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試用期間アリの恋人④
――そして、放課後。
僕はいつも通りに文化祭に向けての作品の作業を進めていた。美術部の活動の規定はゆるく、文化祭に作品さえ提出すればいいことになっている。つまり、別に放課後に美術室でせっせと創作活動をすることを強制されたりしていない。よって、幽霊部員がほとんどだった。ただでさえ美術室は西陽が差し込んで気温も高いことから、まだ涼しいとは言いがたい今頃にやって来る物好きなんて僕くらいのものだ。もっとも、僕は騒がしくない場所で一人きりで没頭できる方が描きやすくていいのだけれど。
「人魚姫、か――」
ポツリ、と独り言が洩れる。僕が今作っているのは絵本だった。物語の内容は、人魚姫。美術の先生に絵本を作ってみるよう促されて、真っ先に思いついた童話がこれだった。
どうして人魚姫だったのかは分からない。もしかしたら、当時は優人に対して叶わぬ片想いを抱いて苦しかったからかもしれない。
「当時は、……か」
今は、どうなんだろう。僕の『好き』って気持ちは今はどうなってしまったんだろう。自分でも、よく分からない。
筆箱の中から思い出の消しゴムを取り出す。入試の日、優人が躊躇いなく真っ二つに割ってくれた消しゴム。あの日以来、お守りのようにずっと筆箱の中に入れていた。勿論、使っていない。普段は他の消しゴムを使っている。大切な宝物を元の位置に収めて、僕は小さく嘆息した。
その後はぼんやりしてしまって余りはかどらないうちに、優人が美術室に現れた。
「透、迎えに来たよー」
「生徒会終わるの早かったんだね。ごめん、すぐに片付けるから」
「いいよ、ゆっくりで。おぉ、相変わらず綺麗な絵だなぁ」
描きかけの絵を覗き込む優人はなんだか楽しそうだ。人に絵を鑑賞されるのは慣れてはいるけれど、自分の目の前でまじまじと見られるのはなんだか気恥ずかしい。
「『初恋』は、ほら…何だっけ、抽象画? みたいなやつだったけど、これはちゃんと人物とか背景とか描いてあるんだね」
「これは絵本だからね。『初恋』は……形に出来ないものを描いたものだから。僕はむしろ抽象画はあまり描かないんだ。『初恋』は僕にしてはかなり珍しい作品だよ」
「へぇ……これ、色鉛筆? 絵の具は使わないの?」
優人は興味深そうに水彩色鉛筆を手の平で転がした。水彩色鉛筆は色鉛筆としても使えるけれど、水分を含ませると水彩画のようなタッチを出せる。僕はそれを実際に画用紙の余白部分で実践して見せた。
「すごいね、こんなに面白い画材あるんだ。『初恋』もこれで描いたの?」
「ううん、あれは普通に水彩絵の具と絵筆で。いつもは水彩色鉛筆なんだけどね」
「……『初恋』は、君にとって随分と特別な絵なんだね」
その発言と、こちらを探るような優人の視線にドキリとする。何と答えたらいいものか悩んで視線を彷徨わせる僕に対し、優人はこちらをジッと見つめ続けているようだった。
「俺にとっては、あれは特別な絵だよ。なんて綺麗なんだろうと思った。絵も、その下に書かれていた『深海透』という名前も。……とても綺麗で、心を奪われたんだ」
なんて気障な台詞だろう。歯の浮くような言葉なのに、童話の王子様も逃げ出すんじゃないかと思うくらい優人には似合っていた。悔しいけれど、彼のまっすぐな眼差しはやっぱり格好いい。
「名は体を表すっていうけど、本当だね。深い海に眠ってる綺麗な宝物を見つけた気分だったよ、初めて透を見かけた時には」
「だからっ……そ、そういうのは女の子にでも言いなよ」
それに、優人が言っている『初めて』は初めてじゃない。僕はなんとなく悔しくて、やや乱暴に画材を片付けて立ち上がった。
「ほら、帰ろう」
優人の背を押して追い出すようにしながら、僕らは美術室を後にしたのだった。
◇
少しずつ秋らしい茜空になってきた夕景の中、歩道に長く伸びるふたつの影を踏みながら帰る。頭ひとつ分の身長差がある僕たちだけれど、影だともっと差があるように感じてしまう。
「そういえばさ、何かいいことあった?」
「えっ、どうして?」
「なんとなく、機嫌がいい気がする」
そうだろうか。僕は別に普段と変わったところはないと思う。でも、せっかく聞かれたのだからと記憶を辿ってみると、今日一番嬉しかったことは容易に思い出せた。
「土曜日に武蔵と遊ぶ、って約束したんだ」
「えっ……二人きりで?」
「うん、久しぶりだから楽しみだよ」
「何それ、ずるいっ」
不意に立ち止まった優人は両手で僕の肩を掴み、顔を覗き込んできた。僕も急に立ち止まる形になり、少しよろめいてしまったけれど、彼の手ががっしりと支えてくれているからか転ばずにすむ。予想外に顔が近すぎることに動揺して、僕の体は無意識のうちに逃げようとしたけれど、優人の手の力からは逃れられない。体格差はそのまま力の差になっているようだ。
「土曜日が圓山なら、日曜日を俺にちょうだい!」
「えっ……え、えぇッ?」
「日曜日、何か予定あるの?」
「え、いや、な、ないけど……」
「じゃあ、俺とデートしよう!」
デート、だって? 驚きの余り絶句している僕の横で、彼はウキウキと弾んだ声で言葉を重ねる。
「そうだよ、お試し期間とはいえ恋人同士なんだしデートくらいしなきゃね。透はどんなところに行きたい? 王道はやっぱり遊園地かなぁ。でも水族館とかもいいよね。見たい映画もあるし、色々と迷うなぁ」
「ちょ、ちょっと……待って」
肩にかかっている優人の指先を払いながら、僕は必死に制止の声を上げた。ここ一週間ほど、恋人がどうの試用期間がどうの、なんていう話題すら出ていなかった。ただの友達同士のようになってきて、僕はそれでもそれなりに満足していた。それなのに、今日の昼休みの辺りからどうもおかしい。二週間前、優人から声をかけられた日のように、妙にドギマギしてしまう。
「に、日曜日に遊びに行くんだよね?」
「ただ遊びに行くんじゃなくて、デートだよ」
悪戯を思いついた少年のような眼差しで優人は微笑んだ。
「記念すべき初デートだし、透が楽しめるようなプランを一生懸命考えるから。期待しててね」
それから僕の家の前で別れるまで、優人はずっと日曜日の予定について語りっぱなしだった。対する僕はというと、何を着ていけばいいんだろうとか、一日中だなんてそんなに長時間一緒にいたことがないから何を話せばいいんだろうとか、取り留めのないことをグルグルと考えて冷や汗をかいていた。
これじゃあ、まるで少女漫画的な恋する乙女だ。男なのに、こんな気分になるなんて。
――恋? やっぱり僕は優人のことが単なる友人以上に好きなんだろうか。
相変わらず自分の気持ちが分からないまま、僕は優人に「また明日」と告げた。優人も何を考えているのか分からない笑顔で「また明日ね」と返してきた。
今日は水曜日。明日明後日をどのように過ごして、土曜日に武蔵とどんな顔をして一緒に過ごして、日曜日は優人とどうなってしまうのか。混乱した思考がぐるぐると夕闇に溶けていくような気がして、僕は靴も脱がないまま玄関でしゃがみ込み、深々と溜息を吐き出したのだった。
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