水彩少年の恋⑥

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水彩少年の恋⑥

 どう答えればいいのか分からず、何とも言えない沈黙が続く。優人は急かすことなく、じっと僕を見つめて待ってくれている。美術室までは後夜祭の喧騒も届かないから、水を打ったような静けさがただただ僕たちを包み込んでいた。 「……優人くんは、男が好きっていうわけじゃないんだよね?」 「うん、違うよ。透が男だから好きになったわけじゃない」 「だったら……、僕なんかより相応しいような女の子……、ううん、もしかしたら男だって、僕よりもずっと君に釣り合うような人がいるんじゃないかなって、思うんだ」 「……透は、それが不安なんだね。でも、それは俺だって同じだよ」 「……えっ?」  彼のイメージにそぐわない、でも、僕は不思議と彼らしいとも感じてしまうような、弱々しい声。それが紡いだ言葉に、少し驚いてしまう。  そんな僕を射抜く優人の眼差しは、相変わらず真摯で優しく、どこか切なげだった。 「俺だって、不安だ。俺よりももっとずっと優れている人間なんて、男女を問わずたくさんいる。今、透と付き合えたとしても、君は他の素晴らしい誰かに心移りしてしまうかもしれない。不安だよ。……でも、それでも、俺は透が好きだ」  好き。たったそれだけの飾らない言葉が、何よりも胸を震わせる。  好き。僕も同じだ。──どうしようもなく、君が好きだ。 「……僕も、君が好きだよ」  そう言葉にした瞬間、様々な感情が胸に押し寄せてくる。パレットに次々と様々な絵の具を絞り出していくように鮮烈で、その波に押されるまま僕は言葉を重ねた。 「最初は、遠くから見て密かに憧れるだけで良かった。それは恋だったかもしれないし、違ったのかもしれない。でも、『初恋』は確かに君へ向けたどうにもならない気持ちを描き上げたものだった。君に声を掛けられて、一緒に過ごす時間が増えて、君が思っていたような人じゃなかったことに驚いたりもしたけど……、でも、完璧じゃない君のことが好きだし、一緒にいるのが心地いい。君のどこが好きかなんて上手く言葉に出来ないし、僕はこれが初めての恋だからすごく重たく感じるかもしれない。……それでも、いいのかな?」  長々と語っている間に、優人は僕の傍まで移動して来ている。そして、彼は王子様のように跪き、僕の手を取った。 「透。俺も、初恋なんだ。君以上に重たい気持ちを抱えているだろうし、君のどこをどう好きかなんて具体的に言い並べられる気もしない。でも、透の隣にいる時間が何よりも幸せだし、大好きだ」 「……おんなじだね、優人」  彼の黒々とした瞳がはっと瞠られる。  自分でも無意識のうちに、彼の名前を呼び捨てていた。 「うん、同じだね。……同じだよ、透」  優人の目に涙の膜が薄く掛かる。潤んだ黒曜の瞳が綺麗で、惹きつけられるように顔を近付けると、彼の唇が寄せられて、僕の口をそっと塞いできた。  驚いて思わず身を引きかけた僕の腕を、優人がしっかりと掴んで逃がさない。逃げたいわけでもない僕は、そのまま彼に流されることにした。  ──ファーストキスは少しだけ震えていて、途中からちょっとしょっぱい、……そんな甘い思い出になった。  ◆◆◆  それから、十年の月日が流れた。  ◆◆◆  夕飯の支度の最終段階に差し掛かった僕は、台所の時計をチラリと見る。絵本の挿絵の仕事の納期が迫っていて、最近は優人の帰宅時間までに準備が間に合わないことも多かったけれど、今夜は良いタイミングで完成できそうだ。  有名商社に勤めてエリート路線まっしぐらな優人は、十年前から変わらずに僕を想ってくれているし、ずっと隣にいてくれている。互いの両親にもカミングアウトして、今は結婚しているも同然の同棲生活を穏やかに送っていた。  学生時代には何度か喧嘩もしたけれど、結局はお互いに離れられないという自覚を重ねて終わるという結末に辿り着いたし、今ではもう相手への理解度が高まっているから言い争うこともない。武蔵が呆れ半分に揶揄ってくるほど、僕と優人の仲は深まり熟していた。  高校の文化祭の後夜祭で付き合い始めたカップルは結婚するというジンクスも、あながち嘘じゃないのかもしれない。……あれ? 花火が上がっているときに結ばれないと駄目なんだっけ?  まぁ、いいか。なんにせよ、あの後夜祭の時間帯に結ばれて以降、僕と優人の赤い糸は固結びされたままなのは事実なのだから。  懐かしい記憶を思い出しているうちに、玄関で鍵が開けられる音が聞こえてくる。優人が帰ってきたんだろう。  コンロの火を止めて玄関へ小走りで向かうと、ちょうどドアが開いて彼が入ってくるところだった。目が合った瞬間、優人はとろけそうな笑顔になる。 「ただいま、透」 「おかえり、優人。今日も一日、お疲れ様」 「うん、透もね。仕事忙しいのに、ごはん支度ありがとう。いい匂いだなぁ、カレーかな?」  帰宅した彼に抱きすくめられて、耳元で機嫌よく話している声を聞く、この時がとても幸せだ。優人も同じように、僕に「おかえり」と出迎えられるときに幸福感を噛みしめるらしい。相変わらず、僕たちはこういう部分の感覚が同じだ。 「カレーだよ。いつもよりスパイシーにして、夏野菜の素揚げをトッピングするんだ」 「美味しそう! あー……、今日もすっごく幸せ。透、大好き」  高級なスーツを着てかっちりとキメている美男なのに、こうしている優人は高校生のあの頃に垣間見せた幼さを滲ませていて、なんだか可愛い。彼のこんな一面を知っているのは僕だけなんだと思うと、奇妙な優越感が湧いてきて幸せを乗算してくれる。 「僕も優人が好きだよ。……すぐ食べられるように準備するから、手を洗っておいで」 「はーい。でも、その前に……、ね?」 「ふふっ、はいはい。……おかえりなさい」  背伸びをしてキスをすると、唇を重ねたまま、彼は「ただいま、愛してる」と甘く優しく囁いたのだった。 【完】
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