君の幸いを願う

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「あなたは今、どこにいるのですか」  顔を上げ、懐かしい声の主を見た瞬間、僕は震えた。 ——なぜ彼女がここに。  そこにいたのは、1年前に別れた彼女だった。  いや別れたというより、僕が彼女の前から姿を消したという方が正しいか。  大学在学中に付き合い始め、5年間という、若い僕らにとっては決して短いとは言えない時間を共にした。  何もなければ、将来を共にしていたのだろうと思う。  でも1年前、僕は彼女の前から姿を消した。  彼女に繋がる縁を全て断ち切って。  今の彼女に僕の居場所を知る術などあるはずがない。  僕は連絡先を全て変えているし、勿論彼女に伝えていない。  身内はもう姉しかいないし、その姉の連絡先は知らないはず。  共通の友人・知人とも別れてから一切連絡先を交換していない。  あと、僕の行方を捜す術があるとするなら。  過去の会話の中の僅かな手がかり。  そこにここへ導く要素があったのか、さすがに覚えていない。  だが、彼女はここにいる。  記憶という僅かな手がかりで、辿り着けたのだろう。  ある意味、凄まじい執念だ。  彼女は、ずっと僕を探し続けていたのか。  僕にも心当たりのない僅かな手がかりを掴みながら。  1年という短くない時間をかけて。 ——自分を黙って捨てた薄情な男など忘れて、次の幸せを掴めばよかったのに。 「貴方が、」  彼女の言葉に意識が引き戻される。 「貴方がたった一度、ご両親のお墓にご挨拶に連れて行ってくれたとき、命日に姉弟で墓参りをするという話をしていなかったら、本当に何もわからないままでした」  僕は納得した。  彼女が唯一得られた手がかり。  両親の命日はつい先日だ。その日に姉に会って、僕の手がかりを得たのだろう。  姉は彼女の写真を見たことがあったし、僕らの別れの過程を知っているから、全て伝えたのだろう。  続ける彼女の声は震えていた。 「貴方に会って別れの理由を問いただしたかったのですが、まさか……」  彼女の眼から、涙がこぼれる。 「こんな形で知ることになるとは……」  彼女は顔を覆い、堪えきれずに嗚咽する。  僕は堪らず彼女に手を伸ばすが、その手はするりと空を切ってしまった。 ——ああ、僕はもう触れることはできないのだ。  彼女に触れることも、その眼に映ることも、言葉を届けることも、叶わない。 ——あなたは今、どこにいるのですか。  ごめん、最初の問いには答えることはできない。  彼女の目の前にあるのは、僕の姿ではなく、僕の墓。  僕は、もうこの世にいない。    1年前。  彼女と別れる寸前、僕は倒れた。  余命半年と告げられ、僕は彼女と別れる決意をした。  学生時代、まだ付き合っていない頃に、何かの映画かドラマかの影響で、もし好きな人が余命僅かだったらという話を、仲間内でしたことがあった。  皆、「好きならずっと一緒にいるんじゃない」とか「でも残されるのはつらいよね」とかいろいろ話していたけれど、彼女の答えは、はっきりしていた。 ——その人が余命僅かだとしても、最期まで一緒にいます。 ——好きな人といる時間は、何よりも愛おしいものですから。  優しくて、力強い言葉。  皆に「一途だね」とか、「後がつらくない」とか色々言われていたけれど、彼女の答えが揺らぐことはなかった。  その姿に、僕は惚れた。  余命半年を告げたら、間違いなく別れ話に応じない。  でも、先の短い僕に彼女の時間をこれ以上使わせたくない。  だから、黙って姿を消した。  彼女には次の幸せを掴んでほしかった。 「本音は色々言いたいのですが、黙って姿を消して、勝手にどこかに行ってしまった貴方の気持ちはわかりますから、何も言いません。」  いつの間にか泣き止んだのか、彼女は真っ赤に泣きはらした目で、僕を——正確には僕の墓を見つめる。 「これだけは伝えます——貴方のこと、大好きです。最期まで傍にいられなかったことを悔いています。貴方を忘れることもないでしょう。——でも、いつまでも、めそめそしていると、貴方が気にするでしょうから、宣言します」  つい先ほどまで泣いていたとは思えないくらい、堂々と続けた。 「私、次の幸せを掴みにいきます」  僕は瞠目した。  彼女の宣言は、僕の願いそのもの。  僕は、笑った。 ——ああ、彼女にはかなわない。  彼女は全て理解している。  僕が何も言わずに姿を消した理由も、僕の想いも。 「大切な人との約束は、何よりも果たすべきことですから」  続けられた彼女の言葉に、在りし日の言葉が重なる。 ——好きな人といる時間は、何よりも愛おしいものですから。  僕も大好きだ、君のこと。  力強い真っ直ぐなその言葉も、揺らがぬその姿も。  愛している、だから僕も声なき声で伝えよう。 ——どうか、幸せに。 (了)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!