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乗っ取り
「勇太は今どこにいるの?」
聞こえた声にはっとして目を開く。向かいには妻、明子が強ばった顔で座っている。
いまいち状況が分からない。俺はうたた寝でもしていたんだろうか。
今いるのは俺の家のダイニングだ。『俺がどこにいる』とはどういう意味だ。
「さあ? 俺には分からないな」
俺の声がした。だが俺は喋っていない。
「死んだんじゃないの」
また、俺の声。
「この体は完全に俺の制御下にあるし、お前のダンナの意識は感じられないよ」
ちょっと待て。どういう意味だ。明子のダンナは俺だ。俺の口はどうかしちまったのか?
口に触れようとしてーー手は動かなかった。1ミリも。なぜだ。なぜ俺の手は動かない。
「それなら乗っ取り、成功なのね」
明子が嬉しそうに言う。
「そうみたいだ」また俺の声。
どういうことだ。乗っ取りとはなんだ。
と、視線が揺れた。テーブル上の古くさい本のようなものが見える。背を糸で綴じてある和装本で、染みだらけだ。
明子のものだろうか。彼女は大学のときに民俗学関係の卒論を書いたと聞いたことがある。
「まさか卒論のときに集めた資料が役に立つとはね」
明子がふふっと笑う。やはり彼女のものらしい。
というか役に立つとはなんだ。段々と不安になってくる。
「あ、来たんじゃない?」
明子の声に俺の視界は動き、窓が見えた。かすかに救急車のサイレンが聞こえる。
更に視界が揺れる。立ち上がったらしい。リビングに向かう、俺。ソファに男が寝ている。
その顔が見えたとき俺は息をのんだ。
明子の不倫相手、高坂省吾だったのだ。
彼女の不倫を疑い始めたのは半年ほど前。業者を雇う金はなかったから、ひとりで出来る範囲で彼女の行動を監視し続け、最近ようやく相手を特定したところだ。どうやら高校時代の同級生らしく、顔もスタイルも俺より良い。
その男がどうしてうちで寝ているんだ。
「やっぱり俺ってイイ男だよな」と俺の声が言う。「なのに、こんなつまんない顔面になるしかないなんて」
「死んじゃうよりいいじゃない」
ふにっと頬に柔らかな感触。明子がキスしたのだ。
ピンポーンとドアチャイムが鳴る。
「来たわ!」と明子が俺から離れて玄関に向かった。すぐに救急隊員を連れて戻ってくる。
「最初は飲みすぎで寝ちゃったんだと思ったんです。でも気づいたら様子がおかしくて」
明子は目に涙をためて隊員に説明している。《俺》がその肩を抱く。
「余命がどうのと話していたよな?」
「ああ、そうそう。末期ガンで余命三ヶ月と診断されたって言っていました。そのせいですか? 何か関係ありますか?」
どうやら高坂はうちに来て三人で酒を飲んだあとに意識不明となり、明子が救急車を呼んだらしい。
だが俺はヤツとここで会った記憶なんてない。
『一体どういうことだ!』
必死にそう叫ぶが声にならないし、誰の耳にも届いていないようだ。
恐ろしい疑念が膨れ上がる。
明子の不倫相手、高坂。
高坂は余命三ヶ月。
勝手に動く俺の体。
俺が動かせない俺の体。
乗っ取り成功。
俺は今どこーー死んだんだろ、との会話……。
やがて高坂は担架に乗せられて連れていかれた。
明子は隊員に付き添いを頼まれ、バッグを手にした。すっと《俺》に近寄ってくる。
「ちょっと行ってくるわね」
「ああ、気をつけて」と答える《俺》。「この体に慣れるようにしておく」
「がんばって」明子が俺にキスをする。
「またあとで、省吾」
明子は幸せそうに微笑んだ。
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