第9章 思い出話

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第9章 思い出話

 遠くで賑やかな声がする。 (煩いな……)  朝早くから、騒いでいるのは誰だ? もっと寝ていたいのに……そう思った瞬間、彼は今までのことを思い出した。 (違う、朝じゃない。なぜ寝てる? 公子は……?)  目を開けると、緑は見知らぬ場所で横たわっている自分に気づいた。 「あ、気がついたか?」  馴染みの声がして、馴染みの顔が自分を覗き込んできた。その顔を見て、彼はほっと安堵の息をもらした。 「まだ生きてるのか、俺」  緑は目の前にいる蒼に訊いた。 「ああ、生き延びた」  そう言いながら蒼は彼に水を持ってきた。 「とりあえず、話をする前に水を飲んだ方がいい。声がガラガラだ」  緑は起きて水を受け取ろうとしたが、体に全く力が入らなかった。水の入った盃はそのまま下に落ちていった。 「危ない!」  蒼はそのまま倒れそうになった緑を支えた。緑は蒼にしがみつきながら青い顔で訊いた。 「――俺はどれくらい寝ていた?」 「三日」  そんなに寝ていたのかと、彼は舌打ちした。 「まずいな」  何とか力を入れて起き上がろうとしたその時、 「兄上!」  阿兎が飛びついてきて、そのまま彼を押し倒した。 「良かった! 気がついたんだね」  半べそをかきながら、阿兎は言った。 「……おいおい、まだ熱があるんだから、大事にしてやれ」  そう言いながら蒼は阿兎を引き剥がした。 「しかし、よく起きたことが解ったな」  阿兎にそう尋ねているとき、足元の方でカチャンと音がした。振り返ってみると、女狐が下に落ちて割れた盃を拾っていた。  彼女と目が合うと、蒼はすべてを察した。彼は自分の耳を指さすと、彼女はペロリと舌を出した。それから、もう一度蒼と目配せをすると、阿兎に水くみに行こうと声をかけた。 「おい、狐姑娘(おじようさん)」  外に行こうとする女狐を蒼は呼びとめた。 「何?」 「だいぶ賑やかだったけど、お前、何やらかしたんだ」 「失礼ねぇ。何って何を?」 「僕と公子で鳥を射落としたんだ。それを煮るか焼くか相談してたんだよ」  横から阿兎が答えた。 「お前、何も手を出してないだろな?」 「もちろん。もう懲りた」 「うん、傷むからって残り物全部まとめて鍋に入れて煮込んじゃったのにはビックリしちゃったよね」  笑いながら阿兎が言った。それから、それが煮詰まりすぎて焦げ焦げになったことも付け加えた。 「そもそも、もらった料理を乱暴に運んだから、全部ゴッチャになっちゃんたんじゃない。それを勢いで煮ただけで……」 「仕方ないよ。蒼兄さんは騎馬が得意じゃないんだし、そこは大目にみてあげて」 「はいはいはい、確かに私は騎馬が下手ですよ。よちよち歩きを始める前から馬に乗っているヤツに比べたらね」  蒼はヤケ気味に言いながら、あることに気がついた。 「――そう言えば、公子は?」 「え? 外で楽しそうに鳥を(さば)いてる……」  公子に何をやらせてるんだと、蒼はもの凄い形相で女狐を睨んだ。 「解った、手伝ってくる」 「いや、お前は何もやるな、阿兎にやらせろ」 「はーい。私は水を汲んできて、あとは阿兎をする」 「――それから?」  その言葉に女狐はああ、と声を上げながら視線を宙に泳がせた。 「聞き耳は、立てません」  誓いを立てるような仕草をしながら女狐は言った。蒼はうんうん頷くと、二人にさっさと外に行くよう促した。 「あいつ、恐ろしく耳が良いからな。油断も隙もない」  そう言う彼を、緑は驚いた顔で見上げていた。 「あの娘――」 「ああ、すっかり馴染んでるで忘れてた。あいつ、山頂であのをした娘だよ」  そして蒼は今日までのいきさつを説明した。 「――それはも大変だったな」  蒼の話を聞いて笑いながら緑は言った。 「言うなよ、」  そう言って蒼も笑った。 「……なんか、こう呼び合うのも久しぶりな気がする」  それは彼ら幼なじみ三人の間だけに通じる呼び名だった。可汗の宿衙がある草原で互いをそうやって呼び合っていた。ついこの間までそこにいたはずなのに、もう随分、時が経ってしまったように思えた。  この二人が出会ったのは、十二年前。義和政変が起こった時だ。  義和王とその軍が王宮を占拠し高昌城市を封鎖したため、蒼とその家族はこの廃寺近くにあった所領の荘園へと逃れた。そこでしばらく過ごした後、隋から戻ってきた麹伯雅・文泰親子の軍と合流し、西突厥へ行くことになった。その時、西突厥までの護衛として蒼に付けられたのが、自分より二つほど年上の緑だった。  緑の所属する譚家は、もともとは西涼に仕えていたが、その西涼が滅んだ後は、強い君主、強い相手(てき)を求めて各地を転々とする武装集団となった。  そして政変が起こる十年ほど前、当主の譚慧が、たまたま高昌の車師族の娘と恋に落ち、戦う日々を離れてしばらく高昌国に腰を落ち着けていた時があった。そして譚一族も当主とともに、しばらく高昌国に滞在していた。  武力の乏しい高昌国において、譚家は魅力的な戦力だった。そこで王太子・文泰の従兄弟(いとこ)であり、高昌国軍のトップでもある左衛将軍・張雄が彼らを高昌軍に誘い入れた。その誘いを受け入れた譚家は、高昌軍の一団として隋の高句麗遠征にも参加した。  突厥に生まれた者が歩き始める前から馬に乗るように、譚家に生まれた者は歩き始める前から剣技を習った。譚慧と車師の娘の間に生まれた緑も、当然そのように育った。だから政変当時、緑は八歳になったばかりだったが、蒼の護衛ぐらいなら難なく務められる程度の腕前はあった。 この二人が公子と会ったのは、西突厥領内に着いたあとだった。  政変が起こり、王宮内に幽閉されている文泰の二人の王子の安否が解らない中で、西突厥にいた三番目の王子は高昌王家にとって貴重な“保険”だった。次々世代の王候補として教育するため、張王妃の姻戚から“勉強相手”に選ばれたのが、王子と同い年の蒼だった。そして蒼に付いていた緑が、そのまま二人の護衛も務めた。  第三王子を“公子”と呼び始めたのは蒼だ。  蒼の父親とその兄・張雄は、当時の王太子・文泰の従兄弟。つまり蒼と第三王子智興は再従兄弟(はとこ)の間柄でもあった。そして伯父である張家の当主・張雄には当時、世嗣となる男子がいなかったため、蒼は次期当主候補として物心つく前から厳しい英才教育を受けてきた。  名門中の名門に育った御曹司の彼にとって、草原で自由奔放に育った第三王子はただの野生児にしか見えなかった。そして蒼は何故かその時、突厥風に育った王子を一人前にするのが、自分の使命だと強く思ったのだ。 「今のあなたは、とてもじゃないけど王子と呼べる状態ではありません」  初対面の王子に蒼はこう言い放った。 「あなたが王子と呼ぶに相応しくなるまで、私はあなたのことを“公子”と呼ぶことに決めました。厳しい道のりですが、一緒に頑張りましょう。私が必ずあなたを“王子”の中の“王子”にしてみせます」  蒼の宣言を横で聞いていた緑は、王子も公子もそんなに大差ないんじゃないかと思った。しかし、当の王子はニコニコしながら頷いていたので、まあいいかと放っておいた。  “若先生”は緑が蒼につけたあだ名だ。師傅(せんせい)よりも口うるさかった蒼を揶揄したのだ。そしてそのに、蒼は緑を“隊長”と呼び出した。 「なあ、若先生」  ある日のこと、緑はふとした疑問を蒼に訊いた。 「公子はしたら王子って呼ぶんだろ?」 「はい、そう約束したんで」 「じゃあ俺は?」 「え?」 「俺は隊長から何になる?」 「そしたら、将軍って呼んであげますよ」  蒼は、緑の父譚慧が建武将軍を拝命していたことを知っていたので、父親と同じ官位を口にした。 「じゃあ若先生は?」 「私?」 「公子が王子になったあかつきには、若先生は何になる?」 「そりゃ決まってるでしょ」  彼は得意げに言った。 「大先生です」 「俺さ、あの時のお前の得意げな(ドヤ)顔が今でも忘れられないよ」  肩を震わせながら緑が言った。 「公子が王子で、俺が将軍だったら、お前の血筋でいうと郎中だろうに、なんで大先生なんだよ。しかも、自分で自分のこと、大先生なんて言うか? 普通」  緑の指摘に、蒼は今初めておかしなことを言っていたことに気づいた。 「いやだって、先生の上って言ったら大先生しか考えつかないし――」  あの頃の蒼は、公子をにすることしか頭になかった。しかしその想いも、みんなが高昌へ帰国していったことで終わってしまったが。  義和政変は終結まで二年を費やした。  西突厥の力を借りた麹伯雅・文泰親子が勝利を収め、伯雅が王に復位した。そして伯雅・文泰と共に西突厥へ逃れていた者たちが高昌へ帰国するとき、第三王子だけが質子として残されることになった。  第三王子の立場を理解しつつも、何とも言えない理不尽さを感じた蒼は、親族一同が帰国する中、譚家と共に王子の側に残ることを決めた。  譚慧率いる譚一族は、ただ戦を続けたかったためだけに、西突厥に残ることにした。政変の黒幕・鉄勒を西突厥軍と共に叩く必要があるだのなんだのと言って、張雄を説得したのだ。  その頃になると、緑は戦のたび父と一緒に出陣していくようになった。  公子と兄弟のように育った可汗の子ども達も、ある程度の年齢になると軍に加わっていった。  しかし公子だけは、高昌国の質子という立場上、軍に加わることはできなかった。西突厥領内でも、彼は取り残されるほうだった。  そして蒼だけが、いつも公子の傍らにいた。幸い公子は、突厥の気質よりも高昌の始祖・麹嘉の気質を色濃く継いでいたため、血なまぐさい戦より何かを生み出す方が性に合っていた。だから置いてけぼりをくらっても、大して苦にせず、牧民達と一緒に羊を追う生活を楽しんでいた。  しかし、王子としての自覚は失っていたかった。だから牧民達とのんびりした暮らしを楽しみつつも、蒼との勉学は続けていた。  お互い、最初の頃のような必死さはもうなかったが、もしかすると、いつの日か高昌国へ呼び戻される日が来るかもしれないというわずかな希望にすがって、勉強や礼儀作法の習得を続けた。  だから、田地公叙任の話が来たとき、公子は蒼に嬉しそうに言った。 「若先生、私は王子の中の王子にはなれなかったが、公にはなれるのだな」  あの時の公子の笑顔を思い出して、蒼は苦しくなった。 「とりあえず、あの娘曰く、私は“蒼”でお前は“緑”だから間違えるなよ」  気を取り直して、蒼は緑に女狐が付けた呼び名を改めて告げた。 「――やっぱり車師由来(ははゆずり)のこの瞳の色は目立つんだな」  数で言うと、亡国の住民であった車師族の数は決して少なくない。しかし、高昌の支配者層である漢人も、草原の覇者突厥も、黒髪に黒い瞳をしていたため、灰茶色の髪と翡翠色の瞳はどこに行っても目立っていた。 「まあ、言うなよ」  薬湯を用意しながら蒼は言った。 「お前の弟なんて“阿兎”って呼ばれてるんだぞ。譚家の跡取りを、あいつは事もあろうにウサギ呼ばわりだ」 「違うよ」  緑は、蒼の言葉に食い気味に言った。 「跡取りじゃない。父上が亡くなった今、(あいつ)が譚家の当主だ」  蒼は一瞬言葉に詰まった。  腹違いの弟が跡継ぎになったのは、高昌国が麹家と張家による徹底した門閥政治(貴族政治)を行っていたことが原因だ。  高昌国には独自の官位制度がある。主君である王に次ぐのが「令伊」で、その次が「交河公」と「田地公」であるが、この三つの位に就けるのは王子だけだった。  王族を除くと、宰相に当たる綰曹(わんそう)郎中が一番上の位となる。その郎中と双璧をなすのが左衛と右衛の二将軍。この二つが軍の最高指令官となる。これらの下には、各行政機関を管轄する長史や、建武や伏波などの各将軍があった。  そしてこれらの位に就けるのは、麹家か張家の者だけだった。高昌の(まつりごと)は、すべて麹家と張家の者で回していたのだ。ちなみに蒼の伯父張雄は、綰曹郎中と左衛将軍を兼任しており、文武両面で国政のトップに君臨していた。  譚一族を高昌国に招き入れるとき、この家柄がすべてというこの門閥主義が仇になって、それなりの官職を用意することが難しかった。  そこで張雄は、自分の妹と譚慧を縁組みさせ、生まれた子を世嗣にすることを条件に、建武将軍の位を与えることにしたのだ。  意外なことに、この提案に一番乗り気だったのは、緑の母だった。彼女は、戦場を渡り歩く愛しい人を、どんな手段を取ってでも自分の側に、高昌につなぎ止めたかったのだ。  しかし皮肉なことに、高昌国の所属となった途端、彼らは王とともに再び戦場に出て行った。高句麗遠征や鉄勒との戦いが続く中、緑の母は心と体を壊し、義和政変が終わる前に亡くなった。 「こんな状態だし、あいつはまだ幼い。もう、将軍の位なんか関係ないんだし、お前が当主になればいい」 「無理だ」  薬湯を受け取りながら緑は言った。 「俺は間もなく死ぬ」 「……え?」 「この薬を処方した医者に言われなかった? あの医者、お前の実家のだろ」 「いや……何も……」  蒼は、手先が冷たくなるのを感じた。  西突厥を出る前、蒼は緑から体の調子が悪いことを聞かされていた。だから高昌に着いたその日に、彼は実家を頼って緑のために医者を手配した。だけど、当の医者からは何も聞いていないし、緑からは言われたのはたった一言、「この薬を忘れずに飲まなきゃいけないらしいけど、忘れちゃうからお前に任せる」だった。そんな余命幾ばくもないことなんて、微塵も聞いていない。 「営血が邪気に侵されたってさ。俺の体の中には、まともな血がほとんど無いらしい。もう、手の施しようもないそうだ」  薬湯の入った盃を見つめながら、緑は静かに言った。彼の病は白血病だった。 「こうやって高熱を繰り返しながら、死に向かっていくそうだ」 「そんな馬鹿なこと」  あるわけない。 「……医者の見たて違いじゃないのか? 探せばもっと良い医者が」 「高昌で一番の医者だったんだろ? だとしたら、西域中探したってそれ以上の医者はいない」  蒼は返す言葉がなかった。もう十年以上、頼れる兄貴分として慕っていた彼が死ぬなんて、想像もしたくなかった。 「ずっと、生き死にと背中合わせで生きてきた。負けたら死ぬ、それが当たり前だった」  独り言のように緑は呟いた。 「父も叔父も従弟も、そうやって生きて死んだ。自分もそうだと思っていた」  緑は手を伸ばし、血の気のない自分の手を見つめた。 「まさか、こうやって命が少しずつ削られて、死に向かっていくなんて思いもよらなかった」  そして手をギュッと握りしめた。 「死にたくない」  微かな声でそう呟いた。 「隊長――」  緑は近づこうとする蒼を、手を伸ばして制した。そして一つ息を吐くと、笑みを浮かべて彼に言った。 「俺のことにもう構うな。今すぐここを()て」 「何」 「俺を置いて行けと言ってるんだ。三日も無駄にしてしまった。本来なら、とっくに輪台(ウルムチ)に着いている頃だ。この三日の差は大きい。高昌がどう動いたかで、助かるものも助からなくなる」  それは正論だった。 「お前と(あいつ)は張家の者だ。高昌に捕まっても、悪いようにはならないだろう。あとは公子だけだ。なんとかして――」 「隊長はどうするんだ」 「どうせあとわずかの命だ。ここで――」  “死ぬ”と言いかけた緑の口に、風のように現れた女狐が肉の塊を突っ込んだ。 「黙れ」  彼女は鋭いまなざしで、彼を脅すように言った。 「これ以上何も言うな。今、公子と阿兎(ふたり)がこっちに来るから、そんな話二度とするな」  そしてふわっと寝台から飛び降りると、蒼に向き直った。 「お説教!」 「はい?」 「して!!」  蒼は彼女の勢いに気圧されるまま、一緒に表へ出て行った。  彼らが滞在しているのは、何十年も前から打ち棄てられたままの廃寺。岩窟を利用し、岩肌を削って本堂や僧坊が作られており、表には炊事場があった。女狐は公子たちと入れ違いにそこに行った。 「で、説教って、お前が私に? それとも……」 「蒼さんが私に決まってるでしょ!」  頭から湯気が出そうなくらいの怒気で彼女は言った。 「約束破ったんだから」  そう言いながら、ドン、と彼の胸に頭突きを喰らわせた。 「なんでさ、聞かれて困ること、私の解る言葉で言うのさ」 「あ?」 「この西域には、車師語とか、突厥語とか、私の解らない言葉たくさんあるっていうのに、なんでよりによって酒泉なまりの漢語なのさ。耳に入ってきたら、何言ってるか解っちゃうじゃない」  やっぱり説教受けているのはこっちじゃないかと思いながら、蒼は黙って彼女の言い分を聞いていた。 「私の耳が良いのは生まれつきなんだからさ、聞かれたくなけりゃ工夫しろ」 「まあ……確かにそうだな」  困ったような口調で蒼は答えた。 「ただ、こう見えて、私は育ちが良くてな。庶民の言葉はどうも苦手なんだ」 「はあ? 何それ」  彼女は呆れたような声で、蒼の顔を見上げた。その目は真っ赤で涙がにじんでいた。  蒼はふぅっと息をついた。 「――お前、どこまで聞いてた?」 「“死ぬ”って言葉が耳に入ってきて、そこからしばらく聞き耳立ててた。置いてけってところで頭に血が上って、あとはよく解んない」 「そうか」  蒼は彼女から離れると、水甕の蓋を開け、柄杓で水を汲んだ。そしてその水を頭にかけた。 「蒼さん!? 何やってるの」  女狐は慌てて手巾(てぬぐい)を探した。 「いいさ、そのうち乾く」  彼らしくない言葉に、女狐は一瞬たじろいだが、その声が鼻声で、目が真っ赤に充血していたことですべてを悟った。 「……どんな事情があるのか、お互い知らないし、出会ってからまだ数日だけどさ」  女狐は蒼の目を見ながら言った。 「それでも、みんなのこと、大好きだし、力になりたいと思ってる」 「そうか」 「だから、引きずってでも緑さんを一緒に連れて行こう。()()きにして無理やり馬に乗せたっていい」 「馬にって、お前、一人じゃ馬に近づけないだろうに」 「大丈夫、阿兎がいる」  得意げな彼女の表情に、蒼は思わず吹き出した。 「アイツは西突厥で生まれて、馬と一緒に育ったからな。馬の扱いは公子に次いで上手いよ」 「そうなんだ」  夕暮れ時の風が頬をなでた。濡れた蒼の髪も、もうほとんど乾いていた。 「蒼さん、もうしばらく一緒にいてもいい?」 「いつまで?」 「福公子が無事、家に帰るまで。手伝いたいんだ」 「そうか。助かるよ」  その声音は優しかった。 「何だかんだでこっちの秘密に聞き耳立てられているからな。一緒にいる方が安心かもしれない」 「何それ。どういう意味」 「お前の、こっちは何一つ知らないというのにな」 「そ、それは……」 「ただ、ここ数日のお前を見ている限り、知らない方が良いような気がするよ。知ったらこっちの頭がおかしくなりそうだ」 「は?」 「十年ぐらい経って、お前がやらかすことに私が動じなくなったら教えてくれ」 「絶対、教えない」  そう、絶対に教えられない。でも、そう言ってもらえて、女狐は嬉しかった。十年後も、みんなと一緒にいられるかもしれないと思ったからだ。結局、そうはならなかったけれど。  それから二人は、本堂に戻ってみんなと一緒に食事を取った。 「姐さん、いくら焼きたてを食べさせたいからって、病人の口にいきなり(かたまり)(にく)を突っ込むのはどうかと思うよ」  戻ってきた彼女を見て、阿兎は開口一番に言った。 「兄上は鍛えているから大丈夫だったけど、あれ、喉に詰まらせたら大変なことになってたよ」  肉を焼餅(パン)で挟んだものを彼女に渡しながら、阿兎は諭すように言った。 「ゴメンね。気を付ける」 「でも、美味しかったって」  阿兎は、兄が目覚めて嬉しそうだった。その顔を見て、女狐は安心した。  食事が終わる頃、蒼は、阿兎を呼んだ。 「何? 従兄(にい)さん」 「お前に話しておきたいことがある」  蒼は静かに言った。女狐は黙って席を立ち、表へ出た。いつの間にか日が暮れていて、空には星が瞬いていた
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