甘雨

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未来はミラー越しに困ったような視線を送ってくる運転手を見ながら、困っているのはこちらの方だと思ったが、仕方なく最寄駅を告げると藤森に背を向けるようにして外に目をやった。 「さっき村上さんが言った通り、女性と見ればとりあえず一度は口説きます。でも全く脈のない女性をこうして送るのは初めてですよ。」 こちらにお構いなしに喋り続ける藤森の強引な態度に、未来は少しだけ怖くなった。 「単純に興味が湧いただけです。結婚している女性にさすがに手は出さないけど、そうでなければ僕にもチャンスはあるかもしれない。」 「ありません。」 未来が言うと、藤森は続けた。 「その指輪をくれた彼が初めての相手じゃないはずだ。気持ちは変わるかもしれない。」 青島の名前を出してみようかと未来は思ったが、今更だし、何より青島に申し訳ないと思い、ため息をついた。 「そうは言っても僕は送っていくだけです。そう頑なにならないで。」 藤森の言葉に、未来は自分が自意識過剰なのかもしれないと思えてきて、変に意識するのはやめようと思い直した。 「おつき合いしている方はいないんですか?」 とりあえず姿勢を直した未来は、運転手の頭を見ながら尋ねた。 「募集中です。他の女性を口説く気がなくなるような気持ちにさせてくれる(ひと)を、探してる。」 未来は思わず藤森の顔を見て、慌てて視線を前に戻した。 「私が固いのかもしれませんが、誰彼構わず声を掛ける男性は、その…。」 さすがに今日会ったばかりの男性に、信用出来ないなどとは言えず、未来は言い淀んだ。 「あなたは優しいね。でもこうでもしないと一歩前には進まない。今日いたメンバーの中で中西さんの印象に1番残るのは僕だ。」 まともに取り合っていても無駄だと、未来はやっと気付いて、藤森の話を聞き流すことにした。 やがて駅に着いて、タクシーの運転手に待つように言った藤森が車から降りたのを見計らって、未来は運転手に千円札を数枚手渡した。 「近いの?大丈夫?」 「ええ、電車を降りていつも歩きですから。ありがとうございました。」 「これに懲りずにまた参加してよ。そうじゃなきゃ個人的に会いに来ないといけなくなる。」 未来が何かを言い掛けた時、タクシーのすぐ後ろに車が止まり、藤森は怪訝そうに振り返った。 しかし運転席から降りて来た男性の顔を見た途端、二人は揃って声を上げた。 「宏さん、どうして。」 驚いた顔で、今度は未来の方を振り返った藤森の脇を通り抜け、未来の肩をこれ見よがしに抱いた青島は口角を僅かに上げた。 「こちらは?」 未来はしどろもどろになりながら、藤森の名前と社名を紹介して、交流会があったことを手短に話した。 「本田さんの所ですか。フォアフロント企画の青島と申します。お会いしたことはありましたか?」 「は、はい。一度、ご挨拶をさせて頂きました。」 藤森は直立不動で、先ほどまでの余裕は微塵も残っていない。 「彼女は私のことを話しませんでしたか。そうですか。わざわざ送ってきて頂いてありがとうございます。」 相手の反応など全く求めていないような青島の口ぶりに対して、藤森は律儀にはいはいと首を縦に振っている。 それから開いたままのタクシーのドアから運転手に何やら話し掛けた青島は、千円札を数枚手にして藤森に言った。 「彼女が運転手に渡していた分は回収させてもらって、私からどこへ帰るのも困らない金額を渡してあります。男性の好意を踏みにじるような可愛げのない奴ですが、これからもよろしくお願いします。」 「はいっ、おやすみなさいっ。」 また酔いが覚めただろうな、と去って行くタクシーを未来は見送りながら、大きくため息をついた青島に、びくっと体を震わせた。
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