喜びそうなバーで、カウンターで男ひとり、バーボンのロックなんか飲んだら、完全に浮いてしまう。
——どうせ、いつもは居酒屋でしか飲まないくせに。達也のヤツ、僕に見栄はったってしょう
がないだろうに——
アルバイトらしいウェイターは、自分で思っているほどには、その仕事に向いていないようだった。
トレイにのせたカクテルや、気取った名前の料理を運ぶ手つきが、危なっかしい。
流れるようにリズムをつけて、カウンターから、丸テーブルと脚の長いスツールの置かれたフロアを、泳ぎ回る魚のように優美に動こうとして、失敗していた。
「ハイ、こちらバーボンロック 」
答えるより早く、ウェイターの長い指が、千郷の目の前にグラスを置いた。
カウンター越しに、中にいるバーテンダーが直接、おかわりをよこすような、無粋なことはしない店だとでも言いたそうだ。
「ええと、こちらは、水割り? 」
一席分空けて座っている隣の席の男にも声をかけて、ウェイターがグラスを置こうとしたのと、その男がウェイターの方に体をひねったのとが同時だった。
「あの、すみませんが、火を・・」
「あっ! 」
次の瞬間、ウェイターの持ったグラスは、男の肩にぶつかって、派手な音を立てて床に落ちた。
彼の水割りは、隣りに座っていた千郷のジャケットにもかかった。
グリーンの麻のジャケットに、見る間にシミが広がっていく。
「あ! すまない・・」
「いいえ、申し訳ございません 」
ウェイターはまず男に頭を下げ、一瞬の間があってから、千郷のジャケットをおしぼりで拭いた。
「お客様、申し訳ございません。クリーニング代は、当方で 」
「あ、もう大丈夫。自分でやりますから・・」
千郷は、おしぼりを受け取って、簡単にジャケットを拭いた。
「あの・・僕が悪い・・すまない・・」
隣の男は、スツールを下りて千郷の横に立った。
「いえ、大丈夫です。ホントに 」
そう言いながら、千郷は男の顔を初めて正面から見た。
少しかげりのある目と、意志的な唇、繊細な顎の線が印象的な男だった。
ウェイターも恐縮しながら、視線だけは男に吸いついている。
多分、常連客ではないのだろう、と千郷は思った。
「気にしないでください 」
千郷はおしぼりをウェイターに返し、両方に向かってそう言った。
「すぐ、おかわりをお持ちします 」
割れたグラスを片付けていたウェイターは、はっと気がついたように、離れて行った。
サービスは、彼のプライドに関わることらしい。
「あの、火ですか? マッチここにありますよ 」
千郷は男に、店のマッチを渡した。
男は、礼を言って煙草を咥えた。
何気なく見ていた千郷は、伏し目がちに火をつける男の横顔と、その手のぎこちなさに目を引かれた。
彼から、目が離せなくなった。
マッチを渡した時に触れた、手の冷たさも。
煙草だけじゃなく、そもそも彼は、この場にふさわしくない。
千郷が、この店の中で浮いている、というのとは違うが、もっと場違いな感じがした。
何がとははっきりと言えないが、千郷はますます落ち着かない気分になった。
——強いて言えば、顔が綺麗すぎる。男にキレイなんておかしいけど・・——
ウェイターも、思わず見惚れていた。
東京あたりなら、モデルやタレントで、ハンサムな男たちは多い。
男には、不思議な透明感があった。
ブルーの照明のせいだろうか? 蒼い色の中に消えてしまいそうで、目がそらせない。
彼は、10代のようにも30代のようにも見えた。
年齢不詳、国籍も。
「申し訳ない、一杯奢ります 」
男に急に声をかけられて、千郷は驚いた。
密かに観察していたところだったからだ。
「ホントに大丈夫ですから、気にしないでください 」
それでも、バーボンを一杯おごられた。
「どうも 」千郷は礼を言い、一言つけ加えた。
「ひとり、ですか? 」
「ええ 」
男は答え、それきりで話は終わり、会話は続かなかった。
多分、彼はひとりで飲みたいのだろうと千郷は思った。
淋しげな二枚目を気取りたいのかも。
「遅くなってゴメン! 悪い悪い! 」
達也の大きな声が聞こえ、男と千郷の間の、一つだけ空いていたスツールに割り込んで来た。
「待ったか? 千郷 」
「ちょっとね 」
達也は、カウンターの中にいるマスターらしき男と、顔見知りのようだった。
「あれ? お知り合いですか? 」
さっき、千郷に水割りをかけたウェイターが近づいてきた。
「うん? こいつ、オレのいとこ。東京から春休みで遊びに来てる。 大学生で千郷っていうんだ。 女みたいな名前だろ? 今ウチに泊めてやってんの 」
——どんだけ常連だよ? ——
達也に紹介され、しかたなく千郷は頭を下げた。
「さっき、いとこクンの服に水割りこぼしちゃって。 ごめんね 」
——何が、クンだよ? 急に馴れ馴れしいじゃん? ——
達也の大きな背中の向こうで、さっきの男が立ち上がったのが見えた。
目だけで千郷に挨拶して、出て行く。
「どうした? 千郷 」
何か夢中で話していた達也が、急にそう言った。
ふっと我に返った千郷の目をのぞき込んで、
「何だよ? 聞いてなかったのか? 」と、達也が言った。
——聞こえなかった・・達也は何の話をしてたっけ? ——
千郷はあいまいに笑い、男がおごってくれた、氷の溶けたバーボンのグラスを持ち上げた。
5
達也が教えてくれた資料館は、佐世保の海上自衛隊の敷地内にあった。
平日の館内は、人の気配もなく、静まりかえっていた。
観光客が訪れることも少ないのか、春の観光シーズンで賑わう街中とは正反対に、千郷が中へ足を踏み入れると、靴音が響くほど閑散としている。
旧佐世保海兵団の宿舎だったという古い建物は、妙に冷んやりしてうす暗い。
各展示室を見て回ったが、特別に千郷の興味を引くものはなかった。
わざわざやって来たことを後悔し始めた頃。
旧日本海軍の最近の戦史についての、資料を集めたあたりで、海軍兵学校針尾分校のものを見つけた。
たくさんの展示写真の中に、入校した日の生徒たちの並んだ写真があった。
第七十八期生。
於 昭和二十年四月七日 入校式。
「ずいぶん、たくさんいるなぁ 」
写真を見ても、みんな同じような顔に見えた。
「芳賀・・芳賀・・と・・ 」
初めは何の気なしに見ていたのだが、そのうち千郷は夢中になって、写真の中に若い祖父の姿を探していた。
「あった! 芳賀郷太! これだ。 ホントにあった! 」
写真の中の祖父は、何だか父の若い頃の顔に似ていた。
芳賀郷太。
祖父は自分の名前の一字を、千郷にくれたのだ。
そのことに改めて思い至った。
千郷は祖父の周りの少年たちの顔を、順繰りに見ていった。
みんな神妙な顔をして並んでいる。
幼いような、妙に大人びたような複雑な表情。
時代が、彼らを無理矢理、大人にしようとしているようだった。
写真の中の、ひとりの少年に千郷は目を奪われた。
その少年だけが、少し斜め横を見ていたからだ。
多分、ちょっとよそ見をした時にシャッターが切られたのだろう。
千郷はその少年を、どこかで見たことがあると思った。
少し哀しげな目と、滑らかな線を持つ横顔。
——そんなはずないよな? ・・——
戦争中の時代の少年たちを扱った、TVのドキュメンタリー番組の中だったろうか?
もちろん、気のせいにすぎないだろう。
千郷は何気なく、少年の名前を記憶した。
加納敬吾。
——おじいちゃんの学友・・いや、戦友かな。でも戦争には行かなかったっていうから、やっぱり学友かな ——
「説明しましょうか? 」
まだ写真をのぞき込んでいた千郷は、後ろからそう声をかけられて振り向いた。
「何かわからないことがあったら、気軽に聞いてください 」
長身の男が立っていた。
グレーのズボンに、白いワイシャツ。
地味なネクタイ。
ワイシャツの胸に、ネームプレートを付けていた。
加納。
その名前は、その時点ではまだ、千郷にとって何の意味も持っていなかった。
ただ、心もち首をかしげた端正な男の顔が、千郷にひとつの場面を思い出させた。
水割りのグラスが床に、音もなく落ちるシーン。
「あれ? あなたは・・ 」
あのバー “ NO NAME “ で、隣合わせに座っていた男だった。
一つ目の偶然。
「どこかでお会いしましたか? 」
男は覚えていないようだった。
「ホラ、” NO NAME “ って店で、水割りをこぼして・・ 」
千郷は、おとといの夜のことを説明した。
「ああ、あの時の・・すみませんでした 」
「いいえ。ここにお勤めなんですか? 」
「勤めているというわけでもないんですが。
資料の整理を頼まれているので・・時々こうして館内を歩いて回るんです 」
加納は、どう見ても自衛隊関係者には見えなかった。
一昔前の小学校の先生のように見えた。
「観光ですか? それとも何か調べもので? 」
加納がきいた。
「ええ、まあ、観光といえばそうかな。 従兄弟が佐世保にいるんで、春休みに遊びに来たんです。 5つ年上だけど気があって 」
冷たい感じがした加納は、微笑むと急に幼い顔になる。
加納が視線を合わせ、濁りなく澄んだ真っ黒の瞳が、千郷をとらえた。
—— 絵に描いたような美しい顔なんて、今まで少女マンガの世界にしかないと思っていたのに ——
デッサン用のスケッチブックを持ってきていたら、すぐにこの場で描きとめたろう。
「僕の祖父ですよ、これ 」
動揺した心をさとられないように、千郷は話を変え、一枚の写真を示した。
二つ目の偶然。
いくつかの偶然が重なり合うようにして、千郷をここへ呼び寄せ、ふたりを逢わせたのだと
いうことに、彼はまだ気づいていなかった。
別々の時間の流れが、この建物の中で確かな接点を持って、交わったかのように。
ふいに、千郷は思い出した。
さっき、目を止めた写真の中の少年。
誰かに似ていると思ったのは、加納というこの男だった。
“ NO NAME “ という店で見た、驚くほど端正な顔。
あの夜の男に似ていたから、心に引っかかったのだ。
「加納って・・じゃあ、こっちのこの写真の人、加納さんのおじいさんじゃないですか?
ねえ、この人・・ここの・・ちょっと横を向きかけてる人・・ 」
千郷は、加納敬吾という名前のある写真の方へ戻って、一人の少年を指さした。
「似てますよ、すごく。 おじいさん? 」
「違います 」
加納ははっきりそう言った。
「え、そうですか? でも親戚じゃないんですか? そっくりだけどな・・ 」
写真から顔を上げた千郷に、加納は言った。
「その写真の少年は、僕です 」
「え? 」
次の瞬間、からかわれたのに気づいた千郷は、少し気分を害して黙り込んだ。
「では、ごゆっくり。 僕は奥の資料室にいますから・・何かあったら、呼んでください 」
加納はそう言って、千郷のそばを離れて行った。
「え? 何だ、あれ 」
気取ったイヤな奴じゃないかと思いながら、
やっぱり気にかかるのは何故だろう。
千郷は、もう一度、加納敬吾の写真に見入った。
「やっぱり似てる・・そっくり・・ 」
つぶやきながら歩き出した。
館外に出るところで、思い出したように中へ戻り、祖父の顔をもう一度、じっくり眺めてきた。
出る時に奥を覗いたが、加納の姿は見えなかった。
第 3 話に続く・・・
最初のコメントを投稿しよう!