何をなくした

3/9
前へ
/9ページ
次へ
 目覚まし時計の音で目が覚めた。珍しく二度寝はしなかった。あのおかしな電話のあと、数時間だけ睡眠をとったおかげでだいぶ酒も抜けたようだ。喜ばしいことに二日酔いの気配も無い。まるで十連休の二日目の朝のように清々しい朝だった。  トーストを焼いている間にコーヒーを淹れた。ちょうど残っていた卵を使って目玉焼きも作った。食べ終わるとすぐに食器を片付け、ここ数日分の食器も一緒に洗った。身支度を軽く済ませると、自宅を出るまでの間くつろぐ。ニュースを観たあと、こんなにゆっくりとした朝は何年ぶりだろうかと思わせるような自宅を後にして、おれは会社に向かった。  会社についても清々しい気持ちが続いており、始業ベルが鳴るのを待ち遠しく感じる。部下たちはすでにおれがいることに驚いているが、一番驚いているのはおれである。始業ベルが鳴ると同時に、おれのまわりがゆっくりになった。いや、おれの集中力が極端に増した結果、自分以外を遅く感じてしまうのだろう。  後回しにし続け、溜まりに溜まった仕事を午前中ですべて片付けると、普段なら三日はかけるであろう業務を小一時間で終わらせた。部下も上司も驚いていたが、何よりおれが一番驚いている。  毎日これくらい働いてもらいたいものだね、という上司の嫌味に対し「もちろん、これからはそうさせていただきます」そう言って、これ以上ないだろうという笑顔を返した。  怯える上司を後にして、おれは部下たちひとりひとりに労いの言葉をかけ、定時きっかりになると退社した。今日のおれは、一体どうしてしまったのだろうか。  帰宅したが夜飯までは時間がある。おれは着替えを済ますと、ジョギングをするために家を飛びだした。  あれほど嫌いだった運動も楽しくて仕方がない。すれちがう人々と挨拶を交わし、同じ場所を走っていた女子大生と小気味よい会話を楽しんだ。下心を一切見せず、若い女性と会話をしている自分が不思議でならない。  本当に、おれはどうしてしまったのだろうか。もしかするとこの間の神社で、お賽銭に百五十円を入れたのが良かったのかもしれない。  なんてことを考えていると、女子大生から電話番号を聞かれてしまった。しかしそれでも、おれは下心を見せることはなく、とても自然にさよならを言うことができた。本当におれはどうかしている。  ベッドに潜り込むと、心地よい眠気がおれを包んでいった。  ※※※ 「・・・」  目の前の男が言った。男と言ってもそいつは真っ黒でペラペラの塊だった。かろうじて人間の形をしているが、声がおれにそっくりでなかったら男だとは思わなかっただろう。  目の前には黒にペラペラしたものがある。 「・・・」  黒い塊が、おれに向かって何かを言っている。しかし、聞いた途端に忘れてしまうのだから何を言っているのかはわからない。  目の前には黒いペラペラした塊がゆらゆらと揺れている。それはおれとそっくりの声で何かを言っている。おれとそっくりな声をしているから、こいつはたぶん男なのだろう。もしかしたらおれ自身なのかもしれない、それくらいおれにそっくりの声をしている。 「・・・」  さっきと同じことを言っているが、やはり聞いた途端に忘れてしまうようだ。  これは夢だ。おれは夢を見ている。夢の中で空を飛ぶことが夢だったおれは、さっそく空を飛ぼうとした。  おれはふわりと浮き上がるとそのへんをビュンビュン飛び回った。そのへんと言っても、夢の中なのでぼんやりとしてよくわからない。  目の前には黒い塊があり、人間のような形でゆらゆら揺れている。 「・・・」  ぼんやりとした輪郭のこいつは、何かを言っている。かろうじて人型のそれは、まるでおれの声にそっくりだった。  おれは夢の中でいつか空を飛んでみたいと思っていた。一メートルほど浮き上がると、そのへんをぐるぐると飛び回った。 「・・・」  黒い塊が目の前で何かを言っている。ゆらゆらと揺れているそれは、まるで人間のような形をしていた。声はおれにそっくりで男のように思えた。空はもう飛べなかった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加