試用期間アリの恋人①

1/1
66人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

試用期間アリの恋人①

深海(ふかみ)、ちょっといいかな」  放課後の美術室にて。美術部員も全員帰ってしまった中、急に声をかけられて僕は肩を震わせた。急に声をかけられたから驚いたのではない。声の主があまりにも意外だったからだ。  画用紙から視線を上げて振り返ると、窓から差し込む夕陽を浴びて真っ赤に染まっている同級生が立っていた。 「急に声かけちゃってゴメン。俺のこと、誰だか分かる?」 「知ってる。……時枝(ときえだ)くん」  時枝(ときえだ)優人(ゆうと)。おそらく学内で一番有名な人だ。二年生ながら生徒会長で、容姿が整っていて、勉強も運動も得意で、みんなに平等に優しい。本や映画の世界から飛び出てきたんじゃないかと思うほど完璧な人だ。  『優人』の名にふさわしく、全てに優れていて、全てに優しい人。――僕の、憧れの人。 「覚えていてくれたなんて嬉しいなぁ」 「……この学校で君のことを知らない人なんて、きっといないよ」 「ふーん。生徒会長だから?」  小首を傾げてこちらの様子を窺ってくる彼に対し、僕は曖昧に頷いた。  生徒会長でなくとも、彼は注目を集める人物には変わりないと思う。ただ、そう素直に賞賛することは躊躇われた。そこから僕が秘めている好意を透かし見られてしまったら、と思うと怖かったからだ。  僕を観察するようにジッと見つめてくる視線が息苦しくて、立ち上がり時枝と向き合う。 「美術室に、何か……?」 「えっ? ああ、違うよ。君に用事があったんだ」 「はっ……? ぼ、僕に、ですか」  思わず裏返り気味の声で、しかも敬語になってしまう。しまった、今のはあまりにも不自然だった。  心の中で滝のような冷や汗をダラダラと流していても相手の目にはこちらの焦っている様子など分からなかったようで、時枝はにっこりと微笑んだ。 「一緒に帰らないか?」  予想外の言葉に僕の思考は停止しそうになる。今までマトモに会話を交わしたこともないというのに。きっと彼は、かつて僕に消しゴムの半分を差し出してくれたことなんて忘れている。もしくは、あれが僕だったと気づいていないはずだ。  それなのに、まるで親しい友人に語りかけるような口調で、当たり前のように言い放った時枝の心が理解できない。  立ち尽くす僕へ、彼は促すようにもう一度言った。 「一緒に帰ろう、深海」  今度は問いかけではない。優しくて少々強引な声に、僕は無意識に頷いていた。  高校二度目の夏休みが終わって一週間。この日から、彼と僕の関係は大きく動き始める。  遠くから見つめるだけ、この想いはいつか消えてしまうだけ。そう思っていたのに。  ◆◆◆  美術室の戸締りをして職員室に鍵を返してから校舎を出ると、空の高い部分はすでに紫色に変わり始めていた。辺りの景色は夕映えで鮮やかな朱色に染まっている。  並んで立つと時枝の方が頭ひとつ分、身長が高い。自分の貧相な体格を密かに嘆きつつ、僕は時枝の後ろを歩き始めた。 「あれ、なんで後ろ歩くの? 一緒に並べばいいじゃん」  手首を掴まれて彼の真横に立たされる。一瞬とはいえ触れられた部分を意識してしまい、鼓動が速くなった。  校門に辿り着くまでの間に、たくさんの生徒がすれ違いざまに時枝に挨拶をしていく。そしてその度に隣に立つ僕を不思議そうに眺めていくから、居たたまれない気持ちになる。校門を抜けると生徒の姿もなく、静かな道が続く様に安堵して体の力を抜いた。  ふと感じた疑問を、僕は隣を歩く端正な横顔を見上げて投げかける。 「一緒に帰るって、どこまで?」 「深海の家まで送っていくよ。俺、君の家の近くの駐輪場にいつも自転車預けてるんだ」 「……僕の家の場所を知ってるのか?」 「知っているよ」  わけがわからない。何と言えばいいのか分からず困り果てる僕を宥めるように、時枝が僕の頭をポンポンと軽く叩いた。 「話しかけたのは初めてだけど、俺は前から君のことを知っていたし、もっと知りたいと思っているよ」 「どうして……」 「それは、これから話すよ。途中で公園に寄っていかないか」  俯きながら頷くと、それからしばらくは会話が途切れた。黙々と夕焼けの中を歩く。  チラッと時枝を見上げると、穏やかな瞳もこちらを見ていた。目が合ってしまって、頬が熱くなる。今が夕方でよかった。どこもかしこも赤い世界の中でなら、僕の顔が赤くなっていることなんて目立たないだろう。 「緊張してる?」  柔らかな口調で問い掛けられて、素直に頷く。 「そりゃ、まぁ……人と話すことに慣れてないから」 「そう。彼とはよく話しているみたいなのにね」 「彼?」 「圓山(まるやま)武蔵(むさし)。俺と同じ中学出身の奴だけど、君と仲良しなのかなって思ってたよ」  武蔵は学内で唯一の友人だ。お互いに人付き合いが苦手だから波長が合うのか、入学してすぐに仲良くなった。よく話しているといっても会話は途絶えがちで、ただ、黙って横にいても息苦しくない相手ではある。  そう伝えると、それを仲がいいと言うんだよ、と時枝は苦笑した。 「武蔵から僕のことを何か聞いたのか?」 「ううん、何も。ただ単に俺が君に興味を持っているだけ」 「……どうして?」  学校を出て十分ほど歩いた先の小さな公園に着く。公園といっても遊具は何も無く、ベンチと花壇があるだけだ。  ベンチに腰掛けて僕にも隣に座るように促しながら、時枝はのんびりと口を開いた。 「去年の夏、絵の全国コンクールで入選していただろ? ――初恋、ってタイトルの」 「あ……、うん」 「あの絵を見た時から、君のことが気になるようになったんだ」  『初恋』と名付けたその絵は水彩絵の具で描いた抽象画だった。自分の中に眠るどうしようもない気持ちを画用紙にぶつけた――僕にとっても、今まで描いた絵の中で一番特別な作品だ。  授賞式が終わった後しばらくは、作品と賞状が校長室前の壁に展示されていたけれど……、 「まさか、見てくれていたとは思わなかった」 「どうして? 俺だけじゃない。みんな注目していたよ。深海が気付いてないだけで、君は結構有名人なんだぜ」 「そんなこと、ない」 「ある。……ただ、みんな声をかけるのを躊躇っているだけだよ」  それはそうだろう。表情が乏しいうえに口数も少ないし、僕なんかに声をかけたって面白いことなんか何もないはずだ。 「僕は無愛想だから……仕方ないよ」 「いや、そうじゃなくて。深海が繊細で儚そうに見えるからじゃないかな」 「繊細……? 儚い……?」  自分ではそう思っていない。困りながら時枝をチラッと見ると、彼はふわりと微笑んだ。 「俺はまだ研究途中だけど、深海はけっこう天然で可愛い子だと思ってる。そして、思いやりのある子」 「そっ、そういうことは僕みたいなのじゃなくて、か、彼女にでも言いなよ」 「高校に入ってからずっと、彼女はいないよ」  意外だった。学年を問わず様々な女子に告白されているみたいだし、誰かと付き合ったことくらいあると思っていたから。  驚いてポカンと口を開けている僕の顔がよっぽど間抜けだったのか、時枝は楽しそうにクスクス笑う。 「そんなに意外?」 「いや、だって……モテるんでしょ?」 「さぁ、どうかな。でも今は彼女をつくる気にはなれないな」  不意に時枝の表情が大人びたものになる。僕がドキリとしている隙に、彼は体を寄せてきた。隣同士で座っていた半身がピタリとくっついて、心臓が暴れ出す。なんなんだ、この状況は。 「なぁ……深海は俺のこと、どう思ってる?」 「ど、どっ、どうって、何が?」  声がひっくり返り、舌を噛みそうな位どもってしまう。だけど、そんなことを気にする余裕がないほど僕は動揺していた。  もしかして、バレてしまったのだろうか。僕がひた隠しにしている恋心が見えてしまって、牽制してきているのだろうか。  身を強ばらせていると、耳元でクスリと小さく笑われた。微かな吐息に触れられて耳がくすぐったい。 「俺のことさ、『生徒会長』っていうのを抜かして考えて、どう思う?」 「ど、どうって……凄い人だと思うけど。何でも出来て、住む世界が違う人っていうか」 「ふーん。お褒めにあずかり光栄ですねぇ」  面白くなさそうに呟く時枝はいつもと別人のような雰囲気を纏っていた。相変わらずの甘い笑顔なのに、瞳がなんとなく意地悪だ。  怖いわけじゃないけど、何だか心がザワザワする。無意識に後ずさりしようとした僕の腰を引き寄せて、時枝はそのまま抱きしめてきた。 「な、何するんだよッ」 「俺と付き合ってみない?」 「な、なにがっ? どこに付き合えって?」 「俺の恋人になってみない? ……って言ってるんだよ」  意味が分からない。理解が追いつかない。頭の中がグルグルしている僕に追い討ちをかけるような発言が更に投げつけられる。 「とりあえずはお試し期間でいいからさ、俺の恋人になってみて?」 「お試しって……どういうこと、だよ」 「そのまんまの意味。俺を彼氏にしてみて、気に入らなかったら返品してもいいよ」  ふざけているのかと思いきや、彼の眼差しはまっすぐで真剣なものだった。でも、その発言内容はからかわれているとしか思えない。 「そ、そんなこと急に言われても……僕たちは男同士だし、その……困るよ」 「男同士で恋愛しちゃいけないって法律はないよ。それとも深海は何か宗教的な理由で拒んでいるの?」  僕は無宗教者だ。そんなんじゃない。法律や宗教云々じゃなくて、世間一般の共通観というか……とりあえず何の問題もないわけじゃないだろう。けれど、有無を言わさぬような時枝の発言は続く。 「男同士がどうのなんてくだらない理由は置いておいて、俺の申し出を断ろうとする正当な理由って何かある? 既に恋人がいるとか、心に決めている好きな人がいるとか、どう頑張っても好きになれないくらい俺を憎んでるとか嫌いとか?」 「恋人はいないし、好きな人は……その、い、いないし……時枝くんを憎んだりも嫌ったりもしてないよ」  むしろ時枝のことは好きだ。好きだからこそ、突拍子もなく「恋人になれ」などと告げられたら戸惑いも大きい。しかも、お試し期間、なんて言われたら、尚更。 「じゃあ、決まりだね。恋人として付き合ってみよう」 「ちょ、ちょっと待って。僕はいいなんて一言も言ってない」 「だって、断る理由が無かったでしょ。断らないってことは、承諾するのと同じことだ」  滅茶苦茶だ。それなのに、時枝の言葉にはどこか肯定せざるをえないような不思議な力を宿しているみたいで逆らえない。彼はこんな人間だっただろうか。  混乱している僕に向けて、時枝は極上の笑顔を見せた。 「気に入ってもらえるように頑張るからさ、これからよろしくね、(とおる)」  甘い微笑みと優しい声音でナチュラルに下の名前を呼ばれて、僕の心臓は痛いほどに高鳴ってしまう。  ああ、もう、逃げられない。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!