或る女優の人生

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拝啓、寿スミレ様 突然お手紙を差し上げる無礼をお許しください。 万葉座でのステージを最後に、あなたが突然表舞台を去ってから早二十年の歳月が流れました。 今、どこで何をしていらっしゃるのでしょうか。 私にとって、あなたの存在は神に近しいものでした。 華々しく可憐に立つその姿は、同じ人間とは思えない。 初めてあなたの姿を観たその時、私は十二歳でした。 忘れもしない、一九九九年の舞台「風と共に去りぬ」。中学校の課外授業でした。 こんな田舎に東京の大劇団がやってくる、と、当時の私たちの興奮といったら。あなたも想像がつくでしょう? “息が止まるほど美しい”という言葉の意味を、その時身をもって知りました。 その瞬間から、あなたは私の憧れで、すべてになったのです。 家に帰り、興奮のままに「女優になりたい」と口にした時の祖父母の顔は忘れられません。 いつも温かく、溺愛といっても過言ではないくらい、私になんでも与えてくれたふたりが、顔面蒼白、石像のように固まってしまったのです。 きっと一瞬のことだったのでしょうが、私はその瞬間を生涯忘れることはないでしょう。 祖母はさめざめと泣き、祖父は蛙の如く目をひん剥いてものすごい剣幕であなたを罵倒し始めたのです。ふたりはあなたのことを「ろくでもない女だ」と心底嫌っている様子でした。 当時はその理由はわかりませんでしたけれども、今となっては、それも当然のことでございましょう? それでも私はあなたへの憧れの炎を消すことはできず、祖父母に隠れて、あなたのステージを見続けました。 そんな私の支えてくれたのは、叔父でした。 ……いえ、あれは叔父だったのでしょうか。 私にはわかりません。 ともかくも私は、それ以来あなたのステージは欠かさず観てきました。 二〇十二年の『アンナ・カレーニナ』は素晴らしかった。少女時代から母・女としての姿まで、匂い立つような名演。 もっとも、十五歳の私には難しい話でしたけれども。 二十歳の時、あなたの姿を追って、劇団に入りました。 その時すでに祖母は亡くなっていましたが、祖父は猛反対いたしました。 幼いころから大切に大切に、育ててくれた祖父には感謝しております。 けれども、私ももうニ十歳。一般には成人の年齢でしょう。私は祖父の反対を押し切って、自分の道に進みました。 祖父の名誉のためにお伝えしますけれども、祖父は最後まで、私に真実を告げることはありませんでした。 私が真実を知ったのは、劇団員になって二年目のことでございました。 業界に身を置くと、嘘だか本当だかわからない、多くの噂話が入ってくるものなのですね。 まことしやかに、業界最大のタブーとして囁かれていたのです。 「寿スミレには子供がいる」と。 最初は信じておりませんでした。だって、誰が信じましょう。 あの女神が、子供を産んだことがあるだなんて。 そして本当は、自分の腹を痛めて産んだその子を、生まれてすぐ捨てるような夜叉のような人だなんて。 二〇十九年の映画『或る女の死』で魅せた母としてのあなたの姿は、日本中、いえ、世界中で聖母の如きと賞賛されていたのですから。 しばらくして、私の元に一人の記者がやってきました。 ああいう方々は、どうしてこう、鼻がきくのでしょうね。場末の劇団の私の存在なんて、とるにたらないものでしたでしょうに。 唯一、心当たりがあるとしたら、これもまた噂話から始まるのです。 「“劇団ひとつよ”の山本瑞枝はデビューしたての寿スミレに似ている」 当然といえば当然でした。 だって私の演技も、立ち居振る舞いもすべて、初めてあなたを観たあの瞬間から、あなたのものだったのですから。 私は、ずっと、あなたになりたかったのです。 ともかくも、その記者によって、私は初めて少しの疑惑を向けました。あなたに。 でも、誤解しないでください。 私は、あなたに迷惑をかけたかったわけじゃない。 あなたの潔白を証明するために、真実を知る決意をしたのです。 私は探偵を雇い、あなたの周りを探らせました。 一人目、二人目は、成果を持って帰ってくることはありませんでした。 あなたもそれはご存知でしょう? 不思議なことに、彼らはいつの間にか消えてしまうのです。 三人目で、ようやくあなたの片鱗を手に入れました。 ええ、もちろん違法だと知っています。けれど、少しの皮肉を込めるとすれば、あなたも散々、やってきたことでしょう? 少しは目をつぶってくださいね。 私はDNA鑑定をしました。 結果は……あなたもご存知でしょう。 まもなく最初に私の元を訪れた記者も、三人目の探偵も亡くなりました。 私がこうして生きているのは、私が業界のドンと囁かれる大手プロダクションの目に留まったからでしょうか。 幸運だったとしかいいようがありませんね。 寿スミレ様、 いえ、山本美知枝様。 祖父もすでに亡くなっておりますから、もはや憶測でしかありませんが、きっと祖父は、あなたを愛していたのです。いえ、祖父だけではありません。祖母も、叔父も、愛していたのです。私と同じように、女優・寿スミレを。 真実を知った後、あなたの姿を見る度、私の心は締め付けられましたが、それでも、山本美知枝ではなく、寿スミレを愛し、尊敬していたからこそ、私はここまで過ごすことができたのです。 それなのに。 「寿スミレが引退した」 その一報を聞いた時の私の心は、お判りいただけるでしょうか。 奇しくも私がようやくデビューする。その年でしたね。 あなたにとって私は、なんだったのでしょうか。 舞台に上がることこそ人生。 寿スミレはそういう人間ではなかったのですか。 そのために私は捨てられたのではなかったのですか? そんなあなたがなぜ、表舞台を去ってしまったのでしょうか。 私はずっと、あなたの影を追っていました。 いえ、いつからか、追われていたのかもしれません。 あなたは私のすべて。 私は、十二歳の時からずっと、あなたの背中を追い続けてきました。 あなたは私の未来だったのです。 だから、あなたが私の前から姿を消したその時から、私は道を失ってしまった。 あなたの姿を知るその時までしか、私は道を作ることができなかったのです。 そう考えれば、この結末は、当然のことでございましょう? 最後にひとつ、あなたに伝えたいことがあり、筆をとりました。 きっとここまでで、すでに伝わってしまっているでしょうね。私は昔から感情を隠すことが苦手なのです。 あなたと同じように。 「山本瑞枝は寿スミレを愛していました」 あなたがどこかで健やかにお過ごしであることを祈って。 敬具 *** 『―――令和を代表する名女優と詠われた山本瑞枝さんが昨夜、都内の病院で亡くなったことがわかりました。四十五歳でした。早すぎる死に各界から嘆きの声が聞こえています。山本さんは二〇二一年、舞台「風と共に去りぬ」でデビュー。その年の新人賞を総なめにし、平成の大女優・寿スミレの再来と言われました。昨年、映画「或る女の死」リメイク版に出演し――』 完
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