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はじめまして、田代さん
不味いスープを飲み干して、母さんとイラおばさんに見送られて、僕は人間として町へ出た。後ろ足だけで歩くことにも次第に慣れて、僕は田代さんの元へと向かった。いつもより鼻が利かない気持ち悪さがずっと残っていた。
田代さんが働く「区役所」という場所は公園を抜けて、橋をわたり、ひとつ信号を渡ったところにある。人間ならだれでも入ることができる場所なことは前に田代さんの後をついていったことがあるから知っている。
区役所に向かう道中で、僕の視界に異様な光景が映り込んだ。
周囲の車よりも明らかに速い車がこちらの方向に迫るようにして飛んでくる。目の前には今まさに横断歩道を渡っている人間の女の子がいる。このままだとぶつかる。段ボールを抱えていて、重さのせいか顔の高さまで持ち上げているから、迫ってくる車に気づいていない。
言葉は出なかったが、大声で叫んで走り出し、段ボールを奪い取って女の子の手を全力で引っ張った。女の子は進行していた方向に無理やりに引っ張られるようなかたちで態勢を崩した。二人して倒れこむようにして車を間一髪でかわした。
走り去る車を見て女の子は事態を察した。そして、泣き出した。
段ボールの中身は5匹の子猫だった。こちらを見つめている、ような気がした。何はともあれ、人間と猫を助けられてよかった。泣き止んだ女の子に段ボール箱を渡して、いつも田代さんが自分にそうしてくれるように頭を撫でた。
◇◇◇◇◇
区役所に着くと、犬だった時には反応しなかったドアが自動で開いた。田代さんを探す。
「何か、ご用でしょうか。」
分かる。人間の言葉が分かる。意味も簡単に理解できる。
「田代さんはいますか」
しゃべれる。思い浮かべるとそのまま口が動く。
少しお待ちくださいと言った女性が駆け足で向かった先に田代さんがいた。田代さんは不思議そうな顔をしていたが、そのあとにいつものような優しそうな笑顔でこちらに駆け寄ってきた。
「田代です。どういったご用件でしょうか?」
「あ、あの、えっと、話がしたくて。」
「わたしと、話ですか?」
会話が途切れてしまった。今すぐにでもお礼をしたいけど、辺りに急に人が増えてきて、さっき話した女性もチラチラとこっちを見ていて、気まずい雰囲気になってきてしまった。
田代さんが口を開く。
「今からお昼休みなんです。少し外に出ましょうか。」
◇◇◇◇◇
ベストなタイミングなど待っていても来ないと思い、単刀直入に打ち明けた。
「実は僕、昔、田代さんに助けてもらった犬なんです。人間の言葉で直接お礼を言いたくて今日は来たんです。」
田代さんと入ったレストランで、田代さんはカレーとコーヒーを、僕はミルクだけ頼んでもらった。田代さんはカレーのルーとご飯をぐちゃぐちゃにかき混ぜていた手を止めて、こちらを見ている。
「えっと、いつの話?」
おそらく犬と言ったのは何かの聞き間違いだろうと考えて、助けた時期を訪ねてきたんだろう。
「2年前です。」
「どんな風に?」
「えっと、僕がトラックの前に出てしまって、そこに田代さんが現れて・・・」
その瞬間、田代さんが噴き出すようにして笑った。大きな笑い声がレストラン全体に響き渡る。
「もしかして、ワン坊か!」
僕のことをワン坊と呼ぶのは、トムおじさんだけだ。
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