何をなくした

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電話の呼び出し音で薄っすらと意識を取り戻した。とてつもなく眠い。おれは電話に出るつもりなど全く無く、ほっとけばすぐに切れるだろう、思って、再び布団をひっかぶった。  ところが電話が鳴り止む様子は全く無い。諦めて枕元の時計を見ると、午前四時を少し回っていた。  手負いのトドのようにゆっくりと立ち上がったが、バランスを崩してベッドに倒れ込んだ。昨日の酒がまだ残っているらしい。再度立ち上がると、重たい頭をグラグラさせながら数歩歩いて電話に出た。 「今どこにいる?」  おれの家に電話をかけておいて、おれの居場所を聴くなんてどういうつもりだ。アルコールの残った頭でぼんやり考えていた。 「今どこだ?」  冷静に、単刀直入に。目的だけを聞き出そうとする様は、最近観た刑事ドラマの取り調べをおれに思い出させた。 「あんた誰だ」ようやく声が出た。 「今どこだ?」  質問をしているのはこっちだ、お前の問には答えるつもりはない。とでも言いたのか、相手はおれの質問をまるで聞いていないようだった。 「今どこ・・・」 「家に決まってるだろう」相手の声に被せるようにおれは言った。 「おれがおれの家の電話に出ているんだ。おれがおれの家にいるのは当たり前だろう」  言い切って、おれは喉がカラカラなのに気がついた。キッチンにある飲みかけの水を取ろうと手を伸ばすと、また相手が言った。 「お前の家はどこだ?」  おれは水をゆっくりと飲み干し、蛇口をひねってもう一度コップに注いだ。さらに飲み干すと、一呼吸置いてから答えた。 「さあ、どこだろうな」まともに答えてやるつもりは無い。 「お前の家はどこだ?」  手慣れているのか、それとも恐ろしいほど暇なのか。あれだけ待たされても感情は一切乱れてない。 「そんなに俺に会いたいか?」どうせ会うつもりは無いくせに。 「お前の家はどこだ?」  おれは灰皿からシケモクを一本取り出すと、口にくわえて火をつけた。三回ほど煙を吐き出し、ふたたび灰皿に突っ込んだ。  電話はまだ切れていない。 「探偵なりなんなりを使って調べればいいんじゃないか、この電話番号を使って」  女のひとり暮らしなら恐怖のひとつも与えることができるかもしれない。しかし、おれのような四十代半ばのむさ苦しい男と会話を続ける意味はなんだろうか。 「お前の家はどこだ?」  おれは黙って受話器を置いた。ベッドに潜り込み、もう少しだけ眠ることにした。  ※※※  「・・・」  目の前の男が言った。男といってもそいつは真っ黒で男か女かも分からない。声がおれにそっくりなので、おそらく男だろう。身体の輪郭もなんだかぼやけていて薄っぺらい。そんな気がするが、そうじゃないかもしれない。なぜおれはそんなことを考えているのかも定かではない。とにかく目の前に黒い人間のような塊がゆらゆらと存在している。  そういえばこいつはなんだ? 「・・・」  おれの目の前にある黒い塊から声が聴こえた気がした。黒い塊は気がつくと人間のような形になっている。しかし、どこか薄っぺらい気がする。輪郭はぼやけてゆらゆらとしている。なんとなく蜃気楼を思い浮かべた、なぜ蜃気楼を思い浮かべたのか理由は分からない。眼の前には黒い塊がゆらゆらと揺れている。 「・・・」  おれは何か忘れているのか。何を忘れているのだ。忘れている? 何をだ。  目の前には黒い塊があるような気がしたのだが、どうやら真っ黒な人間らしい。しかもそれは薄くペラペラのようだった。ゆらゆらと揺れて全体的にぼんやりとしているような気もする。はたしてそれは人間なのだろうか、どうしておれはこいつを人間だと思ったのだろうか。そういえば、目の前にあるゆらゆらしている黒い塊はなんだ?  なんだとはなんだ?   何かがうるさい。
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