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第10章 行先
本堂の脇を掘り進めて作られた部屋の一つに緑はいた。まだ熱が下がりきっていないため、その時、緑は寝台に横たわって休んでいた。そこに蒼に連れられて阿兎が入ってくると、ゆっくりと体を起こした。
「祥吉」
緑が口にしたのは、阿兎の“幼名”だった。
「この名でお前を呼ぶのは今日で最後だな」
「兄上……」
「父亡き今、お前が新たな当主だ」
「――無理、無理です!」
阿兎は思わず叫んだ。
「いくら高昌国との約束とはいえ……。兄上の方が一族を束ねるに相応しい。今の私には無理です」
「確かにお前は、譚家の同年代に比べたら明らかに弱い。武術の習得は半分程度。その年で初陣もまだだ」
譚家はそれまで武術の腕一本で辺境の地を生きのびてきた。しかし、高昌国の将軍ともなると、武術以上に政治力が必要だった。そのため、阿兎は幼き頃から武術よりも学問の修得に時間を割くことになった。
「そうです。私は一族の中で一番弱い。だからこそ、一番強い兄上が当主となった方がいい」
「それが無理なんだ」
「え?」
「残念だが、俺はもうそんなには生きられない」
「……え?」
「営血の病で、もう長くは生きられない」
穏やかな顔、穏やかな声で緑は言った。
「そして、今、宗家の者で生き残っているのは、お前と俺の二人だけ。つまり、当主の成り手はお前しかいないわけだ」
「そんな……」
阿兎は頭から血の気が引いていくのを感じ、思わず座り込んだ。
「だが、お前にはもうひとつ選択肢がある」
緑は蒼に目配せをした。蒼は頷いて言葉を続けた。
「祥吉、お前はの母は張家の者だ。だからお前も張家の者として生きることもできる」
「……どういう……こと?」
「伯父上が、お前を養子にしてもいいと――」
「綰曹郎中が?」
「ああ、今回の件が起こる前に、そういう打診があった」
高昌王が第三王子に謀反の罪を着せることを決めたとき、張雄は二人の甥だけは助かるようにと密かに動いた。幼い頃から我が子のように可愛がっていた蒼に、人知れず王の計画を伝え、事が起こる前に第三王子の幕営から二人で抜け出すようにという指示を、彼らが高昌を発つ前に送っていた。
しかし、蒼は内密にと言われた話を、密かに建武将軍・譚慧に伝えた。
「我らは一騎当千の兵揃いだが、これはなんとも多勢に無勢だな。それで敵のど真ん中から王子の活路を見いだすわけか。こんな面白いこと、なかなか遭うことねぇな」
将軍は楽しそうにそう言い、譚家の主力を集めて王子の護衛に当たることに決めた。だからこそ、高昌城市に集結した数千の軍勢から、逃れられたわけだ。
「今ならまだ、伯父上もお前を受け入れてくれる」
三日前、高昌城市に薬を買いに行ったとき、蒼は密かに張家の者と接触を持った。そして、阿兎だけでも、張家に受け入れてもらえるように手はずを整えていた。
「この近くに、張家の荘園がある。そこに行けば、万事上手くいくようにしてある」
「荘園?」
「昨日、お前と女狐が野菜いっぱい貰ってきた農園があったろ。あの農園は張家の所領の一部だ」
「え? あそこ、張家のものだったの?」
「そうだよ」
女狐曰く、阿兎と一緒に食べられるものを探して周辺をぶらぶらしていたら、たまたま収穫している農園を見つけたそうだ。少し野菜を売ってもらえないかと声をかけたら、収穫を手伝うことになって、そのお礼に野菜をいっぱい貰ったということだったが……
(近いとはいえ、ぶらぶら歩いていける距離じゃない)
張家所領の農園だったから、まだ、良かったものの、違う所領に行ってしまっていたら、蒼が裏で手を回していたことがすべて無駄になるところだった。
蒼が女狐を今ひとつ信用できないのは、そういう所だった。ただ単に勘働きが良いのか、それとも何か、別の意図があるのか――
ここ数日、彼女と一緒に過ごしていて感じたことから結論づけると、前者の可能性が高い。耳も良いが、鼻も恐ろしく利く。恐らく収穫の気配を感じて、二人で農園までいったのだろう。
(それにしても、労働の報酬とは言え、抱えきれぬほどの胡瓜を持ってきたのには驚いたな)
草原育ちの阿兎が人懐っこいというのもあるが、女狐の、人を惹きつける力がものをいったのに違いないと蒼は思っていた。高昌城市の飯屋で支払った以上の料理が出たのも、知らず知らずのうちに彼女の世話を焼きたくなるのも、彼女不思議な魅力のせいであることに、蒼は気づいていた。
蒼は、彼女のことを信じたいという気持ちの方が強かった。夕方、しばらく一緒に行動したいという申し出も、心底嬉しかった。
(だが、だからこそ、気を付けないといけない。九割九分信用していても、一分の疑念を捨ててはならない。そうしなければ、公子を守ることができない)
「――そうなんだ。結構良いところだったよ。親切な人ばっかりで。おかげで昨日は胡瓜ばっかり食べる羽目になって参ったけど」
急に、阿兎はすごい勢いで話し出した。
「だから、今日は絶対肉を食べようって思ったんだ。それで朝から公子と狩りに行ったんだ。でも、胡瓜もまだいっぱいあったから、どうしようかと思ったら、姐さんがまた煮ちゃえばいいって言いだして」
「――祥吉」
蒼が声をかけても、阿兎はまだ話し続けた。
「今回は水いっぱい入れたから、大丈夫、焦げなかったよ。でも、姐さん、胡瓜と一緒にもらった焼餅も一緒に煮ようとしたから、それは全力で阻止した。だから夕飯で、普通の焼餅を食べら……」
「黙れ!」
緑が大声で怒鳴った。阿兎はビクッと肩を震わせて口を閉じた。そしてポロポロと涙をこぼした。
「この高昌国は、周辺の大国が興亡を続ける中で、約百二十年、八代に渡って安寧を維持してきた。この国の中枢にいることは、決して悪いことじゃない」
蒼は諭すように阿兎に言った。
「……でも」
阿兎は涙を拭きながら言った。
「でももし、私が張家に行ったら、譚家はどうなるのです?」
「どうなってもいいのさ」
緑は他人事のように言った。
「何しろうちの一族は、三度の飯より戦が好きないかれた連中だからな。西涼が滅んでから十四代、よくまあ今まで続いたって親父もよく言ってたよ」
「父上が?」
「今回だってそうだろ。だまし討ちが解っててもなお、一族の主力すべてをこの高昌に送り込んだ。どうしてだと思う?」
「どうしてって……」
「定石で言えば、叔父の一家を西突厥に残して、何とかして一族を存続させようとするもんだ。だが、今回は宗家も分家も全戦力をそろえて高昌城に入城した。いかれてやがる」
「いかれてるって、王子をお守りするためじゃ……」
「それはまともな頭が考えることだな。斬っても斬りきれないほどの大量の敵と殺り合ってみたかっただけだよ、うちの連中は」
義も忠も関係ない。だからこそ、逆に西涼滅亡後、二百年の長きに渡って存続できたのかもしれない。
「戦うことしか頭にないのが譚一族だ。だから、戦の果てに一族全員が消えたとしても、それが本望さ。西突厥にわずかに残ってる連中も、どっかで戦い続けられればそれで良いのさ。一族の再興なんて、俺たちにとって何の意味も無い。だから、今、お前が無理して継ぐ必要はないんだ」
「兄上……」
「お前は受けた教育も、考え方も譚家より張家に近い。だから親父も、今回の申し出を受けた方がいいと言っていた」
「父上が……そんな……」
「だが、それは大人の考え方だな、クソくらえだ」
「え?」
「よかれと思ってとか、てめえのためだなんて、ただの勝手な自己満足だ。善意の押しつけなんて、いらねぇよな」
緑の言葉に蒼は驚いて彼の顔をみた。
「お前は従兄に似て頑固なの、俺はよく解ってる」
緑は蒼に視線を返してニヤリと笑った。
「だから、お前自身が決めたら、どんなに困難なことでも、意地を通してやり遂げる。間違いなくな」
「兄上……」
「お前の未来は、お前自身で選べ。譚家の十五代当主となるか、張家として国政に関わるかを。そしてもし譚家を選ぶなら、俺の命の続く間は、お前に譚家の武術を徹底的に教え込む。当主に相応しいようにな。俺が死んだ後は、お前自身の手で新しい譚家の武術を作れば良い。好きにしな」
兄の言葉に、阿兎は頷いた。
「選ぶまでもない。自分は譚家の人間。張家にはなれない」
「そうか」
弟の言葉を受け、緑は蒼の肩を借りて立ち上がった。
「では、譚家十四代当主、建武将軍譚慧の名代として、譚慧が長子、建武長史譚雯が、次子譚耀を第十五代当主に任ずる」
緑は譚家のしきたりに則った作法でそう告げた。
「譚慧が子、譚耀、謹んでお受けします」
阿兎もしきたりに則って返答した。
「――ったく」
その様子を見ていた蒼は呆れたように呟いた。
「そろいもそろってコイツらは……」
「何を言う」
緑は蒼にもたれ掛かりながら言った。
「ここは“何とか長史張定和、十五代当主にご挨拶を”っつうんだよ」
「はあ? 私は譚家の者じゃない、そんなの知るか。その前に、“何とか”って、何だ、お前、私の所属知らなかったのか?」
「知らん、まじで。将軍の下なんだが、郎中の下なんだか……どっちなんだ」
「隊長らしいなぁ。そもそも伯父上の下じゃないよ。王子直属だよ」
「まじで?」
「今回の件で、綰曹に行くことになってたけどな」
それを聞いて、緑は、ああ、と低い声を上げた。意味することを察したのだ。
「でももう、官職なんて意味ないだろ。追われる身になった訳だし」
「まあ、ただのカッコつけ」
いつもの緑に戻った感じがして、蒼はほっとした。それから阿兎に女狐を本堂に呼んでくるよう言った。
阿兎が部屋から出て行った途端、緑は力が抜けて倒れそうになった。蒼は慌てて彼を支えた。
「大丈夫か?」
「体力、落ちたな」
「まだ熱があるんだ。無理するな」
下がったとはいえ、まだ三十八度近い熱が出ていた。
「ところで隊長、なんで考えを変えた?」
蒼は緑に、ここに残るのではなく、一緒に行くことを選んだ理由を訊いた。
「ああ、そうだな。簀巻きにされたくないからかな」
緑は、蒼たちが食事を終える前に女狐がこの部屋に来たことを教えた。
その時、彼女は言った。
「“死にたくない”って、囁いた言葉。それが本心でしょ。だったら、生きなさいよ。いつ死ぬかなんて、誰にも解らない。だったら、生きて、生きて、やれることやってみなさいよ」
彼女は緑の襟元をギュッと掴んだ。
「言うこと聞かない体になったって、まだ、できることあるでしょ。やり残したこと、あるでしょ。だから、引きずってでも、そこの布団でぐるぐる簀巻きにしてでも、ここから連れてくからね」
「あのお嬢さん、強いなあ。肉を口に突っ込んだのを謝りに来たって言いながら、脅されたよ」
鋭い眼光を思い出しながら、緑は苦笑した。
「……ったく、あいつ、謝り方も知らんのか」
蒼は溜め息交じりに言った。
「彼女を叱るなよ。考えて見れば、俺もお袋と同じような死に方、したくないからな」
「あ、ああ」
「……ところで、なんであのお嬢さん、女狐なんて呼ばれてるんだ?」
蒼は緑に、彼女が女狐と名乗るようになった顛末を説明した。
「公子はもっと可愛い名前で呼びたかったらしくてね。だから、公子は間を取って狐姑娘って呼んでる。私も時々そう呼んでるかな」
「なるほどね。それで、若先生は?」
「何?」
「お前は張将軍のところへ戻らないのか?」
「戻れるわけないだろ」
当たり前のように蒼は答えた。
「まだ大先生になってないんだから。何より……」
蒼はちらりと部屋の出入り口の方を見た。
「戸口に立って聞き耳立ててるようじゃ、王子どころか公子からも格下げしないとダメなようだし。まだまだ道は遠い」
その声に応じて、公子が照れくさそうに顔を出した。それからすすっと二人の方に近づき、蒼の反対側に立って緑を支えた。
「“公子”でもないんだったら、手伝っても問題ないだろ」
「ったく……本堂に移動したら、公子に戻します」
実際、緑は三人の中で一番からだが大きかったので、二人がかりでも数歩先の本堂に移動するのに難儀した。
「悪い」
「いや、意識ある分、今の方が楽」
「あの時は四人がかりで大騒ぎだったからな。狐姑娘は何度も潰されてたし」
「え?」
緑が驚いていると、ふいに女狐が目の前に現れた。そしてギュッと緑に抱きつくと、そのまま力任せに引きずって行こうとした。
「こういうヤツなんだよ」
蒼は緑の耳元で囁いた。
「おい、狐姑娘。この間は上手く運べなくて悔しい思いしたのは解る。だが、今は歩けるんだから下手に手を出すな。向こうで座って待ってろ」
女狐は、チッと舌打ちしつつも、蒼の言葉に従った。それを見て蒼は彼女の意図を察した。
「あいつ、自分の何倍も重いお前の運び方をいろいろ考えて試そうとしてるぞ」
「まじか?」
「お前がまた動けなくなったら、自分自身の力だけで運ぶ気だ」
「いや、遠慮しておく。……こりゃさっさと回復するしかないな」
五人は本堂の中心に集まり、車座になった。
「心配かけてすまなかった……しかし、この三日間動けなかったことは痛いな」
緑は爪を噛みながら言った。
第三王子を濡れ衣から守るために、譚家が取った作戦はごく単純だった。
一気呵成に高昌を脱出し、輪台で西突厥の保護を求める。ただそれだけだ。
そして可汗から“そちらに向かった第三王子が何処かで何者かに襲われ、命からがら戻ってきたが、そちらはどういう状況だ? こちらからの援軍は必要か? ”と高昌へ伝令を飛ばしてもらう。
高昌にとって、下手に動けばやぶ蛇。鉄勒かなにか、適当な存在しない敵を仕立てて有耶無耶に事を終わらせれば、丸く収まる。
そして第三王子が可汗の強い後ろ盾を示した状態で田地公になれば、西突厥にとっても美味しい話になる。
この作戦、突厥仕込みの機動力と譚家の武術、そして可汗との信頼関係で、何の問題なく成功するはずだった。緑の体調不良さえなければ。
高熱のため、緑は本来の十分の一の力も出せなかった。そのため、いつもなら簡単に振り切れるはずの敵に追い詰められてしまった。その上、三日間も人事不省になっていたことで、公子をここに足止めしてしまった。緑は自分のふがいなさを嫌というほど感じていた。
それゆえ、蒼に“置いていけ”という言った言葉も出たのだし、今も、悔しさを隠しきれないでいた。
「まあ、この三日で“謀反”の報せは間違いなく西突厥に伝わっただろうな」
緑の言葉を受けて蒼が言った。
「でもそれは大した問題ではない。可汗の懐に入れば何とかなるよう、出発前にある程度、根回しはしてある」
緑は驚いて蒼を見た。
「お前いつの間に」
「いつの間にって、当たり前だろ。軍が思いっきり突っ走れるようにするのが、官の仕事」
それを聞いて、緑は嬉しそうにぽんぽんと蒼の肩を叩いた。
「まあ、公子と可汗の信頼関係があってからこそなんだけどな」
「だからか、出立するとき、可汗が私にいつでも戻ってこいと言ってくれたのか」
公子も納得したように言った。
「……あの」
彼ら三人の話に、女狐はおずおずと割って入った。
「私、この話、聞いてて良いの?」
「構わん。どうせ、この場にいなかったら、聞き耳立てるに決まってるだろ」
蒼の言葉に、女狐は苦笑いを浮かべた。
「それに、この先も一緒に行動するつもりなら、この話は聞いていた方が良い」
「そうなの!?」
女狐が同行するという話に、公子と阿兎は同時に驚きの声を上げた。
「うん、そのつもり」
「……よかった、そう言ってもらえて。こちらから、そう頼もうかと考えていたんだ」
公子は嬉しそうにそう言った。
一方の阿兎は、何も言わず女狐にギュッとしがみついた。女狐は小さな子をあやすように、その背中をトントンとゆっくり叩いた。
「話を戻す」
咳払いをしながら蒼は言った。
「問題は、高昌兵がどこにどれくらいいるのかということだ」
「普通は輪台から西走して素葉城に行く。当然、私たちもその行程で行くつもりだった」
素葉城は西突厥の可汗の衙帳があり、公子が生まれ育った場所だ。公子たちは輪台で西突厥軍の保護を求め、その素葉城を目指す予定だった。
「そして、高昌軍も、私たちがそう行くだろうと考えているはずだ」
「今頃、連中は輪台へ行く道くまなく探してるんだろうな。俺たちがここに居ることも知らずに」
自嘲気味に緑が言った。
「廃寺のあたり、捜索の手はどうなってる?」
「ここは張家の所領だから、最後まで手は及ばない。だが、安寧なのもあと数日だろうな。私たちがどこを探しても見つからなかったら、当然、張家の所領を探すしかなくなるからな」
「もうちょっと寝ていたかったけど、それも無理ってことか」
半分本心で緑は言った。
「まあ、逃げ隠れするのは性に合わんから、それでいい」
そう言いながら、彼はごろんと横になった。
「ったく、隊長は……」
そう言いながらも、蒼は彼をそのまま放っておいた。起きているのがだいぶ辛くなってきているのが解ったからだ。
「今考えられるのは二つ。一つは高昌軍を正面突破して、輪台まで一気に行く」
「俺好みの力技だな」
寝っ転がりながら緑が呟いた。
「できるだけ裏道や迂回路を進んで行くと言うことか?」
公子が蒼に訊いた。
「いえ、そういった道もすべて兵が待ち伏せているはずです。逆をついて、街道を堂々と進んでいった方が危険が少ない」
「なるほど」
「しかし、いかんせん多勢に無勢。大通りの方が手薄とはいえ、それなりの軍勢はいる。つまり、こちらが輪台まで持ちこたえられるかどうか……」
緑は蒼の言葉を悔しい思いで聞いていた。本調子なら、軍勢が幾重に重なっていても、難なく抜ける自信があった。しかし、半時も起き上がっていられない状態の今、どこまで体が保つか、自分でもよく解らなかった。
「もう一つ道は、天山山脈沿いの銀山道を西走し、途中で山越えをする行程だ」
「山越えっていうと、凌山あたりか。かなり厳しいな」
緑は鉄勒とその辺りで何度も戦ったことがあったので、それなりに土地勘があった。
「ああ、他にもいくつか問題がある」
蒼は指で地面に図を書きながら説明を続けた。
「まず、いくつか国をまたぐということ。険しい山道も行かねばならないこと。あと、山賊もそれなりに出る」
最後の言葉に、女狐は思いっきり嫌な顔をした。蒼は笑いを堪えながら続けた。
「何より、今はまだ九月だが、凌山を越える頃には、雪が降っている可能性があること」
その言葉に、緑の顔が曇った。自分の体がそこまで保つのか自信が無かったからだ。
「だが、利点はある」
蒼は緑の肩に手を置いた。
「篤進城を抜ければ、焉耆国。その先は亀茲国。国境を越えたら、高昌軍は迂闊に手を出せなくなる。また、天山沿いは西突厥が鉄勒から取り戻した場所だ」
義和政変の時、鉄勒は天山山脈まで南下しており、その周辺を支配下に置いていた。政変後、西突厥は鉄勒からその支配権を奪い返し、高昌同様、焉耆も亀茲も西突厥の従属国に戻っていた。
「つまり、途中で西突厥軍に合流できる可能性があるということか」
「それはあまり期待はできないかもな」
公子の言葉を受け、緑は言った。
「今は東突厥の方に隙があるから、鉄勒諸部は東方に戦力を割いている。それを受けて、西突厥も最近は山脈沿いに軍を回してない」
緑は高昌軍所属とは言え、西突厥軍と行動を共にしていたため、事情をよく解っていた。
「だが、軍の巡回はあるし、可汗も西域諸国に巡幸することがある」
「不確実だな。折良く行き会うかどうか保証がない」
苛ついた口調で緑は言った。
「若……蒼はどう考えてる?」
女狐が決めた呼び名を、律儀に守りながら公子は訊いた。
「正直、決めかねてます」
蒼は溜め息交じりに言った。
「私たちが廃寺にいるのは、公然の秘密のようなもの。伯父への忖度があって、軍はこの辺りに手を出していないだけだ。おそらく、この周辺に兵士を集め始めているはずだ。もしかすると、もう、包囲網ができあがっているかもしれない」
「輪台を目指すにしろ、銀山道を進むにしろ、まずはこの所領の外にある包囲を突破しないといけないってことか。面白いことになってるな」
体調が万全なら、問題なく突破できるのにと緑は悔しく思った。
「楽なら輪台を目指す方だ。すぐに西突厥領内に入るし、何より馬で一気に行ける」
「だが、それは高昌軍にとって同じなわけだ」
「ああ。しかも、輪台は西突厥領内にあるが、ほぼ高昌国が維持している城市だ。高昌で生産された農産物を北へ送る拠点だからな。そのせいでもともと駐留している兵士の数も多い」
「だからこそ、こっちの濡れ衣が知られる前に、輪台へ行く必要があったんだ」
「言うな。仕方ない」
苛つく緑を宥めるように蒼は言った。
「輪台まで待ち伏せする高昌軍を何回突破しなければならないか解らないが、西突厥の保護も早く求められる。それに草原に出れば道らしい道はなくなるから、伏兵の心配も少なくなる」
だが、この方法は、体調に不安がある緑がいる今、得策とは言えなかった。まず、彼が高昌兵と戦いきれるかどうかという確証がない。また草原には街らしい街はほとんどないため、緑が倒れたとき、助けを求める場所がないという不安もあった。
「――狐姑娘はどっちがいい」
ふいに、公子は女狐に訊いた。
「え?」
急に話をふられて、女狐は慌てた。
「輪台に行ってみたい? それとも篤進城からいろいろな国に行ってみたい?」
「そんな、急に言われても……でも、どっちも行ったことないから、どっちに行っても楽しみだよ」
「そうか。初めて行くところは楽しみだよな」
公子は嬉しそうに笑った。
「蒼、狐姑娘同様、私も西域は初めてなんだ。せっかくだから、もう少し西域を楽しみたいな」
「は?」
「西走して凌山を目指そう。どちらも大変なら、物珍しくて楽しい方がいい」
こうして、一行の行き先が決まった。
夜も更けた頃、公子は一人星空を眺めていた。
「公子」
寝台に公子がいないことに気づいた蒼が、公子を探しに来た。
「明日に備えて早く寝なさい、か」
彼に呼ばれて、公子は自嘲気味にいった。
「まあそれもありますが」
蒼は頭を掻きながら、公子の隣に座った。
「お礼を言いたかったんです。今は女狐も寝てるし、気にせず話せるから」
「お礼?」
「篤進城から西へ行く方を選んでくれて。困難が多いのも確か。でも、隊長が倒れたとき、医者も探しやすいし、療養する場所も探しやすい」
「草原を進む道は、何もないしな――どっちにするか迷ってたんだろ?」
「ええ」
「臣下の決断を促すのが王子たる者の務め、そう、教えてくれた人がいるんだ。私はその人のこと、若先生と呼んでいた」
その言葉に、二人は顔を見合わせて笑った。
「若先生、隊長の体のこと、本当なのか?」
「はい」
静かな空気が二人の間に流れた。
「……誰よりも強くて、殺しても死にそうにないくらい頑強なヤツなのにな」
「はい」
蒼は深く息を吸った。
「公子、謝らなくてはならないこともあります」
「何だ?」
「謀反の話が西突厥に行ってしまった以上、公子の立場が西突厥内にもなくなります。戻ったと言うことが高昌に知られた時点で、“西突厥と結託している”という嘘が真実味を帯びてしまい、両国のいらぬ衝突を招きかねないからです。命の保証だけは可汗にお願いしてありますから、おそらく、表向きただの突厥人として生きることになるかと」
万が一の時の“隠し札”として、その存在を隠して生きていくことになるのだ。
「いいさ」
公子は顔色一つ変えずに答えた。
「多くの者が、自らの命と引き換えに、私を生きながらえさせてくれた。ならば私はどんな形であれ、彼らのために生きなくてはならない。たとえ奴婢となったとしてもな」
「公子……」
「もし、そうなったとしたら、一緒に羊の毛刈りをしてくれるか?」
その言葉に、蒼はふっと笑った。今までだって、牧民に混じってしょっちゅう毛刈りをしてきただろうにと思った。
「もちろんです。こう見えて、毛刈りの腕はそこそこ良いんですよ。私が公子と呼んでいた人の手伝いを、いつもしていたので」
二人はまた顔を見合わせて笑った。流れ星が一つ、東の空に向かって流れて消えていった。
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