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第1章 その先に在ったもの
「痛ってぇ!」
部屋中に甲高い青年の悲鳴が響き渡った。しかし彼女は顔色一つ変えることなく、彼の右腕を引っ張り、さらにその白い腕にぐっと力を込めた。
彼は断末魔のような叫び声を上げた。
「……う」
彼は脂汗を流しながら、数度肩で息をした。
「――あ、良かった、ちゃんと動く」
彼は右腕をさすりながら呟いた。それから頭に巻いていた布を取ると顔の脂汗を拭った。真っ白な髪がはらりと落ち、彼の頬にかかった。利発そうな光を放つ大きな瞳にふっくらした頬――どちらかというと幼げに見えるその顔に、老人のような白髪の取り合わせは、ひどく奇妙に見えた。
「ま、ただの脱臼だからね。騒ぎすぎ」
彼女は冷ややかな視線を彼に投げつけながら言った。豊かで艶やかな黒い髪と、白く透き通るような肌、切れ長で玻璃のように冷たく光る目と、血に濡れたような赤い唇が印象的な女性だった。
「しかし、その状態でよくまあ平然と戻ってきたね」
「だって親分、こっち利き手じゃないもん。使えなくても何とかならぁ」
右手をぶらぶらさせながら彼は言ったが、一瞬顔をゆがめた。動かした弾みに痛みが走ったようだ。
「あんな状態で何時間も馬に揺られてりゃ、そりゃあ腫れるね」
そう言うと、彼女は彼に膏薬を手渡した。
「雪豹、これを塗りな」
「これは――」
「お察しの通り、驪龍先生の薬」
それを聞いて雪豹と呼ばれた青年は露骨に嫌な顔をした。
「何、その顔は」
彼女は細く長い指で彼のおでこを弾いた。
「仮にも命の恩人だろうに。そんな不義理なヤツここから追い出すぞ」
「解ってるよ」
雪豹は諦めたように膏薬を塗りだした。彼女には逆らえない。
彼女はその華奢な体からは容易に想像できないが、女狐という通り名で西域北道を中心に活動する盗賊団の長であった。盗賊と言っても、いわゆる「義賊」を標榜しており、虐げられた者たちを守るために、百人近い荒くれ者たちを率いていた。
「ただ、あっちはこっちのやること、全部お見通しでさ。今だってこう、先回りして薬用意してたりするじゃん。正直、腹心地悪い」
しかもその薬が良く効くとくる。雪豹は溜め息を吐いた。
「それにさ、こんなガキなんだか年寄りなんだか、訳分からん見てくれになったのだって……」
「命と引き換えだろ」
女狐はそう言って、彼の白髪頭に手を置いた。
「頭じゃ解ってるんだよ。だけど二年経ったってこの体には慣れない」
その言葉を聞いて、彼女は頭に置いた手でその白髪頭をぱしんと叩いた。
「――で、今日は千騎を六人で相手してきてそのザマか」
「いや、千騎は切ってたよ。七、八〇〇程度」
叩かれたところをクシャクシャにかきむしりながら、雪豹は答えた。
「だからって多勢に無勢だろ。他の連中は何して――」
「数の多寡なんて関係ないさ。むしろ多ければ多いほど足手まといにならぁ」
「へぇ……」
「下調べと仕込みすりゃ、六人だって楽勝さ」
雪豹はニヤリと笑った。
「攻めるところ、要するにこっちが一番欲しいもん1点に狙いを定めて、罠使って隊列の前後を分断。
相手がビビっているうちに、俺と兄貴で斬り込んで隙を作る。で、隙を突いて、摩勒にそれを盗らせた後、胡忇が引き継いで全速力で逃げてもらう。
胡仂はあんなんだけど、馬に乗らせりゃメチャクチャ早いからね。これで八割方成功。 後は、石亀・|蜉蝣の二人に弩で援護してもらいつつ、三人で逃げ出せばいいだけ――ほら、六人で充分だろ。今日はこんな感じ」
「――の割には、ボロボロになって帰ってきただろうに」
傷だらけな雪豹の姿に、呆れた様に女狐は言った。
「そう、そうなんだよなぁ」
白髪頭を掻きながら、雪豹はぼやいた。
「思ったより薛延陀の連中は強くってさ。逃げ出すのに余計な手間がかかっちまった。あともう一人、腕の立つヤツがいたら楽だったんだけど」
「じゃあ、次からはもう一人ぐらい連れて行くんだね」
「親分、来てくれるの?」
「はあ? 何で」
「だって、他の連中じゃあ、俺らの動きに付いてけない」
「だからって、私がアンタみたいな嘴の黄色いヒヨッコに使われる筋合いはないな」
両手で雪豹の頬を叩きながら、彼女は舌を出した。
「ま、褒め言葉として取っておくよ。私は今回の指示を出したが、動くつもりはないしね」
唐の北、草原地帯は突厥が東西に分かれて支配していたが、貞観四年に唐が東突厥を下すと、その勢力図は大きく変わった。東突厥は唐より任命された可汗が支配するところとなったが、それに取って代わろうとする薛延陀との争いが絶えることは無かった。
そして貞観十六年、薛延陀の真珠毗伽可汗は唐の宗室との通婚を望み、太宗はそれを受けた。そこで可汗は結納金を用意するため、部民から羊や馬などを強制的に集めて始めたのだ。
それを面白く思わなかった女狐は、手下たちにその妨害を命じた。そして返せるものは部民たちに返すようにとも。しかし、いつもなら自ら先陣を切るような彼女が、今回に限っては、岩窟を改築した根城 一歩も出ることなく、ただ手下たちの報告を待っているだけであった。
「って言いながら、ほんとは動きたくてうずうずしてるんじゃないの?」
女狐は返事の代わりに、雪豹の頭を軽く叩いた。
「ところで、こんなに頭の回るあんたが、こんだけ傷だらけになってるってことは、思うようには行かなかったってことだろ?相方はどうした?」
「お察しの通り」
頭をポリポリ掻きながら雪豹は答えた。
「ま、兄貴の怪我はいつものことだから、俺と石亀で適当に手当てしておいた。問題ない」
「何だ」
拍子抜けしたように女狐は言った。
「黒豹の分まで、薬貰ってたのに、つまらん」
そう言いながらも、彼女はその薬を彼に渡した。
「ま、あんたはともかく、驪龍先生は黒豹の様子を気にしてたから、たまには先生のところに顔出しな」
「俺はともかくって……」
「ふふ。どっちも死にかけてはいたけど、黒豹の方が酷かったからね。ま、“ほぼ死んでた”ヤツがあんだけ暴れ回ってりゃ、普通は大丈夫かと思うだろうけど、実際は」
「解ってる」
女狐の言葉を遮るように雪豹は言った。
「命と引き換えに払った代償は何だったか解ってるし、これから先も払い続けるものがあるってこともさ、解ってる」
「あんたは解ってても――」
「俺が解ってりゃ良いんだよ。兄貴は何も考えなくていい。面倒くさいことは俺が全部考えるから」
「――ったく」
「でもさ、何で驪龍先生は俺らのことこんなに気にかけてくれるんだよ?」
「そりゃあんたらと違って、責任ってもの知ってるからね。関わった以上は最後まで面倒見てくれるはずだよ」
「はぁん、そんなもんかよ」
「そんなもんだよ」
「でもさ、そもそもあんだけの人が、親分と知り合いってのが不思議だよね」
「はあ? どういう意味さ」
女狐は雪豹の鼻を抓んだ。
もともと雪豹と黒豹、そして石亀と蜉蝣の四人は唐が高昌国へ出兵したときに従軍していた漢人だった。雪豹は敵に捕らわれて拷問を受け、半死半生でうち捨てられたところを、黒豹たち三人は自分たちの部隊が西突厥軍に壊滅させられたところを、それぞれ女狐に拾われていた。特に黒豹は生き埋めにされており、息があったのが奇跡とも言っていい状態であった。その彼を蘇生し、治療に当たったのが驪龍であった。
「だって、驪龍先生は宗室の――」
と、雪豹が言いかけた時、階下から怒声が響いた。
「おやおや」
女狐は苦笑した。
「“頭”が離れちまっているからかね。あんたの相方がぎゃあぎゃあ騒いでるよ」
雪豹も聞き慣れた怒鳴り声を聞いて、苦笑いを浮かべた。
女狐たちの根城は、岩窟を削って作られていた。楼閣造りで女狐の部屋は上に作られており、階下は広間になっておりほとんどの手下たちはそこに屯していた。
雪豹が広間に来ると、今にも暴れ出しそうな黒豹を、石亀、胡忇、摩勒の三人で必死に抑えていた。
「何があったんだよ?」
雪豹は、側にいた蜉蝣に事の次第を尋ねた。彼らはだいたいこの六人で動くことが多い。
「あ、戻ってきてから兄貴少し寝てただろ? で、今さっき起きたら、飯がないって騒ぎでさ」
「飯がないって、先輩たちみんな肉喰ってんじゃん」
「そそ、みんな牧民を直接襲ってるからな。あの連中、金は無くても肉はたんとある」
それを聞いて、雪豹は思わず吹き出した。
「で、こっちは金目のものしか盗ってないから、肉は無い」
「だな」
「んで、先輩が今日盗ってきたのと肉交換してやるってんで」
「兄貴はそれをやろうとしたと」
「そそ、で、あの三人はそれを必死に止めてるというわけだ」
雪豹は深く溜め息をついた。
「高昌行けば、もっと安く買えるのに、あのバカ……って、なんでお前は止に入らない」
長身の黒豹に次いで背の高い蜉蝣が、ボケッと見てることに雪豹は突っ込んだ。
「だって、俺、力ないもん」
「お前より力ない胡忇だって止めてるぜ」
「アイツはただ、兄貴に抱きつきたいだけ」
雪豹は思わず溜息を吐いた。胡忇らしいったら|胡忇《あいつ)らしいが。
「それに、こんだけ騒いでりゃ、すぐお前が来るだろ。兄貴を止められるのはお前ぐらいだし」
蜉蝣のこういう合理的な面、雪豹は案外嫌いじゃなかった。
「んじゃ、お前のご期待に添いますかね」
指をポキポキ鳴らしながら、雪豹は一歩前へ出た。と、彼の肩にポンと誰かが手を置いた。
横を向くと女狐がいた。彼女は彼を制すと、トン、と軽く飛び上がった。ふわりと宙に浮いた体は、急旋回をし、黒豹の顔面に強烈な蹴りを喰らわせた。強い一撃は、そのまま黒豹と彼を抑えていた三人もろとも壁まで勢いよく飛ばした。
(やっぱ、親分、格好いいし、えげつない)
雪豹は思わず口笛を吹いた。黒豹は、生き埋めになったときの後遺症で、左の顔面に潰れたような大きな傷跡があった。女狐はわざわざその古傷を狙って蹴りを入れたのだ。
女狐は、賞賛のまなざしを向ける雪豹を冷たく一瞥すると、顎で黒豹の様子を見るよう合図した。
(はいはい、早速さっきの薬と使えってことでしょ)
雪豹は薬を懐から取り出すと、蜉蝣と一緒に壁にもたれて唸っている黒豹の所へ行った。
女狐は、黒豹の様子を確かめることなく、広間の上座に座っている男に目を向けた。そして大きく跳ねるようにそちらへ向かうと、勢いよく踵を落として、男の目の前の卓を砕いた。
「――扇鶚よ」
女狐は、砕いた卓の破片に片足を乗せると、男の名を呼んだ。
「新参いじめを肴に呑む酒は旨いかい?」
その言葉に、扇鶚はさあっと顔色を変えた。
「……いや、それは、違……」
「今回の件は、あんたに任せてたが、この騒ぎはどうも気にくわない」
彼女は冷たい視線を彼に投げかけながら続けた。
「あんたはどうやら、手下連中に好き勝手やらせて、自分はのうのうとしてるようだね。この騒ぎを収める力量もないわけか」
彼女は剣を取り出すと、彼の頬をすっと撫でた。その動きに合わせてヒゲがはらはらと落ちていった。
「あんた、私と何年一緒にいる? 古株がド素人でもできるようなことやって、去年一昨年ここに来たようなアイツらが、千騎を相手に大立ち回りしてるってどういうことかね」
「だけど、親分……」
脂汗を流しながら、彼は答えた。
「弱い者を扶けろと常々言われているとおり、牧民たちの羊馬を守るために動いているのです。牧民たちから一旦羊馬を奪って、一部礼に貰って後は返すということをやっており――」
「再度徴収されないよう、頃合いは測ってるんだろうね?」
女狐の言葉に、扇鶚は言葉を飲んだ。その様子を彼女は鼻で笑った。
「だからド素人と変わらないってんだ――雪豹!」
女狐は黒豹の顔の傷を冷やしている雪豹に声をかけた。
「あんたら、千騎を相手にお宝奪ってきたが、羊馬はどうした?」
「え、ああ――」
雪豹は扇鶚を横目で見ながら答えた。
「どうもこうも、多勢に無勢だから、商胡(しようにん)たちの商いの成果を奪うので精一杯。そこまで手が回らないっすよ。でもさ……」
雪豹は口元に不敵な笑みを浮かべながら続けた。
「騒ぎ起きれば、当然羊馬だって逃げるじゃん。だから、情報だけha流しておいたよ。牧民連中に。多少は取り戻せるかもよってね」
「――だってさ」
女狐は扇鶚を見下ろしながら言った。そして彼をじっと見つめながら、しばし黙り込んだ。彼は自分の首が飛ぶかもしれぬと思い、全身から汗がしたたり落ちるのを感じていた。
静寂と共に、えも言われぬ緊張感が漂った。
「――つまらん」
女狐は唐突に呟くと、扇鶚からふいっと顔を背けた。
「嫌な空気」
そして彼に向けていた剣をしまうと、スタスタと黒豹の方へ歩いて行った。
「表行くよ。なんか旨いものおごってやる」
そう言うと、無理やり黒豹を引っ張って表に出て行った。雪豹も慌ててそれに続いた。
「――で、親分。結局どこへ行くのさ」
雪豹は高昌で飲むと思っていた。しかし女狐はそこで酒や肉を買うだけで、そのまま城市を出て、北の山の方に向かい出した。
「どこって、別宅」
「じゃあ、本当だったんだ。親分が高昌の北を根城にして、王家の仕事を裏でやっていたっていう噂」
「私じゃないよ、それを請け負っていたのは、阿兎。私はただ、適当に手を貸してただけ」
「……阿兎って、兄貴連中が“御曹司”って呼んでたヤツのこと?」
「御曹司ねぇ……あの子はそんなタマじゃないけどな。アイツら、お前らに何を吹き込まれた?」
「何って、俺らが来る前、親分は別宅に御曹司を囲ってて、高昌王家とつながってなんかやってるって……」
女狐はその言葉にフンと鼻を鳴らした。
「まあ、当たらずしも遠からずか」
噂ってのはと呆れながら、女狐は続けた。
「身一つで西域に来たときに、たまたま遭って助けたのが高昌王家の公子とそのお付きでさ。公子と阿兎以外はみんな死んじまったけど、その縁が続いていただけさ」
「え、じゃあ――」
「その二人はもう、ここにはいないよ。いまは千泉の方にいる。あっちにゃ西突厥がいるからね。二年前、唐軍が攻め込む前に、何とか送り出せた」
「何々? どういうこと?」
「何だよ、詮索好き」
「親分が分かるように話さないからでしょうに」
「何で、あんたに話す必要あるのさ?」
「ここまで話して、話す必要ないなんて方がおかしいよ」
「ああ、煩い」
耳を塞ぎながら女狐は言った。
「気が向いたら、酒の肴にでも話してやるよ」
そう言うと、女狐は急に道を外れた。
「え? どこへ行くのさ!?」
雪豹は驚いて声を上げた。だが女狐は構わずどんどん山の方へ入っていった。
「そっちは道じゃ……」
雪豹が慌てる中、女狐は黙って付いてくるように仕草で命じた。
「大丈夫です。ちゃんと通る道がありますよ」
躊躇っている雪豹に、後ろから胡忇が声をかけた。そして彼は雪豹の前に出ると、女狐に続いて道なき道を進んでいった。
西突厥出身の胡忇は、こと馬の扱いに関しては女狐の手下たちの中でも右に出る者がいなかった。彼はどんな悪路でも風のように軽やかに馬の足を進めることができた。
一歩足を踏み間違えば、真っ逆さまに落ちてしまうような険しい山道でも、彼について行けば間違いない。雪豹は腹を決めて彼の後に続いた。
荒涼とした山肌が続く峠を越えると、急に鬱蒼とした森林が目の前に広がった。この辺りでは水脈や日射しの加減で、植生がガラリと変わる。しかしそれにしても、この変わり様は何か妙だ。雪豹は言い表しようのない違和感に苛立った。
女狐は一本の大樹の根元で立ち止まると、何かブツブツと唱えだした。雪豹は彼女の言葉に聞き耳を立てると、どうやら自分たち四人の名前を順番に違えながら何度も言っているようだった。
それから彼女は何かを大樹に当てた。と、木々や草がざわっと動いたように雪豹は感じた。
感じただけで、実際は何も動いていない。風もなく音も無い。違和感のもとはこれだと雪豹は気づいた。
生きているもの、動くものの気配が一切感じられないのだ。
女狐は後ろを振り返ると三人に言った。
「ここから先、一歩間違うと出られなくなるからね。絶対離れるな」
「――え!? 何? どういうこと?」
雪豹の問いかけに答えることなく、女狐はどんどん先へ進んだ。
彼女の言ったことは冗談ではない。ここは間違いなくヤバイ場所だと直感した雪豹は、見失う前に慌てて馬を駆った。
そうしてしばらくすると、木々が切れ、ふいに目の前が開けた。
「……うわ」
それは懐かしい、中原風の屋敷だった。西域ではあまり見ることができない建築。
「どうした? 懐かしさの余り泣けてくるかい?」
呆然としている雪豹を、からかうように彼女は言った。
「これだけの建物、こっちじゃ建てられないからね」
木造の太い柱を撫でながら女狐は言った。
「唐から西域に持ってきたんだよ」
「――持ってきた!? こんだけの建物、どうやって?」
「さあ……?」
「さあ? さあってどういう意味?」
適当な返事をする女狐に、雪豹は詰め寄った。しかし彼女は臆することなくしれっと答えた。
「だって知らないからさ。全部紫陽先生にやってもらった――」
「あーっ! やっぱり!!」
女狐の声を遮るように雪豹が大声を上げた。
「何か妖しいと思ったら!! ここら一帯、あの先生が術かけてるんだろ? 八門とかその辺か――いや、さっき俺たちの名前唱えた回数と順番から考えると陰陽五行相生相克の理も入ってるよな……」
「ああ、やだやだ、これだから頭の回るヤツは面倒くさい」
手でシッシッと追いやるような仕草をしながら女狐は呟いた。
「変な詮索してる暇ありゃ、さっさと中にお入り。あたしは喉が渇いたんだ」
そう言うと、古くて重い扉をぐっと押した。
「ここに入るのは二年ぶりだけど、埃っぽいぐらいで変わっていないな」
ホッとしたように女狐は呟いた。灯りにぼんやりと浮かぶ室内は、外観とは打って変わって西域風になっていた。雪豹は揃えられている調度品はどれも上物だと気づいた。
「埃なんて俺ら気にするわけないよ」
高昌城市から持ってきた肉や酒を運びながら雪豹は言った。
「気になるのはここにあるものだね。どれもかなりの上物じゃん、親分、どうやって揃えた?」
「揃えてなんかないよ」
毛氈に腰を下ろしながら女狐は答えた。
「ほとんどが福公子からのもらい物だし、みんな阿兎のモノ――千泉に持って行けないからって置いていったもんだよ。もう要らないから、欲しいモンあったら好きに持っていきな」
「へ?」
「もともと処分頼まれてたんだよね、二年前に。でもさ、阿兎たちを見送った後にあんたたちを拾っちまったせいで、何だかんだで機会を逃しちまった」
女狐はふぅっとため息を吐いた。
「もういい加減片付けないと……って思い立ってね。夜が明けたらこの屋敷ごと全部燃すから、気に入ったモンは持って行きなよ」
「何だよ! もったいない」
「だから、好きなモン呉れてやるって言ってるじゃないか」
雪豹の剣幕に女狐は呆れた様に言った。
「違うって! ここら一帯にかけられてる術だよ」
彼は興奮しながら続けた。
「こんだけ見事に隠しきってるなんて、いろいろ使えるじゃん。燃やしちまうなんて……」
「燃やすよ」
女狐は雪豹の鼻を抓むとニヤリと笑った。
「ここは阿兎を守るために、紫陽先生に設えて貰ったもんだからね。それ以上は望んじゃいけないってもんさ。
そんなにこの術式が気に入ったなら、驪龍先生にやって貰うが良いさ。あの人のことだから、もっと“えげつない”ものを作ってくれんじゃないかい? あんたたちにぴったりのね」
「まあ、驪龍先生ってもともと武張った人だけどさ……」
彼女の手から逃れようと、顔を振りながら雪豹は続けた。
「俺らの言うこと簡単に聞いてくれる人でもないぜ――てか、何で親分はあの二人と仲が良いのさ。二人とあの茅山で最高位にいた人たちだって聞いた。そんな奴らとどうやって……」
当時、道教の最高峰は茅山に本拠を置く上清派であった。驪龍も紫陽も上清派の次期教主候補として名が上がるほどの人物であったが、二人とも長になるのを望まず茅山を去った。紫陽は白日昇天して仙界の住人となり、驪龍は西域に渡り、高昌近くの山中に庵を構えて無為自然のまま暮らしていた。
「何度も言ってるだろ、古い知り合いだって。二人が八大高弟だなんだと言われる前からの付き合いさ。そういや、あたしがこっち来た切っ掛けもあの人たちだったかも……」
「はあ!?」
女狐の言葉に、雪豹は驚きの声を上げた。
「何それ、切っ掛けって。初耳なんですけど? どうしてそう言う重要な話、話してくれないんだよ」
「何でわざわざ言う必要があるのさ」
「あるよ!」
「ない! ――ったく、あんたはしらふの方が面倒くさい」
盃に酒をなみなみと注ぎながら女狐は言った。
「ほら、兄貴分はさっさと始めてるよ。あたしらも始めようじゃないか」
そして雪豹に盃を渡すと、黒豹の方を指し示した。いつの間にやら黒豹と胡忇が酒宴を始めていた。
「兄貴ぃ、何勝手に始めてるんだよ」
青筋を立てながら、雪豹は背後から肘の部分を使って黒豹の首を絞めた。黒豹はぞれを頭突きで躱した。
「何って、気がつきゃ目の前に酒があれば飲むに決まってるだろ」
「はぁ?」
「いやさ、俺、ここまでの記憶が全くなくてここがどこだか知らんのだが、とりあえず酒があるから呑む」
「はぁぁぁぁ?」
黒豹の言葉に驚きながらも、彼は女狐に蹴り倒されてからしばらく朦朧としていた感じだったことを思い出した。
「胡忇が上手いこと馬二頭操ってここまで連れてきたんだもんねぇ。ほんとに、良い子」
女狐が胡忇の頭を撫でると、胡忇も嬉しそうに笑った。
「胡仂、お前相変わらず呆けてるな。そもそも親分が思いっきり蹴り入れたから兄貴があんなになったんだろに」
「あれくらいしないと、このバカ止められないだろ」
手酌で酒を飲みながら、女狐が口を挟んだ。
「ああ、そりゃそうだけどさ」
雪豹は女狐の手から酒瓶を奪い取ると、そのまま彼女の盃に酒を注いだ。
「いいさ、この呆けた連中放っておいて、サシで飲もうぜ。で、さっきから言葉濁してること、全部聞きだしてやる」
「ああ、何それ。うざい。あんた今日はヤケに絡むじゃないか」
そう言いながらも、女狐は注がれた酒を一気に飲み干した。
その間に、目の前にいた雪豹の体が引きずられてどんどん離れていった。「呆けた」という言葉に腹を立てた黒豹の仕業だった。すぐさま雪豹も反撃に出た。
やり合う二人の姿を見て、女狐はゲラゲラと笑い出した。
「こっちの話は、そっちが片付いてからだね」
空になった盃に、胡忇がもう一杯と注ぐと、女狐がまたそれを飲み干した。
(ほんと、面白い連中)
どんな強い酒を何杯飲んだところで、彼女は酔うことはない。それでもこの一時が楽しくて仕方なかった。
こうやって車座になり、巫山戯ながら酒を酌み交わす。たわいもないバカ騒ぎ。
こんなこと、二十年前の自分では考えられないことだった。あの頃は、まさか自分が人として、巷間に生きるなど考えも付かなかった。
そう、彼女は“人”ではなかった。
武牢関近くに居を置く妖狐の一族。人を惑わし精気を喰らう物の怪だった。
しかし、彼女は“妖狐”として生きることに疑問を持っていた。そんな彼女を救ったのが、紫陽との出会いであった。
そして――
あの日、衡山でのこと。
そこで彼女は“妖狐”を止めるきっかけを得た。紫陽とその弟弟子の驪龍、そして自分。この三人の巡り合わせ。
それは昨日のことのように思えるし、遙か昔のことのようにも思えた。そして全てのことがあの日から続いている、
女狐は酔った振りをして、あの日のことに想いを巡らせた。西域(ここ)とは違い、緑あふれるあの山中から始まったことを。
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